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オレンジは泪の痕を伝って

「大袈裟な名前の渓谷だったね」
「私おじいちゃんの朝の散歩コースかと思っちゃった」
 夏に等々力渓谷に行った時に、一日がかりのデートになると見込んでいた割に半日どころか3時間で目的を終えてしまったことがあった。そのあと結局、やることもないから思いつきでレンタカーに乗って江ノ島まで行った。「そういう臨機応変なところ、すごい好きだしわくわくする」と褒めてつかわされ、気をよくしてしまい、途中寄った地場のスーパーで円柱型のビニールに入った大学生がキャンプでやるような馬鹿でかい手持ち花火を買ってしまった。
 花火は綺麗だったが、まあ量が多かった。結局その三分の一もできずに車の後部座席に残りを押し込んで下道をのらりくらりと走って帰途についた。まだ微かに火薬の燃えた匂いが服から匂う。途中の信号待ちでブレーキランプに照らされた彼女の唇が動いた。車内は暗かった。首を傾げてこちらを見遣る。

「私たちって多分、いつも毎年きっと花火を残してしまうんだろうな。はりきりすぎなくらいはりきってるのに」
「どうしてだろうね」
「家でやったとしてもそうだと思うなあ。はりきってやろうとしたのに、蚊とかが気になるの」
「気になるね。見かけのテレビとか、飲みかけのビールとかね。その花火は来年するのかな」
「ううん、冬まではそのままだったんだけど、冬の夜に、ある日急に思い立って全部するんだよ」
「冬に? 寒いよ」
「きっとそう。いつも、毎年。でも私たち夏になったらまたやりきれないほど大きい花火買っちゃうんだよ。それも、はりきって庭に出るの。おかしいね」

 それは冷やされた空気にパリッとした火花の華が弾け、じんわり牡丹雪のようにほどけていく。やけに真っ直ぐに立ちのぼる煙。さっきの夏とは趣が違う花火を想像する。

 少し窓を開けて、車内に風が入る。外は今日買った花火が湿気ってしまうくらい蒸し暑い。冬まで持つのだろうか。信号が変わりアクセルを踏み、車が動く。髪が揺れ、また火薬の匂いがした。いつものホワイトリリーの香りはすっかり消え、彼女は口を閉じたあと前を向いたままだ。背の高い道路照明灯のオレンジ色の光は黙って彼女の頰を、特に涙が通る頰骨から口角までを、ただ照らした。

 先の単語が弾けては消え、じわり胸に滲む。「冬」「きっとそう」「いつも、毎年」「はりきって」「やり切れないほどの花火」「おかしいね」。胸に滲んで、そして煙った。
 おかしい? おかしくなんかない。
 だって僕らは悪戯のように思い立ってする冬の花火をきっとそう、いつも、毎年、でも永遠に、多分できない。できなかったらどうしよう。

 ひとりひどく哀しい気持ちは消えず、体をよじり息を吸い、ハンドルを持ち替えた。


 * *


 彼女と暮らした時のものはもうほとんど残っていない。唯一残っているのはIHで使うために買った赤いフライパンか。ステンレスの簡素な流しに申し訳程度に備えられたIHのクッキングヒーターでまだ真新しかったフライパンを熱して、ホットケーキを焼いた。カレーを煮た。コロッケを揚げた。お米も炊いてみた。
 深夜だった。二人で薄い羽毛布団にくるまってマットレスの上で、眠いね、もう寝ようか、と微睡んでいた時に、最後にもう一本だけ吸うから付いてきてと頼まれた。衣擦れと摺り足の足音。スウェットの袖からはみ出したネイル。夏も終わって涼しくなってきたのにショートパンツ。台所のシンクの照明をつけ、換気扇を回す。彼女は隣であくびをして、一粒出た涙を指で拭っていた。頰の産毛が暖色のライトに当てられて、不意に、自然に撫でてしまうと彼女は口角を上げた。石鹸とホワイトムスクとビャクシンの匂いがした。寝香水で今日は俺のをつけたのか。体温が違うから揮発の具合が違うのかな。不思議なもので、他人がつけるとあまり馴染みのない匂いに感じる。
 鯖缶の灰皿を手元に寄せ、戸棚からレトロな桃の絵が描かれた大箱のマッチ箱を出した。マッチで火をつけた煙草が一番美味しいらしいと眉唾の情報を信じてダイソーで買ったはいいものの、あまりにでかすぎて「これを無くすまで絶対煙草をやめない」といかにもやめる気がないと捉えられかねない言い草を飄々と口にしていた。

「知ってる? 昔お母さんがやってくれた、マッチの占い。なんか、マッチを一直線に並べて燃やすの」
「まじで初めて聞いた」
「どうだったかな〜。今ママに聞いてみようかな、あ、もう寝てるか。うーん」
「マッチを燃やすの?」
「なんかマッチの頭をくっつけて並べて、どっちかのおしりを燃やして、なんかその燃え方を見て占う!みたいな?」

 やってみる、ここで、と彼女はフライパンの上にマッチを並べだした。さっき言った通り、頭をくっつけて一直線に。「え〜どうだったかな」と明らかにテンションが上がった声で頭薬のついていない方の軸に火をつける。…つかない。手に持ったマッチがみるみる燃え、慌てて息で吹き消す。黒い炭になったマッチを灰皿に突っ込んだ。フライパンに並べてあるマッチは先が少し焦げたくらいだ。

「あれ? なんで?」
「もう一回やってみ」

 再び火をつける。燃えない。吹く。捨てる。もう一回。火をつける。燃えない。吹く。捨てる。

「マッチの向きが違う? おしりとおしりを合わせるのかな? だって頭に薬がついてるんだから頭から燃えるよね!?」
「ん〜それでやってみ」

 せっせとマッチを並べ替えて、チロチロと燃えるマッチを近づけるも結局火は移らなかった。灰皿には棒の燃えかすがどんどん溜まり、黒い、小動物の骨のように積み重なった。フライパンのテフロン加工に少し焦げがついてその燃え跡が亀の甲羅を焼いて割れたひびを見て占う亀卜みたいで、俺的にはすごく笑えた。
 そんなあやふやな知識で始めた占いで、あの時マッチがちゃんと燃えていたら彼女はどんな占い結果を俺に言い渡しただろうか。

「はい、結果が出ました。私たちきっと幸せになれます」

 もしそう答えていたなら、半分正解だったように思う。それは必ずしもお互いがお互いを幸せにする未来を約束しているわけではないからだ。占いはいつもあえて言葉足らずで、当たっている余地を残す。それぞれきっと、いつか、別の誰かと幸せになれば占いの結果としては決して的外れではない。

 そんな妄想と屁理屈を笑うかのように、占いはやり方がわからず終わったし、今ではもうそのフライパンもマッチの燃え跡が消えたどころか、テフロン加工すら剝がれ落ちた。使い込んで逆に刻々と残っていったものは、外装の底の厚い焦げと柄の繋ぎ目の錆だけだった。


 * *


 夜中にコンビニに行こうとしたのか、コインランドリーに洗濯物を取りに行ったのか、銭湯に行った帰りだったのか、今となっては定かではない。
 二人で散歩をしていた。秋の夜はまだあたたかくやわらかで、羊羹のような闇だった。
 「ねえ、金木犀の匂いがする」と言い終わらないうちにスンと鼻を鳴らしたのは自分だったか彼女だったか。これも定かではない。ただ、香りの色まで律儀に橙黄色のその金木犀は、匂いを辿っていくといつ捨てられたのかわからない粗大ごみが残るごみ捨て場の、塀を隔てたその上で咲いていた。これは記憶の限り確かだ。

「金木犀がごみ捨て場にあるって、なんか男子校にいるめちゃめちゃ可愛い女教師みたいじゃない? 俺男子校じゃないけど」
「特定の季節に毎年匂う女教師…嫌だな。薔薇とか百合の香水ってあるじゃん? 結構そのまんまお花の匂いするやつ。でも金木犀の香水って絶対この匂いじゃないんだよなあ。作るの難しいのかな。私持ってないけど」

 ごみ捨て場で二人して煙草を吸った。金木犀が煙草の煙で燻されたらどんな匂いになるんだろう。口に咥えたチリチリと燃えるその先が金木犀の花より鮮やかに闇夜に浮かんだ。
 上から花粒がはらりと降り、彼女の前髪にかかった。綺麗な二重幅の瞼をまばたきさせると、ころころと膨らみのある花弁が頰を伝って転がり、またまばたきをしてこっちを見る。オレンジ色の涙が流れたようだった。目が合う。毎年、金木犀を隣で見たいとその瞬間に思い、ついそれを言おうとして煙を真下に吐いた。足元には誰かに捨てられた電子レンジがあった。半開きになったガラス扉はひびが入って割れていて、地面に散らばった花々は硝子のように白んでいた。
 結局その時にはもう先は長くないのはわかっていて、どうしても言えなかった。煙草の火を消した。のみ込んだ言葉は肺の中で煙がかった甘ったるい金木犀の香りと溶けて、何もなかったかのように消えた。



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