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空気を読まずに言葉を交換する

2022年4月からある大学で演習科目(ゼミ)を担当しています。ゼミで学生に口酸っぱく伝えて意識してもらっているのが「表現」です。感じたことや考えたことを拙い言葉でもいいから、とにかく表現する。ゼミ中は感想でも疑問でも質問でも、発言を重視しています。掲示板(Blackboard)を活用して、ゼミ後にも振り返って考えたことを言葉にして、意見や想いを交換しています。
 
この国の人材育成の大きな問題として、年を取るほどに自分の想いや考えを表現する機会が少なくなることがあると考えています。仕事では様々な表現機会に溢れていますが、フォーマットやテクニックが整っているので、自分の想いや考えからは程遠くなることもしばしばです。自分の想いや考えを表現する機会の少なさは、自分の想いや考えを他の人と交換して深める機会を失うことにつながります。
 
東京大学梶谷真司教授は、『考えるとはどういうことか』(幻冬舎新書)という本の中で、思考とは自分自身との対話であり、「考えること」は、他の人との対話、「共に問い、考え、語り、聞くこと」だと説明しています。他の人に語り、理解されていくことで、自分が発した表現がはじめて意味を持つことになります。自分の想いや考えを深めるためには、自分にとっての意味だけでなく、他の人にとっての意味とすり合わせることが必要であり、その過程で言葉が洗練されて意味がより明確になります。

思想良心の自由が保障されているので、自分の想いや考えは誰がなんと言おうと自由なもののはずです。ところが、正解っぽいものを言えなくて恥ずかしい、意図せずに他の人を傷つけてしまうかもしれない、変な人や嫌味な人と思われてしまうかもしれないなど、他の人にとっての意味をあまりにも気にしているせいなのか、表現に対しては異様なまでの自己規制があるようです。
 
コロナ前のデータですが、表現しない一例として、総務省の『平成30年版 情報通信白書』にソーシャルメディアの利用状況を各国比較したデータがあります。イギリス、ドイツ、アメリカ、日本の比較のなかで、日本では見事に利用状況が低いです。


さらに、ソーシャルメディアの利用目的は、「暇つぶしができた」、「興味のある情報を得ることができた」など、見事に自分に向けられたベクトルが強くでています(ドイツの「暇つぶしができた」が一番高いのも面白いですが、ドイツでは外向きにも使われています)。
 


これらのデータはあくまで一例に過ぎませんが、他の人との言葉を交換する機会が少ない様子が現れています。
 
先ほど取り上げた梶谷教授は、同書の中で「誰にも受け止められない言葉は、結局ただ自分の中でぐるぐる回り、あてもなく中に漂う」と指摘しています。表現することなしに想いや考えを温めていても漂流するだけです。

一方で、表現すれば、足りない点を指摘されるかもしれませんし、反対意見にも合うかもしれません。表現することは勇気がいることですが、過激な言葉を避けながら表現すれば、逃げたくなるような反応に合うことはほとんどありません。悲しい事実ですが、自分以外の人は意外と気にしていません。万が一、大変なことになっても、真摯な表現であれば応援してくれる人も現れます。
 
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」です。言葉遣いが誤っていても、意味の分からないことを言ってしまっても、基本過ぎることを聞いてしまっても、聞かないよりは断然マシです。言葉を交換するからこそ、言葉に敏感になれますし、他の人にとっての意味を考えられるようになりますし、曖昧なことの理解を深めるきっかけを掴めます。
 
山本七平氏は『空気の研究』(文春文庫)で、言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成して決定基準となっている場合が多いと指摘し、空気の支配への抵抗は水を差すことだと喝破しました。「#me too」運動や賛否はあれども「#保育園落ちた日本死ね」は、まさに言葉の交換によって空気を一変させました。この国の閉塞感や既得権の強さは、言葉が交換されていないことも原因の一つなのではないでしょうか。

社会を変革するような言葉をいきなり繰り出すことはできないかもしれませんが、自分と関わっている人を少しでも幸せにするためにも、拙い言葉を恥じることなく言葉の交換を意識してみませんか。

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