論93.日本人の声と音楽教育(12244字)

〇歌と芸能・芸術
 
声と歌の間で問題となるのは、歌を芸術として捉えたときだと思います。
歌というのは芸能であり、また、話し声の延長のようであり、芸術としてみられるにはなかなか難しいところがあります。
もちろん、音楽の場合も、芸術なのか芸能なのか、判断がわかれるところでもありますが、少なくともプロのミュージシャンは、芸術的な演奏を奏でようとしています、いや、それを期待されるわけです。
 
私は、ヴォイストレーニングにおいても、歌は、音楽であり、芸術に連なるという立場でみてきました。たとえ、カラオケや内輪の宴会芸であっても、です。むしろ、ヴォイストレーニングに関わるからこそ、といえるかもしれません。☆
 
声というのが日常であたりまえのように使われている以上、それをトレーニングとして考える場合には、非日常なレベルのところまで格上げすることを考えなくては、混乱せざるを得ないからです。
一体、何がトレーニングであり、何が目標であり、何がそのプロセスかがわからなくなるからです。
 
これが世界一流のオペラ歌手ということになると、その歌唱は芸術とみなされ、少なくとも、誰もが簡単には、できない、そうはなれない、いろんな条件を大きく変えなくてはいけないことがわかります。その手段として、トレーニングが意味をもってくるのです。
 
一流になるためのノウハウやメニュなどに、決まったものはないでしょう。
しかし、その手立てとなるための基本的なプログラム、メニュというのは、歴史的に共有され、蓄積されているわけです。
 
ということで、一見、オペラと声という、両極にあるようなものを結びつけてみると、ヴォイストレーニングというのが、ある程度、明快な形になると思うのです。
だからといって、アナウンサーや話し方のヴォイストレーニングが、無意味だといっているわけではありません。
 
私の立場と私の受け持つ対象について、そして当研究所での研究課題として、まずは、ハイレベルなところに規範をおいたのです。
ちょうど、ハリウッドのメイクアップの方法が、一般の人たちに広まっていった、大衆化したようなことだと思えばよいと思います。
 
ノウハウにおいては、どんな分野でも、プロで一流となったような人たちが、まわりに伝えていったものをおろしていく場合が多いわけです。ヴォイストレーニングもそういった考えで、私が捉えようとしたのです。
 
〇声を知る
 
音楽がわかるとかわからないというのと同じように、声がわかるとかわからない、ヴォイストレーニングがわかるとかわからない、といったようなことがあると思います。声、ましてヴォイストレーニングをどのように捉えているかというのは、人によって全く違うからです。
 
音楽は、少なくとも、歩いたり話したり読んだりすることとは違います。
ところが、声は、そういった部分が、ほとんどなのです。誰にとっても、日常化しているといえます。発声に障害のあるようなケースを除けば、生まれたての赤ん坊にとっても身近、いや、もう手にしている、使っているものなのです。
ということは逆に、音楽や歌に使う声は、かなり特殊な用途といえるかもしれません。
 
西洋からもたらされたクラシック音楽においては、日本でも世界に通用する優れたバイオリニストなど演奏者、そして、指揮者まで輩出しています。鈴木メソッドという世界に通用するようなメソッドも生み出されたわけです。
 
鈴木メソッドを開発した鈴木真一氏は、「誰でもバイオリンを弾くことができる」と明言しています。楽器をあたかも言葉を習得するのと同じように捉えているわけです。もちろん、それは、誰もが芸術としてのレベルで弾けるということではありません。
 
〇芸術論
 
芸術とは、自分自身を表現することです。
この点においても、また声とか言葉というのは、ややこしいわけです。
声を出すということも言葉を使うということも、少なからず、自己表現の手段になって、日常でも使われているからです。
 
親や学校から教えられることは、最低限のコミュニケーションツールとしての話し方です。
芸術、自己表現というレベルのものではありません。
本来は、正しく言葉を使うのと同様、正しく声を使うことも、その範囲に入ると思われます。
ただ、発声は基礎教育では扱われていないのです。
 
自分の内面世界を表現するということでは、ただ好きな絵を描くということと画家の仕事との違いのように思えます。誰でも絵を描きます。でも、絵を描けば、それが芸術的なものになるわけではありません。
 
ヤマハの音楽教室では、子供に音楽を教えています。それは、本当は、その子の内面世界を音によって表現できるようにしていくこと、その可能性を広げていくことでしょう。
しかし、内面世界を表現して、芸術的に高いところに到達させようとするような試みは、それほどうまくいっていません。意図して行われているようにもみえません。
そうした音楽教育では、テクニックが重視され、自己表現などは、失われているケースも多いのです。音楽大学でも、似たようなものです。
 
これが日本という、西洋の音楽をまねて、それに近づけようと努力してきた国においては、さらに二重の壁、制限として、のしかかっています。
つまり、向こうの人のような演奏ができるようになりたいという目標で、向こうのようにできるほど、すごいとか偉いという評価なのです。「まるで外国人みたい」というのが、そのまま、よい評価になってしまうのです。
そういうところでは、真の芸術は、なかなか育ち難いところがあるわけです。ここでは、西洋生まれの芸術に限って、のことですが。
 
〇習得準備
 
声、言葉、歌と楽器とを比べてみると、わかりやすいと思います。
日本の場合、音楽の早期教育となると、ほとんどがピアノとなっています。
戦後の高度経済成長期に、子供に対して情操教育ということで使われたのが、ピアノだったからです。
日本の楽器メーカーは、優れたピアノを量産し販売しました。中流以上の家庭には、どこでもピアノが入るという状態になったわけです。百科事典が売れたのと同じです。形から入る、形式中心だったわけです。
 
形から入るのは、悪いことではありません。多くの場合、そういうものです。まして、輸入もの、舶来文化ならなおさらでしょう。
声とか歌とかで、日本人の親が何かを語ったり歌ったからといって、子供の教育になるとは思えなかったでしょう。本当は、それこそが、欠けがえのない文化の伝承だったのですが。☆
 
明治の文明開花以来、日本古来の邦楽などというのは、風俗扱いでした。それは大人の社会であり、子供たちが接するのはよくないという見方をされてきました。
それに対して、西洋音楽こそが、これからの社会を築いていく子供たちに必須のように思われたのです。
 
〇ピアノとリコーダー
 
考えるまでもなく、ピアノという楽器は、子供たちの身体には合っていません。ですから、音楽には、歌を歌うことから始めるのがよいのです。
そのために日本では、明治以降、教育のための童謡やわらべ歌などが、つくられました。向こうのメロディを使い、日本語の歌詞をつけた唱歌のようなものが、新しい近代教育の流れの上に出てきたわけです。
 
小学校では、リコーダーの教育があります。これは単音ですから、ピアノでの指の扱いよりも簡単です。正確な音を出し、音をつなげることで、音楽となります。吹奏楽器なので、声や歌とも共通するところが多いのも利点です。
声がうまく出ないとか、変声期の子供などにも、なじみやすいです。
音が出る楽器は、子供の興味を引きます。そこから音楽に入るのは、自然な流れといえましょう。
 
一昔前であれば、邦楽、雅楽など、神社仏閣、町のお師匠さんなどから聞こえてきたものです。西洋の影響下におかれてからは、それはラジオやレコードに代わられました。
音楽が身近に常に聞こえていること、それが音楽に親しむモチベーションになります。
どんな音楽も聞こえないところでは、楽器も歌も上達しません。
ピアノを買ったからといって、ピアノを弾くことが好きになることは、難しいでしょう。日本の多くの家庭では、そうであったのです。そこで、大体は、一時の習いごとで終わりました。
 
その後、日本のバイエル一辺倒のようなピアノ教育は、批判にさらされてきました。
ピアノを弾くためには、楽譜を読むことが必要です。しかし、それをピアノと一緒に学ぶのはなかなか大変です。やはり、リコーダーや歌などで、メロディに慣れていくほうがよいと思います。いわゆるソルフェージュなどもよいのではないでしょうか。
ちなみに、バイエルは、1850年ごろに書かれたものです。
 
〇発展の方向
 
ヴォイストレーニングにおいては、昨今は、身体をうまく使う方向に広げて、いろんな解説書が出てきたようです。これは楽器なども同じです。メジャーになるにつれ、素人向けのメンタル、フィジカルの準備にページを割かなくてはならなくなります。腱鞘炎になるような人も増えたからでしょう。
弾くテクニックの前に、指や手や腕、肩、腰といった身体の全てをどのように使っていくかというような、より基礎的なメソッドが出てきたわけです。
 
歌も楽器の演奏も、スポーツ選手と同じように身体運動を伴うものです。しかも、かなりデリケートで細かな動きが要求されます。
今の若い世代が、身体的な知識、生理学的な知識を学べるようになったこと自体は、大きなメリットです。
身体的な訓練こそが、テクニカルな技術を支えるからです。
 
もちろん、音楽そのものの理解や解釈というのは、そこにはないわけです。
声楽における発声トレーニングの共鳴が、歌という作品、歌唱における芸術的な内容と、直接には関係がないことと同じです。
楽器でいうと、音の出し方と演奏との違いです。
楽器の音がしっかり出せることと演奏とは不可分の関係になっていくことは、いうまでもないことですが。歌唱と発声とも、同じことです。
 
ピアノの演奏となると個性の表現を忘れて、テクニカルな技術ばかりに走るのが、日本人の欠点ともいわれてきました。これは当然のことで、向こうの歴史的文化的なものを経て生み出されたものを、その文化圏の外にいるものが、すぐにできるわけはないからです。
まして、言語が異なる歌唱においては、なおさらでしょう。
 
だからといって、その文化圏の中心にいる人間にしか理解できないというものでもありません。その文化圏を超える価値があれば、それは当然、その外の人たちにも通じるものであり、それゆえに、圏外の人たちが理解し、扱うことができるものであるはずだからです。だからこそ、芸術の名に値するのでしょう。
 
この価値観の問題では、西欧がレベルが高く、それに追いつくことが必要のように思われた時代が続いてきました。しかし、今では、そうではないということがわかっています。
必ずしも200年も前の西洋の歴史、文化、生活を学んでいなくても、新しいもの、価値あるもの、そして、芸術は、創り出せるのです。むしろ、自らのアイデンティティに基づくものこそが不可欠なのです。
 
〇メソッド
 
鈴木メソッドでは、モデル演奏をとことん聞き込むこと、次にその演奏を試みようとしていくことで学ばせていきます。つまりは、模倣、コピーから、です。
そのことで、なによりも音楽を聞く機会がたくさん持てます。
他の子たちと合奏することも、特徴です。
 
芸術以外で、楽器を弾く意味というのはあるのかという問いがあります。
そこは、日常生活と不可分の声やせりふ、その延長の歌と違うところです。
しかし、歌でも、誰かと同じように歌ったり、ストレス解消のために歌うなど、いろんな用途があると思います。それは、そのまま楽器の演奏にも、通じるでしょう。
その人が好きにすればよいのではないでしょうか。
 
私がこれまで述べてきたことは、トレーニングにおいて、ということです。そこでは、基準がなければ、プロセスもなく、わけのわからないものになりかねない、そういう立場での見解に過ぎません。
ピアノでも、歌うことから入ってから、指遣いを覚えて、ピアノの演奏になるのが理想といえば理想です。コダーイ・メソッドなどは、そういう考え方です。
 
〇科学的テクニック
 
発声や歌唱の時に、テクニックがどのぐらい必要かということになると、結構、難しい問題です。楽器等の場合は、指遣いなどを分析し、システマティックに解説することができるかもしれません。
しかし、声の場合は、そうした解説が、どのように効果を上げるかは、難しいところがあります。身体が楽器のため、個人差が大きいからです。
 
なんにしろ、理論やメソッドにとらわれすぎると、逆効果になります。
一通り、学んでおくにはよいのですが、実際にやるときには、忘れて集中した方がよいのです。何かしら問題点があったときに、それらが解決のヒントになればよいというくらいに考えておくことです。
 
カラオケの採点の分析では、歌は正しくあるための、科学的な分析がなされます。それをたどって歌うようであれば、正しい歌唱になるでしょう。しかし、そうなっても感動的な歌唱にはならないでしょう。
もちろん、声がとても美しいという場合は、あるかもしれません。しかし、フレージングやメリハリ、言葉の処理などは、そこでは判断できるものではないからです。
 
ピアノの音色を、分析したようなもの、音楽のテクニックについて、述べられたものは、たくさんあります。しかし、フレージング、リズム、アクセント、デュナーミク、タッチなどは、言葉にできません。
結果として、それが美しいとか、粒が揃っているなどとはいえますが、美しい音とは、何かということが、わからないからです。まして、美しければよいともならないからです。
もちろん、演奏技術として、誰よりも指が早く正確に動くということは、能力としての1つの取りえになるでしょうが。
 
〇テクニックの限界
 
トレーニングに集中していると、作品の表現を考えないで、発声や歌唱だけのテクニックを磨こうという誘惑にかられることもあるでしょう。
特に日本人のように、生真面目で輸入したものに対して憧れを持つと、そうなりがちです。こういったところがプロセスでなくて、目的になってしまうことに気をつけなくてはなりません。そしてまた、まわりに安易に褒められたりすることによって、自分ができるものだと自惚れてしまうわけです。
 
この辺は、とても難しい問題です。アマチュアでは、カラオケ採点器での得点の高い人たちは、上級者に位置づけられるからです。努力をして表現するプロセスを経ることなく、というよりも、そこまでの育ちのなかで知らずと身に付いてきたことで、まねて近づけてしまえるのです。
それだけに本質的なものを全く掌握していないのです。なのに、まわりから、うまいとみられるのです。人の耳よりも採点システムを基準にしたところで、芸術性は、担保されなくなるのです。それでは、ゲームと同じということです。
 
美術の世界は、写真機の登場で、いかに正確に写しとるかという写実がメインでなくなりました。人々が求めるものが、より本質的なものに変わっていったのが思い浮かびます。
しかし、それまでの一流の画家の作品は、形だけを写しとったものでないところで価値を失いません。また、今や誰もが写真を撮るからといって、一流のカメラマンの作品と同じレベルであるわけがないのです。
正確さがテクニックなら、楽器は、自動演奏ピアノ、シンセサイザーで、歌はヴォーカロイドで、置き換えられます。正確さや速さだけで比べれば、人間は、かないません。
 
〇歌の指導者
 
私は、他の音楽スクールで、歌を教える人やヴォイストレーナーなどが、入ったばかりなのに、そこの経営者や指導者から、うまいと認められ、トレーナーとして雇用されるパターンを少なからず見てきました。
そこで3年も5年も学んでいる人を飛び越えて、入ったばかりで先生になれる、そういう分野、そういうノウハウとは、いったい何かと考えざるをえませんでした。
 
少なくとも、ある程度、円熟している分野では、そういうことは、ありえません。もしあるとしたら、武道などで、他の流派や独力で研鑽して道場破りを行うような強い天才武道家などのケースでしょうか。ただ、自分ができるのと、人をできるようにするのは同じではないでしょう。
 
もって生まれた声での発声、聞いてきた曲を器用にまねできる歌唱では、そうでなかった人を教えるキャリアにはなりません。唯一、できるとしたら、歌うことに慣れていない人を慣れさせることです。たくさん聞くこと、たくさん歌うことで誰でも上達します。これはノウハウではなく、慣れなのですが、そういう場と機会を与えることでも教える稼業は成り立つのです。
 
音大などで基本の教育やプロセスを、まわりと共に勉強した人なら、まわりの人の習得プロセスがわかります。そういうこともなく、ただ自分が歌えるということだけで、歌唱の指導者になってしまうのでは、かなりいい加減といえましょう。
 
もちろん、音大を出ていたらよいということではありません。
アマチュアのなかで、そこの先輩やそこで優れている人が、そうでない人に教えるのは、問題はないでしょう。しかし、それは、その範囲の中での目的に限られることです。
 
そういった人たちは、プロの表現者、アーティストとしては向いていないからこそ、トレーナーとして、よい先生になる可能性はあります。
ただし、その人が見本を見せると、あたかも生徒には、それが目標のように思ってしまうところが問題なのです。
つまり、相対的な世界での優劣、それも大した高いレベルでないところによって、目的が定められ、成り立っているケースです。教えるという相手が、自分よりうまくない人に限られるのです。
 
本来は、絶対的に優れたものがある世界に対して、求めていくのが、芸術的表現の世界であるのにも関わらず、です。
それでは、指導者が自分の思いでもっていこうとするほど、相手の可能性を制限することになりかねません。☆
 
〇プロとアーティスト
 
私も研究所に入ってくる時点で、声がとてもいい人、焦らない人、歌がうまい人を山ほど見てきました。ここには、本を読んで全国からいらっしゃるので、最初から、それなりの実力のある人も多いからです。
 
当初は、そういう人ばかりだったので、そういうなかから、優れたアーティストがどんどんと出るものだと思っていました。
しかし、表現者やアーティストの道をたどった人は、どちらかというと、そういう人たちではありませんでした。
 
むしろ、最初からうまかったような人たちは、伸び悩むことが多かったです。
つまり、クラスの中では、足が速いとか、スポーツができるとか勉強ができるということに過ぎなかったわけです。
たまたま、恵まれた環境や素質のなかにいただけで、その恵まれたというのも、あくまで学校のトップレベル、相対的に早熟ということにしか過ぎません。
 
それでも、他の分野の場合でしたら、学校の中でもっともすぐれている人のなかから、地域や全国の中で優れていく人が出ていくことがよくあるはずです。
ところが、表現であり芸術でもある歌の場合は、なかなかそうはならないのです。
 
むしろダンスなどでは、そういったものが案外とうまくリンクすることが多いように思います。まわりの評価に客観視できるだけのわかりやすさがあるからです。
 
結局、歌は、大半、誰かのようにうまく歌えることがめざされています。大体は、それを創唱したプロ歌手が歌うように、です。
現実のプロとしては、そういう歌い手は、不要です。そういう器用さは否定されて、誰にも歌えないように歌えることでしか認められないのですから、大いなる矛盾でもあるのです。
オリジナリティが問われる世界においては、その優れていくプロセスを誤らないようにすること、それが目に見えにくい歌では、とっても難題となるのです。
 
もっというのなら、役者と同じように、最初に会ったとき、そのレベル、オーディションの演技などよりも、その人に光るもの、人を惹きつけるものがあることの方が大切です。
せりふも演技も満足にできなくても、表情や声に魅力がある、存在感がある、そういったものであってこそ、基礎の能力を補っていくと大きく開花する可能性があるのです。
それは見た目だけでなく、動きや全身から発するオーラみたいなものかもしれません。
 
〇整地して待つ
 
歌の場合は、それに音楽的な才能、要素というものが加わります。これも全てが揃った時点で判断されるものでなく、後に吸収、発展しえることもたくさんあるわけです。化ける、という、その可能性です。
 
どういう歌も歌いこなすことができるような器用な人よりも、歌が下手なようでも、その声や歌のわずか1カ所にも、人を惹きつけてやまない魅力のある人、何かが匂っている人の方が、有望なのです。
 
となると、歌がうまいのに、人を惹きつけられないのは、最悪のパターンといえます。テクニックを教えたところで、ますます悪くなっていくからです。
 
一方、音楽的な素養や基礎がないことであれば、かなりの部分まで習得することができます。
ただし、プロとしても、その上に行けるかどうかということに関しては、かなり難しいというのが現実です。
プラス αが降りてくるかどうかは、万人に対して平等なようでいて、結果的にいうと、限られた人にしか、そのギフトは与えられないからです。
 
私の思うヴォイストレーナーが、行なうべきことは、それが降りてきやすいように、きちんと基礎の条件をつけておくこと、基本の技術を習得させておく、つまり、整地しておくことです。
その先は、本人の潜在能力の開花、才能、運命としか言いようがありません。時代もタイミングも運、チャンスも、いろんなものが作用します。
それに対しては、あまり直接、働きかけないで、影響を与えすぎないように見守る、むしろ距離をおくようにするのも、トレーナーのスタンスとして必要だと思います。
 
〇教材
 
たくさんの練習曲をこなしていく、ある程度の量を、音楽に慣れていくために、飽きない程度のスピードで、数多くこなしていくというのは、有効です。
特にあまり音楽に接してこなかった人は、必須です。
毎月、何十曲も聞いて、リズムやメロディ、構成、展開などあらゆる既成の歌曲のパターンをトータルとして、心身に叩き込んでいく必要があるでしょう。
その曲の与え方にもいろんな工夫ができます。一人で行っていくと、あまり世界が広がりません。好きなものしか選ばないからです。☆
 
どういう曲で学んでいくか、何を学んでいくかは、最大のノウハウです。好きな曲だけを漠然とこなしていくのでは、勉強にはなりにくいのです。自分の力をつける、自分の個性を見いだすための選曲が、肝心となります。
弱点補強には、慣れていない曲から学ぶことが有効ですが、自主トレーニングでは、多くの人は、そういう曲を避けます。接する気にならないからでしょう。苦手、向いていない、それで避けてきたからこそ、弱点となっているのです。もちろん、古今東西のすべての曲に接することはできないし、その必要もないのです。
だからこそ、トレーナーにつき、課題曲で学ぶ、それは必要な課題を学んでいくためです。そして、ある程度、体系的に必要なもの、欠けているものを補充していくのです。☆
 
そういったことで一通り、基礎的なものを叩き込んでいったら、今度は、もう一度、ていねいに扱っていきましょう。ワンコーラス、あるいはワンフレーズの中でどのように表現をしていくのかを徹底して煮詰めていくのです。
 
〇基礎トレーニング
 
音楽の基本とは、まず一音をきちんと出すこと、そして、次の音に繋げることです。そこがしっかりとつながらなくては音楽になりません。声も同じです。
そこは楽器であれば、指の使い方を徹底して、身体と楽器との結びつきから覚えていきます。
 
喉の場合は、そこまで細かくできません。説明して見せることもできません。発声も共鳴も何もかも身体感覚でつかんでマスターしていかなくてはならないのです。
そのために、いろんなメニュがあると思ってください。
 
しかし、メニュをこなせば、そういうことができるようになるというわけではないのです。☆
どこかで自分の限界を見切る、見切るからこそ、勝負どころも見えてくることが多いのです。
トレーニングは、その限界を見るところまで行う必要があるのに、多くの場合、そのはるか手前で伸び悩んで、才能がないかのように諦めてしまうのです。才能がないことを見極められるだけのトレーニングをすれば、別の勝負の仕方がみえてくる、それが真のトレーニングです。
 
長い曲でなくとも歌はフルに歌うと、10分ほどになるものです。あっという間に1時間、過ぎてしまいます。何度も歌っていると、単に雑になって、悪い癖がついてしまうのです。
特に声域的にも声量的に無理なものを歌うことは、危険です。
それによって、あるところまでは上達しても、そこからはマイナスにしかならないことが多いのです。
 
なのに、多くの人が、そういった歌やまだ歌えない難しい歌を選び、それをうまくこなせるようになることを練習であり、上達だと思っています。仮にこなしたところで、何ら表現を伴わないでしょう。でも、声やことばは、それなりに働きかけるので、聞く人は、感心したりするのです。
 
その全てを否定するわけではありませんが、これは、付け焼き刃、即成栽培で、形を整えるには早いのですが、それで簡単に限界となります。
結果としてみるなら効率の悪い練習法です。次につながる基礎のトレーニングにはならないからです。
なぜなら、再現性がないからです。
もしきちんとした練習ができるというのであれば、全く同じように最後まで歌えているかを1フレーズずつ、チェックしてみるとよいでしょう。
 
私の耳でチェックするのであれば、ほとんどの人は、最初のワンフレーズで毎回、違ってしまっているはずです。それさえきちんと認知できないで歌ってみても、ていねいな表現になり得るわけがないわけです。
バッターでたとえると、ど真ん中のコースを10回、スィングして、どれもがぶれているようなことです。まずは、イメージ通りにスィングできること、それがどのくらいできているのかが認知できないところに上達はありません。
 
ですから、私は、その人が最も自信のあるフレーズだけをレッスンで取り上げることが多いです。そこでさえ完全な再現性を持たない、表現力を伴わないのに、1曲全てを効かせたところで、勝負できるわけがないからです。☆
歌唱は1フレーズ、発声は一声で決まる、と思うなら、そこをチェックすることです。もちろん、そうでない表現法もあります。
 
〇テクニックの使い方 アレクサンダーテクニック
 
アレクサンダーテクニック自体は、意味のあるアプローチです。日本に入ってきたときには、私もよいものだと思って、学びました。ただ、日本での使われ方を見ていると、あまり、それに振り回されないほうがよいとアドバイスせざるをえなくなってきました。
 
これは、本来、無駄な緊張を解く方法を自分で意識的に体得するために使われるものです。ですから、それをマスターすることによって、無駄に緊張したり、意識的にこだわり緊張させたりしているのでは、本末転倒、何ともなりません。
 
緊張のほぐし方というのであれば、いつも緊張しやすい日本人には、古来いろんな技法が開発されてきました。日本人に合ったものがたくさんありますから、それに勝るものとも思えません。
もちろん、指導者によりますし、その使われ方によります。
つまり、日本の指導者の資質の問題が、このことだけに関してではありませんが、全てにおいていえるわけです。要は、使い方の問題です。☆
 
たとえば、子供たちにピアノを弾かせると、緊張しているときにはミスを連発します。ただでさえ、子供ですから、一部を除くと、最後まで集中力ももたないものです。
だからといって、乱暴に原始的なタッチになるかというと、そうはなりません。萎縮して閉じこもって小さくなってしまうのです。
音との掛け合い、音楽の表現とは無縁のなぞり書きのような演奏では、本人も楽しくないでしょう。
 
子供たちの指にとって、ピアノは大きすぎる楽器です。小指どころか全ての指の力が足りません。まず身体としての能力が、ピアノに対して欠けているわけです。それに対応できる筋力にしなくては、リラックスしたところでメリハリをつけられるような演奏はできません。
 
演奏である以上、緊張と弛緩が必要です。なのに、心身の緊張を解くことによって、演奏の緊迫感までなくしまっているのもよく見ました。
 
子供たちの発表会では、驚いたり感動したり、もしかして芸術的かも、と思うのは、大体が緊張しまくっても強く叩きすぎるケースです。何かが起こる可能性が出て、出ないで終わるのですが、それさえ、ないよりは、ましです。なめらかに間違えずに弾いたところで感心したとしても心に働きかけません。
 
演奏と比べて、表現のいたらなさしか聞こえないからです。比べられるところで勝負の土俵に上がれていないのです。子供だから、なんでも挑戦するところで充分となるのです。
そういった発表会やコンクールでは、無難でミスタッチのない人が優勝するのです。つまり、目的が違うのです。
 
歌も同じです。カラオケなどでは、挑戦や娯楽でよいのです。アマチュアのコンクールあたりも、歌においては、こうした評価でしょう。とても甘く好感度がすべてのような世界です。
これで、人が育つわけがありません。
 
〇表現の評価
 
表現というのは、その人の内面、世界をさらすことです。☆
それと接したお客さんは、おのずと自分の内面世界をもみつめることになります。全く日常とは、異次元の時空がそこに現れるのです。
その中で表現者と観客に関係性が結ばれると、一体感を感じるわけです。それは、極めて人間的な営みです。
 
これは芸術家特有ということではなく、日常でもあります。
日常の毎日が、瞬時に非日常的な時空になることがあります。
難しいことではありません。
喧嘩をした後にお互いが胸襟を開いたとか、他の人と心が通じ合うとか、チームが全力を出して優勝したとか、そういったとき、手を挙げ、声をあげ、抱き合うようなシーンを思い出すとよいでしょう。
 
日本の聴衆は、そういった面では、開けっぴろげな外国人よりは、心を閉じている場合が多いと思います。音楽とか歌として聞いていて、表現として聞いてないのです。自分の内面をさらしていないのです。
どうも、捉えるもの、期待するものが違うのです。
個人の感情、判断でなく、動いていることが多いように思えてなりません。
 
もちろん、みんながそうでなく、1部の人は、その域を飛び出して、一流の演奏家の次元に歩み寄っています。
ただ、日本の演奏家自体、そんなところまでの演奏を意図していない、いや、それ以前に芸術としての世界観も意識していないことが多いのです。
 
日本の観客をクールと評する外国の演奏家は、多いです。マナーがよくて、みんな合わせて拍手し、どの作品にも同じだけの熱い反応を示してくれる。ブーイングもないし、席を立つ客もいない。拍手も大きいし、アンコールの声も決まったように飛ぶからです。
それでは、物足りない感じがしますが、プレーヤーには心地悪いわけがない、どんな演奏であれ、評判は上々というのですから。
つまるところ、日本人は、批判精神がなく受容度が高いのです。
演奏や作品のでき具合より、一期一会の出会いとして、人として歓迎する精神があるのです。
 
〇コピー  
 
それは厳しくいうと、音楽というか、表現を問う場に対する不慣れ、教養の不足ともいえるのでしょう。日本人の特有のメンタリティーといわれることがあります。クラシック音楽には、これが特に目立つだけのことです。
ポップスであったり、歌舞伎などの日本の伝統芸においては、熱狂的な拍手や声が飛び交うことが、常態としてあるわけです。
 
観客に音楽的な教養がないと外国人が思ったところで、そんなものがあろうがなかろうが、背景の歴史文化が理解できないことくらいで伝わらないのであれば、それは、真の演奏ではない、少なくとも日本人にとっては、そうではないという判断をしてよいはずです。
国や時代を超えるのが、真の芸術と、私はいつもいっています。
 
まねてはいけないからといって、偉大なる芸術家からコピーをしてはいけないということにはなりません。偉大なる芸術家というのは、知名度があるということではなく、自分自身にとってすごい感動を与えたという相手です。☆
 
それがどうしてなのかは、音楽であれば、音や歌や声と細かく見ていくと、それなりに解釈、分析ができます。その通りにやろうとしても、決してその通りにはできませんが、近づくことができたり、そこから気づくことはできます。☆
最終的に自分が目指すところは、そこにはならないでしょうが、そこから学べることがたくさんあります。
 
時折、一流の歌唱に近づいたり、同じものが出たと錯覚したり、全く違うと突き放されたりします。そういったプロセスを練習でどれだけ味わっているかというのが、とても大切なことなのです。
 
感動できることは、とても大切なことです。
それがどのぐらい素晴らしく奇跡的なことだということに、内容がわからなくても気づいているかどうかが、芸術家となる素質だからです。
どのぐらい細かく、それをきちんと聞いて理解できるかというのが、クリエイティブに創造するには必要な素質なのです。
 
〇その先に
 
これまで、歌唱に関して、どういう歌でも、すぐに器用にコピーできる人もいました。自分に似た声をしている人の歌をそっくりコピーできる人もたくさん見てきました。
それは、練習のプロセスとしては、試してみるとよいことです。
ただ、その先に行くためにそれがあるのです。
そこで終わってしまう人が多いのは、残念なことです。
 
それには、お客さんの求めるレベルも影響します。
歌手の歌唱のオリジナリティよりも、その人が有名な人の曲や大ヒット曲を似せて歌うことの方を評価するのが、日本人です。
観客は、聞く前から、知っている曲のイントロで受けるし感動するのです。でも、それであればオリジナルの歌い手で聞けばよいのです。
 
クラシックやジャズ好きのファンと同じで、ポップスに関しても、日本人の場合はそっくりそのままに歌える人を評価する度合いが、とても高いのです。
それは向こうのミュージカルを上演した方が、日本人のオリジナルの作品より人気があるということでもわかります。
 
今の時代を歌う曲よりも、昔の懐かしいヒット曲を歌う方が盛り上がるということです。原語で歌うより、日本語の方が受けがよいのです。そうなれば、レパートリーに入れざるをえません。
音楽を聞く耳を育てていくことが、どれほど大切かということをもう一度考えてみてもよいのではないでしょうか。
 
〇修正のよしあし
 
レコーディングの問題も関係してきます。
今は、ライブでもほとんどが録音され残ることになるので、演奏、歌唱を正確に行わなくてはならないというような制限が強く絡んできています。
 
ライブ盤をレコーディングして販売する場合に、けっこうな修正が行われると聞いたことがあります。
繰り返し聞くための録音バージョンと、ステージで一度限り歌ったものが違うのは、仕方がないのかもしれませんが、そうした修正によって、もっと大切なものが消えているのではないか、それがどうなのかというのは、なかなか難しい問題ではないでしょうか。
 
芸術ということであれば、昔のように、拙い楽器の演奏であっても、感動をもたらすことができたでしょう。それは今、聞いてみても、変わらないかもしれません。もちろん、感動したら芸術に値するということにはなりませんが。
 
劣化したレコードでノイズがあったところで、そこに生じている音楽的な価値、芸術的な価値は、必ずしも失われないでしょう。私たちの脳や心自体が、それを補正するのかもしれません。
 
評価というのは、個人差もあるし、その他の条件がいろいろとつくので、とても難しい問題です。ただ、今のように、歌の声が素材として使われ、AI合成した音と同じレベルで扱われるとしたら、それは大きなものを失うのではないでしょうか。
 
〇人間としての表現力
 
将棋の対局では、AIは使えません。AI同士の対戦はきっと人間同士の対戦よりも高度なことをやっていくのかもしれません。それを見る人間の方が、理解ができなくなるかもしれません。
相撲でも、力士同士が戦うよりも、ロボット同士が戦った方が強いでしょう。でも、人間同士の戦いに、私たちは、パワーで迫力を感じるでしょう。人間だから人間に感情移入するのです。私たちは人間を求めるのです。
 
試合でも、陸上競技でも、すべて能力に限りのある人間という限定で行うからこそ、感動をもたらすのです。大谷翔平投手が160キロ、出して投げるから感動するのであり、投球マシーンが170キロ出したところでなんとも思わないでしょう。
 
もちろんF1のように、車の技術進歩で競うものもあります。しかし、レースは、そこに人間が乗っているから、ドラマになるのです。人間がどのぐらいかでも関わるのかが不可欠でしょう。自動運転の勝負になるのなら、全く違うものになるでしょう。ラリーも同じです。命が掛かっているのですから、白熱するのです。
 
そういった意味では、パラリンピックというのは、複雑です。今後は、人間の身体能力以上のパワフルな補助器具がつくことによって、人間の肉体で出す記録よりも上回ってしまうからです。補助器具が本体、つまり人間の能力を超えるのです。
 
そういった道具やツールの発展による記録の更新は、どう扱われていくのでしょう。
競技場そのものさえ、記録向上に有利に整備されて、新記録が更新されていっています。
 
ましてや、音楽や声における芸術的な活動などという曖昧なものについては、なおさら、わけのわからないものになっていくように思えるのです。
ステージの生鑑賞は3Dですが、画像配信は2D、音だけなら、さらに情報量は少なくなります。
シンセサイザーが出て、楽器の音はフォローされましたが、パフォーマーとしてのプレーヤーは残りました。エアプレーヤーまでも。
ヴォーカロイドが出て、生の歌い手は、どうなるのでしょう。
その成り行きを注視したいと思います。
 

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