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日本がJAPANと呼ばれるのは何故① 

写真:ジパングの黄金宮殿? 中尊寺金色堂(岩手県平泉町)

各国での日本の呼び方は

 最初に現代の言語で日本がどのように呼ばれているのかを見てみましょう。英語: Japan(ジャパン)、ドイツ語: Japan(ヤーパン)、フランス語:Japon(ジャポン)、スペイン語:Japón(ハポン)、ポルトガル語 Japão(ジャポン)、イタリア語:Giappone(ジャッポーネ) 、ロシア語: Япония(イポーニヤ)、中国語:日本(riben ルーベン)、韓国語:일본(ilbon イルボン)などです。若干の違いがあるもののヨーロッパでは呼び方がほぼ同じように思います。

 なんで外国人はNIPPON(ニッポン)と日本の国号を呼ばないのかと思わないでください。日本人だって、United Kingdomをイギリス、U.S.A.を米国と呼んだりしていますからお互い様です。

エッ!どうしてアメリカが「米国」ですって? 余談ですが、江戸時代に中国の書物ではアメリカの事を漢字で「米利堅」(メイリーケン:北京語だとミーリーヂェン)と呼んでいたからです。アメリカンがなまって米利堅(メリケン)になった?のではないかと思います。それが日本で、略して「米国」なったのです。ちなみに中国や台湾では、現在は「米」の字が「美」になって「美国」(メイグゥオ)と呼ばれています。その理由はまた今度お話します。

 それでは、時代をさかのぼって13世紀のヨーロッパでは日本のことをどのように呼んでいたのでしょうか? そのあたりにJAPANと呼ばれる秘密がありそうです。

東方見聞録(Il Milione)に黄金郷 ジパングの記載

 702年(大宝2年)に「日本国」からの遣唐使があったと記されていることから、唐の時代から日本が国号として用いられ、当時すでに日本(ニッポン)と呼ばれたのかもしれないことは、以下のリンクに書きました。

 次にヨーロッパに日本のこと記述され知られたのは、13世紀に発刊されたマルコポーロ(Marco Polo)の東方見聞録(Le Devisement du monde:世界の記述)に黄金の国としてジパングの記載があるのが有名です。

 1275年に元の首都である上都(ザナドゥ)に到着したマルコポーロ一行は、初代皇帝であるクビライハンに気に入られて役人として登用され、外交使節として元帝国はもとより東南アジアからインドまで各地を訪れて、クビライハンに見聞したことや珍しい文物を献上しました。

 1291年にマルコはクビライハンに帰国を許されるまで16年間、元にいたのですから当然のことながら当時の中国語は読み書きができたはずです。そこでは、元の東のはるか彼方の島国ジパングは黄金郷で、金色に輝く宮殿があるとも聞いたはずです。この金色に輝く宮殿とは、岩手県平泉にある中尊寺「金色堂」だったのではないかという説があります。

元朝時代の日本の呼び方はジパングだったのでしょうか?

 実のところマルコポーロの口述の『東方見聞録』は、早くから失われてしまい、写本・刊本によって内容は一定していません。アルド・リッチ英訳本では「Chipangu」、フランス国立図書館 fr. 1116 写本(14世紀、中世フランス語)では「Cipngu」、グレゴワール本(14世紀、標準フランス語)では「Sypangu」、ゼラダ本(1470年頃、ラテン語)では「Çipingu」、ラムージオ本(1559年、イタリア語)では「Zipangu」となっています。日本のローマ字でZIPANGUと表記しているのはラムージ本の表記を使っているものと思われます。

ところで、元朝時代(14世紀)のジパングの語源となった日本の読み方を見てみましょう。朱宗文 撰の韻書『蒙古字韻』(1308年)によると、「日」は ži (ジッ)入声、「本」は bun(ブン) 上声、「国」は guṷ (グッ)入声になるため日本国の発音はジッブングッになるはずです。この日をジッ、本をブンと読むのは、唐時代の南方の呉音とは異なり、北方の漢音の発音です。だいぶJAPANに近づいてきました。 
(日本がJAPANと呼ばれるのは何故②に続く)

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