特論71.日本人は、なぜ声が高いのか〜「女性が高い声を作ってしまうのはなぜ?」(Yahoo!ニュース)についての考察

「声の高い日本人の国民性」

〇声は高いのは、女性だけでない

「女性が高い声を作ってしまうのはなぜ?声の研究者に聞いてみた」(女子SPA!Yahoo!ニュース6/12)についての考察

「女性が高い声を作ってしまうのはなぜ?」
それは経済的な不況、アニメの影響、ある種のハラスメントの結果ではないかというような主旨の記事でした。

私が、「日本の女性の声が外国人に比べて高い」ということを本で指摘したのは、30年ほど前です。それも、それ以前の新聞の記事で指摘されていたことを引用したのです。
ですから、今さらも今さらです。
声が、それを取り巻く社会と連動しているのは、当然のことです。
ただし、今日となれば、日本の男性の声が高くなっていることの方が、特徴的だといえます。

〇ハラスメント

女性SPAのニュースですから、女性に対して、
ーむりに高い声を出したり、可愛く自分を見せる必要がないよー
というような応援の記事です。そこは、同感です。
ただ、ちょうどハイヒールやパンプス♯の問題と似ていて、声がそうしたツール同様に扱われているのには、やや違和感を感じます。

男性社会における女性の抑圧という構図で、何もかもが説明されてしまう風潮には、女性からも異論が出てきています。

ーいつの時代のこと?
私たち、そんなに弱くも虐げられているわけではない!
無理してやらされているのでもない、
好んで選んで楽しんでいるのにー
そういう意見もあるのです。

うまく適応している人は、こうしてスルーして、適応できない人が抗議に回るのは、よくみられることです。
この不況下で、貧困で苦労している女性が多いのは、確かです。
社会の波は、弱者を直撃します。そのしわ寄せは、非正規雇用の多い女性の方にきています。

しかし、男性とて例外ではありません。
自営業者やフリーランスの人をも追い込んでいるのです。
この問題は、性差よりは、弱者全体に当てはまることと思われるのです。


「無意識での声調整」

〇日本人の声と社会

コロナ禍などの生活のなかでは、呼吸が浅くなり、声を使わなくなってきています。
その結果、声が高くなっているというよりは、小さく細く弱くなっているのでしょう。感覚的には、声が細いと高くも聞こえます。それは女性に限ったことではありません。(いくら日本人でも、時代を経るごとに、どんどん声を高くできるわけではありません。)

ストレスで声帯や喉頭まわりの筋肉が緊張すること、喉頭が上がることや舌の緊張などと関連しますが、声帯が緊張したり、喉頭が上がれば、声は高く響きにくくなりやすいのです。が、それよりは、声を使わなくなったせいで生理的機能が劣化した影響の方が大きいでしょう。
マスク生活では、表情筋も抑えられ、滑舌も悪くなります。当然、舌の働きや唾液の分泌も。

コロナ禍前にも、口をぽけっとあけている人がいましたが、ドライマウスになりかねません。声帯と喉まわりががきちんと働かないと、嚥下作用だけでなく、踏ん張ったり、筋力を使うことにも影響します。つまずきやすくもなり、危険です。

〇声は履歴書、変幻自在に出せる

声は、生まれたときから、その人が身体に持っていて、それを教育や環境の中で使ってきたものです。楽器などのツールと違い、そういうなかで使い方が定まってきています。
ですから、高い声にするのはよくないとか、そういう問題ではないのです。

声は、その気になれば、かなりの程度、使い分けることができます。高くも低くも使えるのです。ただ、それは意識しなければ何ともなりません。
でも、意識しなくても問題がないから、日本人は、あまり意識しないのです。

相手によって、しぜんに使い分けています。高低、強弱、音色、メリハリなど、相手との関係において、声を決めているのです。そこはキャラと同じです。

〇声の敬語

ですから、電話で、相手が子供から先生に代わると、母親の声のピッチは瞬時に高くなるでしょう。男性でも、同じ傾向があります。私は、それを声の敬語と言っています。
敬意を表す相手には、声を高くていねいに、威厳を利かしたい相手には低く太く使うのです。上司やお偉いさん、初めての人に対しても、それがみえないマナーであり、戦略です。
相手により、あまり変えすぎると、まわりのひんしゅくを買います。あざといとみられるのですね。
とはいえ、総じて、日本人は声を、海外の人ほど、ポジティブに魅力として使ってきませんでした。語らず察するのをよしとしてきたからです。

〇聞く方も個人差大

臭いと同じく、声は、音なので古い脳に入ります。
理屈ではなく、その人の生い立ちなどによって、特定の声に嫌悪感を抱く人もいます。いじめられた相手の声をトラウマにしてしまうこともあります。つまり、声は、単体で、よしあしを分けられるほど単純なものではないのです。

聞く方にも、大きな個人差があります。声について、敏感な人もいれば鈍感な人もいます。
日本人は、あまり敏感ではない方です。なんとなく無意識に対応していて、それで済んできたから、そのようになっているのです。
その点では、日本という国の文化風土や、コミュニケーションのとり方、日本語の特質と密接に結びついているといえましょう。


「高い声における構造問題  その表現と表象」

〇笑顔とルッキング

声についても、笑顔で置き換えて考えてみると、わかりやすいと思います。日本人は、外国人ほど、表情や仕草で感情を表しません。そうした社会風土の中で育っています。ですから、笑顔というコミニケーションの最大の武器に対しても、海外の人ほど磨かれていません。特に男性はだめです。笑顔の女性に弱すぎます。(^^)

しかし、作りすぎは不自然です。微笑むくらいの表情が好感がもたれるのだと思います。このあたり、ジャパニーズ・スマイルとしても、賛否両論ありますが、私はアメリカン・スマイルよりは、ロイヤル・スマイルのようで、いいと思っています。

ミラートレーニングなどで笑顔を作る場合があります。これは女性だけではありません、男性でも営業や接待の仕事をしている人は、顔の表情で好印象と信頼を得るようにしています。
女性となると、笑顔の力は、男性以上に魅力的に働くといえます。そこをもっても、ハラスメントというのでしょうか。
それでは「笑顔で接客しなさい」ということさえ、笑顔強要でハラスメントになりかねません。

〇自分の意思か構造か

本人が好んで、ハイヒールを履き、かわいいコスプレをしたり、「甘ったれた声」を出したりするのも、社会的な圧力で、とみるとしたら、踏み込みすぎでしょう。
確かに、本人に自覚もなく無意識に動かされていることもあるでしょう。
しかし、構造的にそう思い込まされているといえば、なんでもそのように言えます。自分の意思や考えということさえ、なくなってしまいかねません。
流行もおしゃれも買い物も、そういうものでしょう。自己主張、自己表現でもあるのです。
特に若いときは、時流に合わせることによって、自分の個性を見出していくのです。

〇女性言葉とジェンダー

「女性らしい言葉」や「女性の言葉」は、以前から、ジェンダーの問題でよく取り扱われてきました。
そうした規範を強要されているのか、なんとも思っていないのか、あるいは、利用しているのかは、本人の意識です。そして、区別しにくいものです。☆
外からはわからないし、本人も明瞭に意識できていないことが多いのです。そのときはそうだったのに、あとから思うとそうでなかったと覆ったりもするからです。

難しいのは、人間、自覚して、自分の意志でそうしたくてしていると思ったことでも、必ずしもそうでないことも多いからです。それが声になると、なおさらわかりにくいのです。
メイクやファッションであれば、鏡で見て自分で細かく修正するので、少なくとも自分がそのように演出している自覚はあるわけです。実際の外に示す形、つまり、他人が受け取るものと、自分のイメージは、一致しているからです。

ところが、声の場合は、自分が出したものの把握ができていない人が大多数なので、自分のそういうつもりで出したのと、実際とが異なる場合も多いのです。さらに形はないので、相手がどう受け止めたかも不確かです。よほど特殊でない限り、十人十色の受け止め方となります。
「甘ったれた声」という例を出しましたが、そう思う人もそう思わない人もいる、本人もそう思って出しているとは限りません。

「そう言ったでしょう。」
「そういうつもりで言ったのではない」

言葉は、形なので、言質をとれます。しかし、声に込められたニュアンスなどは、明確ではないのです。となると、人間、都合のよいようにとるものです。

自己主張と考えて、その声を使う人を洗脳されているというなら度が過ぎます。
それこそ個人の自由な表現の規制になりかねません。

〇作り声

「声を作る」というのが、どうも、その人が本来自然に持っている自分の声とやらを抑え、相手に媚びるような甘ったれた声を使うような意味で使われています。
では、一体、自分の声とは、何かということになります。

自分の声とそうでない声と二極化して対置させられるものでしょうか。
それは、化粧やおしゃれとどう違うのでしょう。
異性に媚びるためと、魅力的に見せるようにするのと、自分自身の個性の表現と、それらを明確に分けられるものでしょうか。

モテるために行動するのは、あるいは魅力的に振る舞ったり、目立ちたいと思うところは、どちらの性も同じでしょう。

ここまで「高い声を使え」という女性への無言の圧力が、ジェンダー問題?ということできましたが、ある女性には、「高い声を使うな」こそ、「職場で個性を出すな」になりかねません。
そこまで意識しなくても、人は柔軟に対応して、TPOに合わせ、声や表情を作っているのです。

問題とされるのは、アニメっぽい幼い女の子の声ですが、確かにビジュアルでは、ときたま、アンバランスな表象が問題となります。多くは、誇張したバストですが、声においては、同じようにみることはできません。作画でなく、声は、すでに本人が得て、使ってきたものです。誰もが、程度の差こそあれ、生来の声をそれなりに演出して生きてきたのです。

〇声の表現と規制

昭和の時代に、NHKは、歌詞の自主規制、差別用語禁止というよりは言葉狩りをし、企業や商品名、自分の名前などを放映しないために、変えるという暴挙をしていました。
歌詞だけでなく、声まで規制したといえるようなこともあったのです。
青江三奈さんの「伊勢佐木町ブルース」の出だしなどが一例です。今では、言葉はともかく、声にそういうことは、なさそうです。

「自分の声は自分のものではない」

〇アニメ声の好き嫌い

女性の中には、同性のアニメっぽい声を毛嫌いする人もいます。男性は、以前より寛容になった気がします。
でも、男女ともに、そういう声には、大勢のファンがいるのです。
アニメっぽい声は、無理に誰かに命令されて出させられているものでしょうか。

アニメっぽいといいましたが、アニメには、実に多様な声が多彩に使われています。アニメっぽい声とは、イメージであり、アニメの声は、プロの声優が吹き込んでいるので、そのイメージとは、似て非なるものです。女優やタレントも、そういう声を出す人もいますが、やはり違います。発音明瞭でないとNGだからです。と、説明してきました。

声優は、現実の世界にない声まで創造したヴォイスアクターであり、さまざまな声を使い分ける仕事です。現代の日本文化を代表するものとなって、声優のレベルは総じて高くなりました。

〇自分の声?本物の声?

私も立場上は、幼く未熟な声、そのようにあえて作った声でなく、国際的にも通用するしっかりした声を使うのをお勧めしています。ビジネスで使うのであれば、当然のことです。

ところが現実は、というと、女優や歌手の中にも、そのような声を、使う人も出てきているわけです。
かつては、子どもっぽい、甘えているよう、と批判的にもみられていましたが、今は、ふつうに放映もされています。ビジネスにも入り込んでいます。どういうことでしょう。

〇テレビの影響

この10年で、タレントのしゃべり声や歌の声にも増えました。つまり、市民権を得てきたことになります。
テレビの出演者が、そういう声を使うのは、世の中で使われているからです。ドラマなら、その方がリアリティがあるからです。
そして、若い人が影響されて、しゃべるようになるのは、当然のことでしょう。どちらが先でなく相乗しているのでしょう。

他面で考えられるのは、テロップの使用です。デジタル技術の進歩で簡単にすぐに入れられるようになりました。それこそ声優の吹き替えか字幕かの世界です。
外国語だけでなく、方言も昔の言葉も、聞き取りにくい素人の出演者の言葉も、リアルのまま出したければ、テロップで片づくのです。
今の歌、テロップなしではわからないものも多いですね。つまり、明瞭な発音でなくとも、テレビの出演は、問題なくなりつつあるのです。

〇JKとロリコン

日本では、未熟なもの、ロリに魅かれる男性も多く、海外のように成熟、円熟した女性への憧れが、男女とも少ない社会です。もちろん、そうでない人も増えてきましたが、ここでは、マザコン、熟女好きなどということではありません。

JKなどは、日本発の価値観です。そういう男性の価値観が反映されてか、若いほど価値があるとみられてきました。
ここも複雑で、子孫を残していく生命の本能まで遡ると、人類に共通した価値観ともなるでしょう。
でも欧米のように十代が天使のように美しいわけでもなく、そういう犯罪は日本では少なかったのです。

もとい、ここで難しいのは、自分本来の声の定義です。自然に使っている声、日常の声が、そのままビジネスに使えるほどに、日本人の声は磨かれていません。個人差がありますが、言葉遣いと同じく、身につけていく必要もあります。
その見本が、かつてほどの規範がないのです。ある意味、個性化で、多様化です。
アナウンサーの言葉も乱れ、「正しい日本語を」「女性らしい話し言葉を」とは言われなくなったのです。

〇求められる声

以前は、男性には大きくしっかりした声、社会で活躍する女性にも低く通る声が求められました。
私は、そうした声は出せるようにしていきながら、あえて必要があるとき以外は、そんなに使わない方がよいともアドバイスしてきました。

そうした声でのキャラを作るのは、現実社会では、諸刃の剣だからです。トップか一匹狼タイプならよいでしょう。そうでなくては、日本社会ではあまりよく思われないケースも多いからです。もちろん、キャスターなどの仕事で使うなら最適でしょう。

〇声は、二面から考える

何よりも声は受け手にとっての差が大きいからです。どんなに多くの人がその声がよいと思う声があったとしても、それを嫌だと思う人もいるのです。
逆に、自分が好きでない声でも、そういう声が心地よくて癒されると思う人もいるのです。

もちろん、自分の声にも使いやすいとか出しやすいとか、無理のない声というのはありますから、そこに基づいて、使うのが第一です。
その次の条件として、相手に合わせる。相手がそれを嫌うのであれば、そうでないような声を作って出すのも、気遣いでしょう。
この2面から考えなくては、よいコミュニケーションは成り立ちません。

〇声の影響力

しかし、いちいちそんなことを、相手に尋ねるわけにもいきませんから、大体は、あまり不自然にせずに使い、相手の声も認める方向で進めていけばよい話です。
その辺は、顔と同じで、自分だけの好みは、ビジネスでは避け、プライベートに、ということです。
プライベートでは、長く一緒にいる人となら、心地よいところまでいかなくても不快にならないことは大切でしょう。それがどのくらい声に関係するのかは、人によるでしょう。
声はTPOでも変わります。ことばでも喧嘩になりますが、声の感じや口調もまた影響力が強いものです。「声を聞くのも嫌だ」となると、関係維持は難しいでしょう。

ともかくも、こうした問題は、女性に限ったことではないのです。
とはいえ、日本の社会は、声のパワーで動かしていくところではありません。
もっとも国際社会では、声での演出力を日本における俳優並みに訓練しなくてはならないでしょう。そこは別に考えることです。


「世の中と時代と声」 

〇男女入れ替わりドラマ

男女平等のテーマを取り扱うと、究極は、入れ替わり体験です。
「天国と地獄〜サイコな2人〜」
これは、階段で同時に転落して、主人公の女刑事と殺人事件の男容疑者の身体が入れ替わるというもの。
出演、綾瀬はるかさん、高橋一生さん、柄本佑さんに、北村一輝さん。オープニングが、ベートーヴェンの「運命」でしたね。
入れ替わりでは、差の問題をリアルに考えられます。

このように、身体が異性となる体験をシミュレートしてみるといいですね。きっと世の中の見方が変わります。

このドラマでも、声や食べ物の好みは、相手の体に支配されますが、メンタル面での話し方や癖などは、元の自分のが残る、つまり意識が、自分ということなのですね。でも、他人は見た目、つまり顔を含めて体で判断するのです。

〇声の違いは、性差そのもの

高い声というのは、女性や子供の特徴です。それは、男性が、男性性を強調するために、獲得した低く太い声に対して、です。声変わりは、第二次性徴で、男性は、声で大人へと歩みます。

ということでは、現在の日本において、男性の声が高くなったのは、男性性を強調する声を使えないような同調圧力があるとも言えるでしょう。このほうが、この時代としての問題でしょう。女性がもし高い声になったというのなら、それに対する本能的なものでもあるという見方も欲しいところです。

男らしい太く低く響く声が、この国では、もはやハラスメントにさえ受けとられかねないのです。(私への研修の依頼も、以前は、大きな声でしたが、今は、好まれる声になりました。)

おかしなことでしょう。ある意味で男性は、自分の声を否定されているのかもしれません。
ひげが気持ち悪いとか、脱毛しないと嫌だとか、思われると、そこはどうなのでしょう。
男性らしさ、それをどう考えるかに、正解は見いだせません。「らしさを押しつけるな」が主流ですが。

どうも気になるのは、性別問わない、いや男性にも関係するハラスメントが、何事も女性へのハラスメントのように強調されることです。
女性が言うのなら社会問題となるが、男性から言うと問題にならないとか非難されるなら、おかしなことです。

たとえば、「女らしくしなさい」というのはタブーで、「男らしくしなさい」というのは、まだ使われます。男の子に「男の子でしょ」と言って、何が悪いのかという問題もあります。
そんなところまで規制していくと、ほとんどの言葉を使えなくなるでしょう。

ちなみに男女規範については、男性は賛成、女性は反対が多い、賛成する男性の既婚率は高いそうです。このあたりは、元々の性差からもきているだけに複雑です。女性が社会的に不利に扱われてきたのは、否定できませんが。

ウクライナでは、18歳から60歳までの成人男子は、徴兵に備え、出国禁止で国外に退去できません。明らかに不平等ですが、性差での役割分担で、許容される範囲という判断なのでしょう。女性兵士も15パーセントいます。
ちなみに日本の自衛隊では女性は7.4パーセント、1万7千人です。これを男女半々にしろとは思いません。

こういう私の発言は、男性視点なのでしょうか。
入れ替わって考えられていないのでしたら、すいません。

〇多様性と規制

多様性を認めるということは、いろんな人がいて、高い声、低い声、いろんな声があって、いろんな声の使い方があってよい、いろいろと選んで使い分けてよいということです。
そういう意味では、高い声=幼稚で未成熟というような言い方は、できません。

高い声やアニメっぽい声が、素の声の人もいます。地の声と演出との区別は、あいまいです。

女性が低い声で悩むように、男性も「女みたいな声」と言われて悩んできた人がいます。「女みたい」という発言も今は許されないでしょうが、ここは事実です。「男みたいな声」という言葉もあるのです。

ただ、男という言葉と女という言葉の使われ方自体、歴史を背負ってきているので、同等に並べることもできません。たとえば、男になる、は、肯定的な意味合いですが、女になる、は、かなり複雑です。

男性の性同一性障害の人は、声を高くしたくて涙ぐましい努力をしています。さまざまに複雑な問題があるわけです。

声の違いは元々、性差に基づくものであるだけに、安易に男女の対立構造に利用するのは避けるべきだと思います。


「声にみる圧力、差別、文化」

〇社会と連動する声

同調圧力というと簡単ですが、人間が社会的な動物である以上、社会が求める方向に自分を合わせようとするのは、当然のことです。その社会も捉え方も、人によって違います。
あえて、社会に反して、生きやすくなるというのならよいのですが、大体は生きにくくなるのです。そこをどこの視点でみるかということです。

普通は、そうすることで生きやすくなったり、自分にメリットが得られるのであれば、そこは本人の価値観で行動すればよいのでしょう。普通は、です。

生きやすくない人は変えようとしますが、生きやすくないと思わない人は変えようとはしないでしょう。どちらが次の時代なのでしょうか。
しばしば、「時代が遅れていて、生きにくいから変えよう」としている人の方が、その時代を知らず、遅れていることもあります。一歩も二歩も先で自由に生きやすく楽しんでいる人がいるのを、上から目線でみて同情しているようにみえることもあります。

〇区別と差別

ミスコンは、ミスコンに出ない女性から非難され、出る女性からは権利を奪われるものと非難されました。ミスターコンテストも行われました。
ミスとミセスの区別や年齢制限は差別といえそうですが、多様な価値観と差別の見方は、ケースごとに変わります。特に、区別と差別の問題では、かなり複雑になりましょう。

〇差別用語

こういうことは、言葉の使い方にも反映されてきます。
看護婦は、看護師となり、女性なら女性看護師、父兄参観は、保護者参観、時代に合わせて変わります。それでも、職としての男性保育士の悩みなど、これ以上は問題が広がりすぎるので、戻します。

〇圧力と表象

ともかく、アニメっぽい声を作って出す人たちがいてもよいでしょう。それが同調圧力のせいだとか、女性としての表象として強いられていると言われても、そう感じない人は、改める必要があるのでしょうか。

人間、そんなに弱く浅はかなものではなく、したたかなものです。
今風の見方こそが、かなり偏っていることも多いのです。
それでは、一時の極端なフェミニズムがそうであったように、同性の支持さえ得られないでしょう。

〇新しい価値観とは

私自身は、声を作って出すとかされているようなアニメっぽい声は、好きではありません。聞いていると疲れます。歳をとると高い声は聞きづらくなるということもあります。
だからといって、好みは抜きに、そうした要望は、受け入れます。ただし、合理的な発声原理からは応用として、基礎の上に可能域を広げるという対処をします。

その人が無理なく消化できるときもあります。そうでなくとも持って生まれたものの延長上での位置付けを知って、使うほうがよいでしょう。そこはその人の潜在能力にも負います。男性なら、出しにくい声です。
そうした新しい文化や価値観が出てくることは、歓迎しています。どちらもできるようにして使い分けたらよいと思うのです。

国際的にみた価値観においても、声そのものについて、私なりの見解はあります。
しかし、アニメを中心とした日本の映画や漫画は、世界中の人に受け入れられています。
世界中の若い人たちが、ビジュアル面を中心としてですが、日本語や日本の歌にアニソンで親しんでいます。当然、アニメの声も気に入って、真似されてきています。

これらの現象は、こうした分野の価値の高さを示すもので、文化、芸術としての次代の人類への貢献でもあるのです。

〇まとめ

これは、記事についての反論ではなく、説明の仕方の違いに過ぎないと思っています。声についての争点ではなく、時代や世の中の捉え方での相違、立場と解釈の違いです。とはいえ、記事が女性視点のものですので、自ずと反証材料が男性視点のようになったのは否めません。このテーマで取り上げるところから、意図せず、表現の自由戦士、保守的なオールドボーイ的な展開になったと省みています。

皆さんには、声は、その多様性ゆえに多くの解釈ができることを考えてもらえたらと思います。
                  (「fukugen」6/30-7/6より抜粋)



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