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裏町の大衆中華[新大蓮]のチーフ

 まだバブル前の1980年頃。人と人が擦れあうようにして生きていたあの頃。その頃の僕の目には、大阪の中心街が途轍もなく眩しく見えていた。街には嘘や憎しみ、別れなどの溢れんばかりの悲劇もあったが、それに負けないだけの喜びもまたあった。
 それに比べて、大阪郊外の北摂、茨木市の町外れに佇む[北京料理 新大蓮]は、そんな都心の華やかさとは全く無縁だった。
   これは、そんな町外れの小さな大衆中華店で繰り広げられた、いつもロンピーを燻らせたニヤケ顔のチーフとの、垢ぬけなく泥臭い想い出話である。

【序章】

 時は1980年頃のこと。まだ日本がバブル景気に浮かれる前なのに、その頃の僕の目には、大阪の中心街が途轍もなく眩しく見えていた。夜になると、ネオンの中を真っ赤な顔してふらふらと歩くご機嫌なサラリーマンたち。そこにヨッテッテぇ~と声をかけまくる、コロン臭満開のハデなお姉さんたち。どこからともなく聞こえてくるのは、八神純子の「パープルタウン♪パープターン♪」や、久保田早紀の「子どもたちが空に向かい〜ぃ」など。スーパーしゃがれ声のもんた&ブラザースの「ダンシンオールナイトッ♪」が流行ったのもこの頃だ。おまけに1979年に来日したヴァン・ヘイレンは、大阪公演のみ2デイズ(他の都市では1ディのみ)。
 テンポが良く、みんな色気があって、見上げれば夢が無限に散りばめられていた。

 それに比べて、この話の舞台となる大衆中華店[北京料理 新大蓮]があった場所には全くと言っていい程に華やかさがなかった。大阪府の郊外、北摂の茨木市のこれまた町外れのとあるエリア。この街で最も煌びやかなのは名神高速道路の茨木インターチェンジ付近に密集するラブホテル群と、そこから300メートルほど西にあるパチンコ屋ぐらい。まぁ、どちらも嫌いじゃなかったけど…。 
 それ以外には、自動車の修理工場や、ピストンや靴下などの製造工場、いくつか並んだガスタンク、大小の物流倉庫などが建ち並び、これらの合間にアパートや長屋、少し外れたところには巨大な団地があって、どちらかというとブルーワーカーの姿が目立った。

 この街にテレビや雑誌の取材が来たという話は、一度も聞いたことがない。 
 否、一度だけあったっけ。
 そう、[新大蓮]から歩いて10分ほどのところにあった少年院からの脱走事件である。僕が記憶している脱走事件は3度あって、脱走者が近くの民家に籠城して捕り物劇となったことがあり、その時は駆けつけた大勢のテレビカメラのクルーで溢れたことがあった。
 あれが僕の知る、あの頃のこの街の一番の賑わいである。

 そんな“超”の付くような大阪の郊外の裏町が舞台の[新大蓮]に流れていたBGMは、いつもド演歌であった。店内には有線放送が一日中かかっていたので、様々な演歌が僕の骨身に染み込んでいる。今でも八代亜紀の『雨の慕情』や『舟歌』、小林幸子の『おもいで酒』、松坂慶子の『愛の水中花』なんかを聴くと、すぐに頭の中には[新大蓮]の情景が舞い戻ってきて、涙が吹き出しそうになる。

 人と人が擦れあうようにして生きていたあの頃。街には嘘や憎しみ、別れなどの溢れんばかりの悲劇もあったが、それに負けないだけの喜びもまたあった。 
 否、本音を言うと、当時の僕は一日でも早くこの街を出て行きたかったのである。こんなところにいつまでもいるわけがない、真っ暗闇でもいつかは陽が昇ると堅く信じて生きていた。

 でもあれから長い年月が経って、今振り返ってみれば、あの頃の情景が思い返されて、がとても幸せな時間だったことに気づく。[新大蓮]はもちろん、吉本新喜劇も負けそうなほど強烈なキャラが揃っていた客たちも、今では愛おしい想い出の存在だ。

 一応、この街の名誉のために言っておくと、現在は工場に替わって大きなスーパーが鎮座していて、素敵な一戸建てやマンションがずらっと立ち並び、きれいな格好の奥様たちと可愛い子供たちがわんさかといるようなハッピーな街へと様変わりしている。
 そんな現在このエリアにお住まいの方々には申し訳ないが、これから綴るのはかつてこの街の小さな大衆中華店で繰り広げられた、垢ぬけない泥臭い想い出だ。皆様には、いつぞやの夢物語、あるいは喜劇とでも思っていただけたら幸いだ。まぁ全部、事実なんだけど…。

 僕は1965年に大阪の藤井寺市で生まれて、すぐに枚方市の光善寺という地に引っ越した。幼少期はほっぺがつるつるでたれ目なもんだから、よく女の子みたいと言われた。その頃の楽しみは、近所にあったいかるが牧場(実際は牛小屋)に牛を見に行ったり、虫やトカゲ、ザリガニなんかを捕まえたり。それに、近所の家に食べ歩きに行くことだった。
 最初の頃は友達の家に行き着けていたが、いつの頃からか見知らぬ家にも行くようになっていた。他所の家の食事だけでなく、台所や食卓、その家の家族の構成なんかを観察して、我が家との違いを感じてはいちいち感動していたのだ。特に意味はなかった。すべての差異にその家の個性が感じられて楽しかったのである。
 実は、この感覚は今でも抜けていない。それがエスカレートして飲食店などを廻るようになって、やがて海外にも足を延ばして、未知の店や家を訪問するようになっていったのである。

 小学3年の時に茨木市へと引っ越してきて、20歳過ぎまで暮らすことになるのだが、14歳の中学2年の時に父親が急死してしまう。それ以来、友達と気持ちの共有ができなくなって、人間が生きる意味を考える日々が続くようになる。
 でもグレるなんてことはなかった。おふくろが酒もたばこもやめて、一心不乱に働いてくれたからだ。中学3年から高校に入学する頃には3〜4人の親友ができたのだが、その親友は僕と同様に片親だとか、親が不良で帰ってこない家だとか、そういう家庭運の薄い子ばかり。おふくろはそんな親友たちを我が家に招いては、お得意の手料理を食わせてくれて、いつしか親友たちから我が家は飯のうまい家と言われるようになった。そうしているうちに、何があっても食卓が明るいとすべて帳消しにできる、という感覚がおのずと身についていた。

 僕はもともと気が弱くて体力もなかったけど、中学時代に水泳部で鍛えたことで見た目だけはマッチョになれた。高校でも水泳部に入ったが、それよりもバイクに乗るのが楽しくなってもうそれに夢中に。その頃、家からバイクで10分くらいの、名神高速茨木インターチェンジの隣にあった怪しげなレストランで皿洗いのアルバイトを始めた。同じ高校に通う女の子もホールで働いていて、その子が可愛く可愛くて。目が合うたびに、彼女をバイクに乗せて走る妄想をしてはドキドキしたものである。後で知ったことだが、その子はすぐに男に色仕掛けで近づいていくような魔性の悪女だったそうだ。僕は奥手で良かったわけだ。

 そうしてバイトを始めた2、3ヵ月後に、ふとしたきっかけで大衆中華店の[新大蓮]と出合うことに。茨木インターチェンジを基点にして、僕の自宅のある方向とは逆方向に500メートルほど進んだ先に[新大蓮]はあった。そして、出合ってしばらくしてから[新大蓮]でバイトさせてもらうことになる。

 物語はそこから少し飛んで、高校3年の5月の連休の頃から始まる。 

                          (第1章へ続く)

●カワムラケンジ
スパイス料理研究家、物書き。1980年から様々な飲食業の現場を経験し、スパイス&ハーブの研究を始める。1997年に100%独自配合・自家製粉によるスパイスのカレー専門店を開業。1998年には日替わりインド定食の店[THALI]開業。2010年に『スパイスジャーナル』を創刊(全18巻)。これまでの著書に『絶対おいしいスパイスレシピ』(2015年・木楽舎)、『おいしい&ヘルシー!はじめてのスパイスブック』(2018年・幻冬舎)がある。現在、BE-PAL.netで連載中。
◎ 大阪府吹田市藤白台1-1-8-204 090-3864-9281
thali@nifty.com www.kawamurakenji.net


          




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