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26歳の海外移住挑戦記 前編

はじめまして。本名がkから始まるのでkちゃんと呼んでください。

私は現在26歳、静岡県在住です。純ジャパニーズの私がなぜ海外移住に挑戦することにしたのか、将来の自分のために、また同じ志を持つ仲間のために書いてみようと思います。誰にも語ったことがない心の内を赤裸々に書きます、誰も読んでいないと思って…。

私が海外に移住しようと決意するまでの経緯 前編


いじめ、暴力を乗り越えた学生時代

生まれも育ちも東京、5人兄弟の2番目として育ちました。
下の兄弟が多かったため親に頼らず1人で何でもやることが良いことだと信じ、何でも自分でやり親を困らせないようにと子供ながらに意識していたように思います。今でも親には「手がかからない子だった」と言われることが多いです。

小学生で地元のミニバス🏀のチームに所属し、初めて『いじめ』を経験しました。親に知られたくなかったのでベッドの中でもう嫌だと泣いていたのを覚えています。
中学でもバスケ部に所属しバスケは続けましたが、バスケ部内の陰湿ないじめはありました。また、顧問は指導という名の暴力を振るってくる体育教師だったので、3年間顧問といじめに怯える生活でした。中学3年では強制的にキャプテンを任されていたので職員室では大声で理不尽な悪口を顧問に言われ、連日の暴力で顔や身体中にあざを作っていたのに、他の先生たちは苦笑いをし、知らんぷりをしていたことを今でも鮮明に覚えています。

中学時代の部活が悲惨だったこともあり、学校の授業はすごく楽しく感じ、勉強は好きで少し偏差値の高い都立高校に進学し、陸上部に転換したことで楽しい順風満帆な高校生活を送りました。

助産院に訪れる機会が多い幼少期を過ごしたため、自然と看護、助産の道に進みたいと思い看護学科のある大学に進学しました。看護師を本格的に目指し始めた時からアジアやアフリカでの人道支援や医療活動にすごく興味がありかっこいいと思っていました。
そのため、貧しいと言われている国を自分の目で見てみたいと思い、大学2年の春から卒業まで10カ国ほどのアジアの国々を一人旅やボランティアで渡航しました。長期休みのたびに貯金を使い切りながら海外に行き、バイトをしながら看護実習や2つの国試勉強との両立はハードでしたが、本当にこの時期に海外に行ったことは良い経験だったなと思います。航空券が安いアジアしかいけませんでしたが、東南アジアから始まり、スリランカ、バングラデシュなどは全てが刺激的でした。現地の人と同じ目線でローカルなところを旅し、貧乏バックパッカーをしていましたが見るものは全てキラキラしていました。

この頃は、「太陽みたいによく笑うね」「周りを明るくする力を持っているね」と言っていただけて、エネルギッシュな子だったなと思います。

ずっと気分が晴れなかったコロナ禍の看護師生活

大学卒業と同時にコロナ禍、看護師生活はコロナと隣り合わせでした。一般病棟、コロナ病棟と編成を繰り返し、それにより色々な科を経験できましたが、技術や知識がなかなか安定しないことが新人看護師ながらにとても不安でした。

あんなにも海外にハマった学生時代でしたが、看護師時代は仕事をしながら1人で生活していくのに精一杯で海外というものを忘れていました。

インシデントやミスを引きずりやすく、なかなか切り替えられない私は性格がどんどんネガティブになっていたと思います。

今思うと、子供の頃から学生時代まで、受験やバイト面接は落ちたことがない、学生時代は勉学やスポーツ面で何度か賞をもらい、なんだかんだ言って辛い部活や激しい練習に折れず挫折をしなかった経験、親には褒められて育ったという様々なバッググラウンドから、「自分は人より我慢強くて少しできる人なんだ、できていないといけないんだ」という固定観念があったと思います。自分自身に対するハードルは常に高かったため、仕事ミスをしてしまう自分がひどく許せなかったです。

コロナ罹患後の適応障害、うつ病の発症

看護師2年目からメンタルからくる身体の不調に気づいていました。
3年目の夏前、身体が限界になり数日お休みをしました。そこからクリニックで胃腸系の内服薬を常用する生活になりました。そこから自分なりに私生活を楽しくしようと友達や彼氏と意識的に出かけたりと意識し、徐々に回復していました。この頃に3年目が終わる頃には病院を辞めようと決断したのも大きかったと思います。

看護師3年目の年末、コロナに罹りそこからまたメンタルが弱り、自暴自棄が始まりました。コロナ療養後も心身共に「なんかおかしい、体調が悪い」と感じながらも勤務していましたが、すぐに本当に辛くなって休みがちになりました。精神科にかかり、こころの病気という診断をもらいしばらく休職しました。

こんな状況でも家族には言いませんでした。親に頼らない、手のかからない子を演じるというのは、大人になっても私の中で根強く残っていました。

年が明けて、何回か出勤しましたが一度挫折をしてしまうと、周りはやっぱり私を見る目が変わっちゃうんですよね。その目線に耐えられないし、メンタルが正常ではないので仕事がすごく遅くて後輩より上手く動けない自分に絶望していました。全部悪循環なんですよね。周りの先輩看護師は本当に優しくしてくれて私が働きやすいようにしてくれたこと、今でも本当に感謝しています。しかし私はその期待に応えられず、そのままフェードアウトするように看護師3年目の3月に退職しました。

長くなりましたので前編はここまでにします。後編は次の記事へ。

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