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節分の由来②

しかし 平安時代頃になると鬼を追い払う 役だった 方相氏は鬼として追い払われる側と変化していきます。

払われる側に落ちてしまった理由については 「方相氏が魔除けとして 葬送儀礼にも関わっていたために ケガレの対象として 忌み 嫌われるようになっていった。」 「恐ろしい風貌が邪鬼と同一視されるようになってしまった」などと言われています。
それと共に、 儺を追い払うという意味で追儺という名称が定着しました。
またこの頃から二十四節気という暦が用いられており、 節分とは本来その中の「立春 立花 立秋 立冬」の前日のことを指す言葉です。 新しい季節を迎えるために 邪気を払う目的で本来は 年に4回 行われていたそうですが、 旧暦で1年の始まりの時期とされていた 立春が特に重要視されるようになり、 現在の2月の立春の前日が「節分」として残るようになりました。 寒い季節で体調崩しやすいので 病魔を払うためにも立春を迎える用事としてふさわしいとされたのだと言われています。 現在でも「節分の日」を年越しという地域もあるそうです。 その後 中国でも様々な形で儺が広まるものの 1949年の中華人民共和国成立後は 迷信とみなされ 衰退し 現在では行われていません。 現在の中国では旧暦のお正月である 春節の行事として 爆竹を鳴らしたり花火を打ち上げることで厄除けが行われていますが、 私たちがイメージするような 節分行事を行っているのは日本だけなのです。 節分の前日に福豆(炒った豆)を枡に入れて神棚に供えておき、 当日に外に向けて「鬼は」外と巻き、 今度は家の中に向けて「福は内」と巻く。 何度か それを繰り返して最後に 歳の数だけ豆を食べると 1年間は健康に過ごせるとされているのが、 豆まきの一般的な作法です。 そんな節分の代名詞とも言える 豆まきですが 大儺共に伝わってきたわけではないのです。 室町時代に みんから伝わったとされています 幕府の時代に入ると 宮中での追儺は衰退し始め方相氏も消えていったそうですが、 節分に公家や武家の間で豆まきが行われていたことや 「鬼は外、福は内」の掛け声がされていたことが 室町時代の文献からも明らかになっています。 宮中行事としての 追儺 は 鎌倉時代頃には衰退し始め 江戸時代には全く見られなくなったそうです。

まだ続きがありますので明日投稿します。

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