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自己紹介②:地元で骨を埋めるはずが、東京へ来てしまった

前回の自己紹介の続きを書こうと思います。また長文になりそうですが、お付き合いください。

4.IT業界で働く楽しさを知った25歳(続き)

前述の通り26歳で退社することになった1社目だが、どのような経緯で退社することになったのか綴る。

IT企業と書いたが、全グループ○○万人のあらゆる業務をサポートするITシステムの提供をしている会社であり、システムの開発設計、基盤構築や維持を主としている会社である。

就職課では「システムの開発補助」が業務内容だったため、SEのサポート業務をすると思っていたが、実際に配属されたのはユーザサポートを主としている部署だった。社員は女性上司1名、女性先輩2名で配属されたのも私と同期の女子だった。

余談だが、最初は優しく気さくだった有能な女性上司は5年間でパワハラ上司となり、更に私が退社して5年後にはBPへのパワハラ/モラハラで退社を余儀なくされたのであった。

5.IT業界で退社を決意した25歳

このIT企業を選んだ理由は2つ。

①家から徒歩8分だったこと(笑)

②何か新しいことを学び、スキルを手に入れたかったから

ユーザサポート業務では、提供しているシステムに対する問い合わせ対応をメインとしており、その他システム障害対応、ログ監視、本番データの差し替えなどなどをしていた。

文系だった私だが、上記スパルタ上司の元、本を1冊渡されて「これでVB勉強してきて」「これでC言語習得してきて」「CSS勉強して書けるようになってきて」なんて様々な無茶を5年間も振られ、楽しんで仕事してしまった。 新しい事を学び習得できる喜びや、海外のグループ会社の人と英語で仕事をできる喜び、何万人も使用する規模の大きいシステムを担当しているという誇りを感じることができた。

イギリスへの正規留学のことなど頭から飛んでしまった。

が、しかし。もっと海外に関わる仕事をしたい、海外で仕事をしてみたいという思いが日に日に増していき、部長へ面談時に相談してみた。そしてこの面談が私の転職へのきっかけになった。

面談で思いをぶつけ、どういうキャリアパスを描けばいいか部長に相談したところ、「SEへ職種転換し、経験を積み、そして海外出向への内示になる」という話が出た。つまり、私がSEとして海外出向できるのはおばちゃんになってからということだ。いやだ。

若いうちに手っ取り早く海外で働ける環境の会社に転職しよう。25歳。


後日談だが、転職後この上司と再会した際「実は私さんをアメリカ支店に長期出張させてほしいって、他部署の部長からオファーがあったんだよね。あのシステム炎上してたから調整役として」という話をされた。タイミング良いか悪いか分からないけど、もし出張してたら現職には就いていなかったんだろうなと振り返る。当時伏せてくれた上司に感謝。

6.なかなか内定を得られなかった26歳

転職を考える中で1つの業界にたどり着いた。それが現職の業界であり、身バレすると非常に危ないので伏せることにする。

うぬぼれていた私は、3か月程度でどこか内定するだろうと思い、戦略も立てぬまま面接だけをこなしていき、1次や2次試験で敗退した。しかし内定を信じて疑わなかった私は、前述の部長と女性上司に転職を考えており、受かり次第退社するので後任を探していただくよう、厚かましくもお願いしていた。身の程知らずコワイヨー

この根回しがあったからそこ、引き留めにはあったが最終的には応援してくださり、円満に退社できた。

目標の3か月を過ぎても内定を得られず焦った私は、就職セミナーの講師(業界が分かってもスルーしてください)へ仰ぎ、3か月超過した6か月目に2社の内定を頂いた。その講師とは現在も連絡をとっており、共通の知人も複数名いたようで別のところで花が咲くことになった。

私の信念だが、何かを得るときは何かを捨てなければいけないと考えている。転職活動中に私が捨てたものは、

①彼氏(ゴメンネ)

②体重(心配されるほど痩せた)

③飲み会や合コン、友達付き合いのほとんど全て

だ。就きたい職業の対価として26歳の私には妥当なラインだったと思う。

7.地元で骨を埋めるはずが、東京へ来てしまった27歳

さて、外資と内資の会社から内定を1つづつ貰った訳だが困ったことが1つある。外資の会社のオファーでは、とある外国の首都に住んで仕事をするということが条件だった。

自己紹介①で書いたように、私の母は外国人だ。家族は全員自立しており、それぞれ自由に国内/海外に暮らしている。つまり、私が仕事で海外へ行くことになると、外国人の母が頼れる身内が国内にいなくなってしまう。

海外で働きたくて転職したはずだったが、母を日本において自分がやりたいことを優先してしまうことに急に罪悪感が芽生えた。もちろん母は私に日本にいてくれ、と頼んできたことは1度もないし、どちらの会社でも応援すると言ってくれた。

ここでも何かを得て何かを捨てる選択を迫られた。(と自分が思っているだけだが)

内資でも海外へ仕事しに行く機会が非常に多いかったため、そちらを選択し今に至る。地元で一生を過ごすと思っていた。  27歳、東京に来た。

8.何者になれたのか、何者になりたいのか分からない3X歳

本当は年を書くことに躊躇いはないが、身バレできない身分のためご容赦ください。

振り返ると、10代でファッションバイヤー、20代で正規留学、海外出向を目指していたブレブレの私だが、30代はもっとブレブレである。 同業の方に言ったら批判されるだろうが、現職では頭を使う機会が少ないと感じる。自分が(元々だが)バカになった気がするのだ。

となると元の業種に戻ったほうが今よりは知的興奮を感じるのだろうが、今のところその予定はない。前職も楽しんでいたが、バカになっていくことも含めて現職を楽しんで日々を過ごしている。

目標としていた職業に就けて、希望通り海外と関わる/海外で働く仕事をできている今を心から幸せだと感じる。

前職でも現職でも尊敬する先輩方はたくさんいるが、昔からロールモデルにしたいと思う先輩が何故か見つからない。だからかキャリアパスが描きにくく、何者になりたいのか分からないまま社会人◯◯年目を迎えている。

何者になれるか分からないが、数年後にとある外国の都市で働けるチャンスが巡ってくる。今その資格はないが、時が来たらチャンスをつかめるよう日々のスキルを上げる毎日だ。

多分そのとき私はアラフォー。また何かを捨てなければいけない決断がやってくるのだろうが、それまで道草を楽しみつつがむしゃらに働きたい。



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