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得したこと ~退院の明くる日に想う

 日記というマメな習慣は続いた試しがない、と書いた。
 自意識上では間違いのないことだが、客観的には少し事実に反するような気もする。
 その時々で、事実と感想を織り交ぜた短文を暇に任せてしたためていたことがあるようだからだ。
 昔それを漠然と『遺詞集』という題名を冠して書いては印字する習慣があった。

 今日その一篇の短文が目についたので転記してみたい。
 日付は1994年10月20日とある。
 この二ヵ月前の8月某日、私は職場に出勤途上に交通事故に遭った。
 私はミニバイク、相手は自動車という人身事故で「サンキュー事故」と呼ばれる種類の事故だ。
 渋滞する車列の隙間から右折する対向車と、側道を走るバイクがぶつかる事故である。
 車間をあけ、右折車両に道をあける第三者の不注意な善意が作り出す事故で、事故原因を作った車両は一切事故責任は問われない。
 譲られてその通りに進んだ車が7割、その危険性があることに注意を払わず速度を落とさなかったバイクが3割の過失という判例がある事故を「サンキュー事故」と呼ぶらしいと聞いた。
 怪我をしたり死んだりするのはバイク側だけで割に合わない事故である。

 私は路上に投げ出され両脚を強打し、負傷した。
 救急車でJ整形外科という事故専門の急性期病院に搬送された。
 姫路の浜手の工業地帯にほど近い整形外科で、労災の患者が主だったようだが交通事故負傷者も多かった。
 診断の結果右脚膝裏の靭帯を剥離骨折し、手術が必要となり2カ月の入院が必要となったのだ。朝の回診のおり毎回聴くので「PCLのアバルジョン」とカルテをめくるのに手間取る医者に向かって自ら説明するようになった。
 その入院治療を終えて、退院した明くる日に書いた文章のようだ。
 文章に「あのひと」と「あるひと」が登場するが「あのひと」とは福本という名の腹の出た中年男性で、私が入院する前に労災で入って来ていた人だった。機械の隙間に手を差し込んだ時作動し、右手の3本の指を失う負傷をし、その治療で長く入院して入院病棟の主のようになっていた人だった。
「あるひと」とは病院に勤務する竹本という名の若い美人の看護婦だった。  彼女はもちろん未婚。
入院した当時私は31歳だった。

「得したこと~退院の明くる日に想う」

「100パーセントお互い好き同士でなくてもいいではないか。仮にお互い30パーセントしか好きでないのだったら、1パーセントでも自分の方が相手のことを多く好きでいようとする。そのほうが得じゃないか」
 退院を間近に控えたあのひとの病室で、恋愛について、結婚について、そんなことを言われた。
 私にはできないことだと思った。
 「これまでずっとそうやって生きてこられたのですね」
 「そうだ」
 きっぱりとあのひとは言う。
 子供がいないという。だからこのひとは、私なんぞに何度もこんなおせっかいな説教じみた話をするのだろうかと思った。
 いっぽうで、悪意が感じられなかったから、素直に言葉は心にしみてきもした。
 そうかもしれぬと思った。

 運、ということについて話した。
 運が悪かったのだ。
 突然右手を失ってしまったことの失意から、あのひとは六ヵ月を費やしてようやく、そういうふうに自分を納得させることができるようになったのかもしれぬ。
「ぼくには運ということはわからない。運が良いとか悪いとか。そう思ったことはあまりない。でも、縁ということはあると思う。自分がこうなったのには、何か意味があって、こうして入院したのも、そこで何かを学んで来い、ということなんじゃないか。例えば、今こうやって貴方と話をしているのも、ぼくにとって重要な意味のある縁なのであって大切なのはそれがどういった縁なのかについて、気づくかどうかだと思う。出会いには必ず何かの意味があって、無縁な出会いはひとつもない。ひとはただ嫌いだといって遠ざけたり、相手を誤解して、勝手に無縁なものにしてしまっていることが多いだけだ、と思う」
 貴方が右手を失ったことは、決して運が悪かったのではなく、宇宙の法則のような巨大な意志みたいなものが、そうなった貴方にしかできない何かをさせようとしているに違いない。何か大切な使命のようなものを与えられたのだと思う、と安っぽい慰めや勇気づけのつもりなどではなく、信条の一部を真面目に話した。
「ならば君の結婚の縁はどうなのか。結婚したくないから、相性が悪いとか適当なことを言って逃げているのではないか」
 あのひとはそう切り返してきた。
 どうも真意が伝わらない。
 どうしても私の結婚のおせっかいを焼きたいらしい。
 「いいひと」にもほどがある、と思った。

 家でごろごろとくだらないワイドショーなんか観ている専業主婦より外にでて働いているひとがいい。
 妻になにからなにまで面倒みてもらいたいとは思わない。
 ぼくが先に死んでも独りで元気に生きていくような、生命力のあるひとがいい。
 あのひとに、確か私はそんなことを言ったはずだ。
 だからかもしれない。あのひとの口から何度も「あるひと」の名が出た。

 嘘ではないが適当に言ったことだ。
 結婚などこれっぽっちも考えていなかった。
 ましてや、入院中に看護婦の誰かを摑まえようなどと思ってもいなかった。ただ、早く退院したいだけだったはずである。
 ところが退院を一週間後に控えたころから、なにやらおかしくなった。
 退院したくないのだ。「あるひと」のことを一日中考えるようになっていた。
 暇だからだ。秋めいた気候のせいだ。閉じ込められてほかの女性をみないからだ。心が弱っているからだ。池田さん一家が賑やかで楽しそうだったからだ。
 そう思ってみたし、確かにその通りなのだろうけれども、考えてしまうものは仕方がない。たいへん困った。

 勝ち気でおてんば。
 初対面で威圧感があって、患者に対して、何をされるかわからない不安を抱かせるポーカーフェイス。
 それもどうやら人見知りの激しさの裏返しらしいと思うようになった。
 贔屓目。あばたもえくぼだろうか。

 処置せず一時間もほったらかしにしておいて「ごめん」の一言がない。
 そのことに対する腹立ちも、ちゃんと巻いてくれた包帯の蝶々結びをみていると、不思議に和んでどこかへ行ってしまった。
 結婚しても仕事は絶対に辞めない、という。
 いい心がけじゃないの、と思う。
 自分の進路を親と教師に勝手に決められた、という。
 ふうん、これから貴女が自分の意志で築いてゆきたいことの、もしかしたら何か手助けになってあげられるかもしれないな、と思う。
 しかし「詰所に遊びに来て」とは、誰に向かって言った言葉だったのか。
 その気になって恐る恐る覗いたときはもぬけのからだったではないか。
 くそ、からかわれた、と思う。
 さらに日曜日、一階エレベーター前でばったり私服の彼女と出くわした夜、とりとめのないことを悶々と想い巡らし、次の日私は37.2℃の熱を出して思いっきり下痢をした。
 おまけに火曜日から一週間、私がいなくなるまで姿がみえない。
 どうしたのだろうと案じていると、退院した次の日に平然とした顔で出勤している。許せぬ。
 これは確かにちょっとした恋である。

 恋と呼べる経験をしたのは、かれこれ十年ぶりのことになろうか。
(作者注:正確ではない。想い起こせばその間多数あった)
 二十一歳のころのそれは「私はもうあなたのことは諦めたわよ」と諦めきれない男に見せつけてやるためのカモフラージュとしてのほほん顔の私が利用されることから始まった。
 私はやがてそのことに気づき許せなくなり、彼女は次第に私に対して本気になってくるという見事なすれ違いの最悪のパターンを踏んだ。
 無論、終わった。
 それからいろんなことが莫迦々々しくなった。
 相手は当時十九歳。そんな歳でうまくたちまわれるはずがない。
 ましてやゲームみたいに恋愛を楽しめるはずがない。
 あんなに憎むほど悪い娘ではなかった、と今では思う。むしろ、いいこ、だった。
 なにより、私は彼女が好きであった。
 最後まで好きとは言わなかった。俺はお前のことが断じて好きではないと突っ張っていた。
 そして、別れて、やがて卒業して、好きだったらしいという自らの感情を許す気になったのだった。

 相手がどんなつもりで近づいてきたとしてもいいではないか。
 相手より自分のほうがこんなにいっぱい好きだったんだから、それだけ得をしたのだ。
 退院して「あるひと」のことを想いながら、あのひとの言った通りのことを考えている。

 二十一歳のころのひとと「あるひと」は結構にているような気がする。
 私の前では嘘がなかったような気がするからだ。
 だから余計に好きである。もっと話してみたいと思う。
 一期一会かもしれないし、これからもなんらかの縁があるかもしれない。
 よくわからないけれども、久しぶりに恋などしたこと、そのことがとても倖せであることを「あるひと」の仕事の邪魔にならない程度に、ほどほどに伝えておこうと思う。
 私は痛い目をみて、入院して、とても得をした。
「あるひと」に訊きたいことがある。
 あなた、竹本なんていう名なの? 
 血液型は? O型?B型?
 また何か美味しいもの買っていくからね。
 ――1994・10.・20――

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