見出し画像

コントラクトブリッジ界の3大有名プレイヤー〜バンダービルト・カルバートソン・ゴーレン〜

前回書いた「コントラクトブリッジもうすぐ100年の歴史」という記事で、ブリッジが誕生した1920年代後半から60年代にかけて、コントラクトブリッジの大ブームが起こった話を書きました。今回は、この時代に活躍し、コントラクトブリッジブームの立役者となった3人のブリッジプレイヤーを紹介したいと思います。この3人は、ブリッジ界に貢献した人や団体を表彰する「Hall of Fame」で最初に殿堂入りを果たした超有名プレイヤーたちなんです。

コントラクトブリッジの父 ハロルド・バンダービルト

まずは、コントラクトブリッジの生みの親、ハロルド・バンダービルト(Harold Stirling Vanderbilt, 1884-1970)です。
バンダービルト家は、ハロルドの曾祖父にあたるコーネリアス・バンダービルトが海運や鉄道事業で財を成した大富豪の一族でした。そんな一族に生まれたハロルドは大のヨット好きでも知られ、数々のヨットの競技会で優勝を勝ち取りました。その功績によって、ヨット界でも殿堂入りをしているそう

ハロルドがコントラクトブリッジのルールを発案したことについては前回の記事でも書きましたので本稿では省略しますが、それが急速に広まったことは、彼のセレブリティとしての影響力があったことと無関係ではないでしょう。しかし、彼が考案したブリッジシステムと彼のブリッジプレイヤーとしての実力が多くの人たちから認められていたことは間違いないようです。

ハロルドはバンダービルトカップなどの大会を開催しブリッジ界への貢献をしながら、自身も数々のトーナメントで勝利しました。その後の1969年にはその功績を讃えられ、世界ブリッジ連合(the World Bridge Federation)の最初の名誉会員となりました。

雑誌『The Bridge World』の創設者 エリー・カルバートソン

エリー・カルバートソン(Ely Culbertson, 1891–1955)はアメリカ人の父とロシア人の母の間に生まれ、学生時代をヨーロッパで過ごしていましたが、ロシア革命の後に財産を失い、無一文でアメリカに渡ります。その時に彼が収入を得る手段としていたのが、ポーカーやオークションブリッジといったカードゲームの賞金でした。

ブリッジプレイヤーとして評価を得るようになった頃、同じくブリッジプレイヤーとして有名だったジョセフィン・マーフィー・ディロンと結婚。そして、オークションブリッジに代わってコントラクトブリッジが流行するのを見るや、1929年にコントラクトブリッジの専門誌『The Bridge World』を創刊します。この雑誌や様々なブリッジの書籍を出版するとたちまちベストセラーとなり、大成功を収めます。

こちらはNational Portrait Galleryに所蔵されているエリーとジョセフィンの肖像画↓

YouTubeで発見したブリッジについて語るエリーの動画↓

また、エリーはブリッジプレイヤーとしても活躍を続け、特に、1931年12月から1932年1月にかけて行われたブリッジプレイヤーのシドニー・レンツとの戦いは「ブリッジにおける世紀の一戦」と言われるほど話題をさらいました。
( "New York. The Bridge 'Battle'. Sidney Lenz and Ely Culbertson seek to prove their rival systems of bidding - before eyes of the whole world."という短い動画↓ エリーのパートナーはジョセフィン。)

妻のジョセフィンとは後年離婚してしまうのですが、コントラクトブリッジによって成功者となったエリーはある意味「アメリカン・ブリッジ・ドリーム」の体現者なのかも?

ブリッジ人気を牽引した「ミスターブリッジ」 チャールズ・ゴーレン

アメリカ出身のチャールズ・ゴーレン(Charles Henry Goren, 1901–1991)は、学生時代に法学を学んでいたもののブリッジに魅了され、ブリッジプレイヤーのミルトン・ワークに師事します。そして、執筆や講演活動によって、師匠のワークが提唱した「4–3–2–1システム」を世に広めました。

その後、ゴーレンも自身のアイデアを次々と著書として発表し、人気を博しました。彼の著書は1000万部以上売れたと言われています。さらに、1959年から1964年に放映されたテレビ番組「Championship Bridge with Charles Goren」の司会を務めました。(この番組の動画がYouTubeにアップロードされていました。以下はエピソード1のもの↓)

(この番組について取り上げた記事も書いています。↓)

他にも「TIME」誌の表紙を飾ったり、一人でブリッジの練習ができる「オートブリッジ」というゲームマシンのパッケージに顔写真がついていたりと、当時のゴーレンはまさに「Mr.ブリッジ」の名をほしいままにしていました。

このような人気は、当然なから、彼の素晴らしいゲームの成績によって高められたものです。ゴーレンは全米各地のブリッジトーナメントでタイトルを総なめにし、1950年に開催された第1回バミューダボウルという大会では、ゴーレンが参加したアメリカチームが優勝して世界大会のタイトルを獲得しました。引退するまでにアメリカの主要な大会で優勝していたということですから、実力と人気を兼ね備えたスーパープレイヤーだったんですね。

というわけで、今回はブリッジ界のBIG3をご紹介しましたー。3人について、さらに詳しく知りたい方は、アメリカンコントラクトブリッジリーグのウェブサイト内にあるHall of Fameメンバーの紹介ページをご覧ください。
ブリッジの情報や資料を調べていると、かなりの確率でこの3人の名前を目にすることになるぐらいの大偉人たちなので、ブリッジの勉強を始めるなら知っておいて損はないかも?ではー。

サポートはコントラクトブリッジに関する記事執筆のための調査費用、コーヒー代として活用させていただきますー。