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親というもの

は、私の場合は雌雄のヒト科ヒト目の個体である。
私にそれぞれの染色体を、もとい遺伝情報を提供した。
私と極めて類似の遺伝子を持つ私とは他の個体である。

ここまでの説明ができなくとも、10歳前後で少なくとも「親は他人」と思うほどには擦れていた。
そのくらい、親というものに私は傷をつけられていた、ということにはしたい。

善意の申し出をよくない動機からくるものに解釈されるし、私の感じている感覚から来る悩みも跳ね除けられてしまう。
「気のせい」だと。
私に家事スキルを身につけさせるにも、何かスポーツをやらせるにもどうも折り合いが悪く、彼らから見た私は恐らく全く意味のわからない生き物だったのかもしれない。
あるいは理解の仕方がやはり違うものだったのかもしれない。脳の造り、神経構造が違う、とか。
夫婦間では日々喧嘩。彼らの喧嘩に巻き込まれた結果私ごと家を締め出されることもしばしば。
寝ている母が夕飯におりてきたと思えば罵詈雑言、父も同じに返す。私はそれそのものが危険で、当時は母ばかりを敵視した。
挙句の果てには母との取っ組み合いで首を絞めあげられるに至った。警察は何もしない。私は彼女と同じ屋根の下に居続けることになった。

結局、
あらゆるものが原因で身体を壊したのを「甘え」や「怠け」とまで言われ出す始末。

社会の人間たちも同様で、何か言われるのは私である。
酷く恨めしい。
こうまでものを言うようになったのは、発達しだした日本の福祉のおかげだろう。しかも、たまたま私が大学で社会福祉や臨床心理の知識を得たからそこにたどりつけたのだ。そうでなければどうなっていたろうか。

そしてまだそれらに苦しめられる。
怒りで動いてはいけないんだと思う。私が安心を得て、楽しいとか、それで人に役に立つ何かまでたどり着いて、多少辛いことにも体を壊さずに取り組むことが出来れば。

意思はあるのに、身体ばかりが壊れるのだ。

追記(2023.3.7)
幼い頃、母がよく銀杏並木のある公園に私を連れて行っていた事をふと思い出した。
ずっとこのように、酷い記憶と日常の記憶を行ったり来たりしている。
事象の構造はわかっている。何を思い出しても、何もかもがどうしようもなかったのである。
もはや、総て何も無いのに。
知識を得ないより良いのかもしれない。でも、得ても結局、もはや持つ必要すらないはずの苦しみが去ることはないらしかった。

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