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真理に近づくための直感?──『神経美学』読書感想文

美とは何か。
永遠に解決しなそうなこのテーマを下記のようなアプローチで研究していくのが神経美学という分野だという。

神経美学で扱う問題とは、実際にはとても限られたものです。
それは、「美の体験はわたしたちにどのような影響を与えるのか」、「どのような脳の活動がわたしたちの美の体験と関わっているのか」、また、「どのような脳の働きがわたしたちに美の感覚を生じさせているのか」といった問題です。
〜中略〜
神経美学は、まずその感覚自体に対応する脳のはたらきを解明することから始まりました。

1.神経美学とは(p.4)

「美は主観的な感覚である」と私たちは捉えることが多い。
その定性的な感覚を、脳から調べる。
そこからどんなことがわかるのか、とても興味をそそられる。

美しさを感じる脳の部位

実験の参加者が「美しさ」を感じている場合だけ、前頭葉の下部、眉間の上あたりに位置する脳部位「内側眼窩前頭皮質」とよばれる部位が活動するということが明らかになったのです。

2.視る美と聴く美(p.19)

美しいという感覚は、表面的には言語でフワッと相互に共有することしかできないが、実は人間に共通の脳の活動としてもちゃんと現れているらしい。

視覚美と聴覚美でそれぞれ複数の脳部位、たとえば視覚皮質や聴覚皮質などが活動していました。しかしそのなかでただ一箇所、内側眼窩前頭皮質の一部分が、絵画、音楽に開係なく、美の体験に対して常に反応することが発見されたのです。この活動は、どの人種の、どのような文化で育ってきたか、どのような教育を受けてきたかといった、後天的なことには依存しないということもわかっています。

2.視る美と聴く美(p.24)

美しさの尺度は人それぞれであれ、「美しいと感じること」が人類にとって普遍的な感覚だというのはなんだかうれしい。

オイラーの等式やピタゴラスの定理が、バッハの交響曲やモネの睡蓮とおなじように美の文脈で語られることはそう多くはないでしょう。数学方程式は、ほとんどの人にとっては無味乾燥で、高度に抽象的で、その美は容易にはアクセスしがたいものなのはたしかです。しかし、 〜中略〜 美しい方程式を解く数学者の脳のなかでは、芸術の美がひきおこすのとおなじ特徴的な反応を見つけることができるのです。

視えない美(p.32)

「美しさの尺度は人それぞれ」と先ほど書いたが、あまり一般的ではない、他者とは違った観点のニッチな「美しさ」を感じた時も、同じく脳が反応しているというのはおもしろい。

きっと、私がシンデレラフィットの収納家具の中にピタッと整理整頓されたクローゼットに感動している時も、同じ脳の部位が働いているに違いない。

美は絶対評価ができない?

しかし以下のような話を読むと、脳が反応する「美しさ」はやはり超主観的なのだと思わざるを得ない。

例えば、連日満員御礼でコンサートを行っている有名な演奏家が、ストリートで路上演奏家に扮して同演目の演奏を行うという実験。40分で32ドルの興行成績だったという。

わたしたちの感性が文脈という情報に強く依存していることをよく示しているといえます。 〜中略〜 おなじモノなのに。その状況と与えられる知識によって、印象も評価もがらりと変わってしまう。端的にいえばわたしたちには、耳から入る音色を楽しんでいるのではなく。「ジョシュア・ベルが弾いている」という文脈が与える情報を楽しんでいるといえる部分があるのです。

4.うつろう美の価値(p.42)

有名な評論家が太鼓判を押した芸術作品は、その良さがよくわからなくても「いいのかもな」と思わされるし、この曲いいんだよ!と友人に強く勧められたら「いいの……かもしれない」と思ってしまう。

抽象画などは、幼児が描いた絵と著名な作家の絵を並べて見せられて、自分が幼児の方が良いなと思ったらそれはそれで正解なのではないか。ぶっちゃけ作者を伏せられたらどっちがどっちの作品かわからない自信しかない。

うーん、結局、美しいってなんなのだろう。
そんな芸術素人を救う一言がちゃんと用意されているのが優しい。

ひとりの美術批評家の言葉を思いおこさせます。それは、クライブ・ベルののこしたアンビバレントな以下の言葉、「芸術を一番楽しむことのできない人種は、実は美術史学者である。なぜなら彼らは知りすぎているからだ」です。どうやら専門家たちには失ってしまったものが何かありそうに思えます。そして、それにわたしたち大人の多くが失ってしまったものなのかもしれません。

「生まれたときから散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落とせば落とす程写実は深くなる.写実の遂及とは何もかも洗ひ落として生まれる前の裸になる事、その事である」高島野十郎

5.知識の監獄(p.65)

芸術に優劣はないというけど、まっさらな気持ちで、楽しめばいいらしい。
「美しい」と感じることは、単純に気持ちがいいしね。

本書の7章「快感と美観」で言及されているように、美と快感は必ずしも同期するものではないらしいけど(不安を煽るようなネガティブな美というものも存在する)、快を感じる美というのは存在するし、そういうものを素直に浴びることは美容にも健康にも良さそうだし。

……なんだか超絶主観的な感想を述べてしまいましたがw
同じ章で、興味深く感じた部分。

(快を感じる体験同様に)美の体験にもふたつの異なるタイプがあり、生物的欲求にもとづく普遍性の高い美(生物学的美)と、文化や学習などの後天的なものに影響される社会的・内的美(高次の美)とに分けることができそうです。

7.快感と美観(p.100)

前者は、子孫を後世に残すための生物的な本能から生じる「美」。
特に顔の造作などは、心理状態・健康状態が現れるなどの点で、パートナー選定の重要な項目になり、異なる文化的背景を持つ人の間でもばらつきが少ない、比較的「普遍的な美」であるという。
一方で、道徳や数学などに感じるような後者は、生命維持などの本能には直結しない。

前者と後者では脳の反応にも微妙な違いがある(前者は腹側線条体と眼窩前頭皮質の両方が、後者は眼窩前頭皮質のみが反応する)。
反応からしても、明らかに分類できる2つの美の感覚のうち、後者は一体なんのために存在するのか。

神経科学でもまだ解けないというこの問いは、本当に興味深い。

真理に辿り着くための直感

最後に、科学的根拠はないということを断りながらも、人間が直感的に感じる美が真理に繋がっているのかもしれないという例として本書で挙げられる、ヘルマン・ワイルのエピソードを。

「わたしはいつも、真実を美と続一しようと試みてきた。しかし、どちらか一方を選ばざるを得ないときには、わたしはいつも美を選んだ。」
彼の論文の発表後、量子力学の発展を待って、ヘルマン・ワイルの理論はようやく学界に受け入れられることになります。その美しからではなく、その正しさから。

12.美の認知神経科学(p.157)

この世の真理に近づく手がかりが「美しい」と直感的に感じる感覚には存在する。──なんて設定、科学的ではないけど、ロマンを感じて好きだ。


カバー写真:Image by dae jeung kim from Pixabay


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