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哲学とアサナを同時に進めていくことの意味

1、自分と向き合う前に

「ヨガ哲学なんて難しそうでまだ私には早いから〜!!とりあえずアサナだけでいいです〜!」

よく聞くセリフなのですが、これはなかなかの勘違い。ヨガ哲学って、「考えることって難しそう。」「意識とかよくわからない。」「生きる意味なんて考えてこなかった。」そんな人にほど優しい。なんだ、そんなカンタンなことだったのか。「私が悩んでいる理由」「私が何と無く不幸続き、苦労続きな理由」「私がいつも何やってるんだかわからなくなってしまう理由」「自分と向き合っても向き合っても人生がこんがらがる一方!」

それが実はシンプルなところからきているのだと理解すること。世界をシンプルに理解して、まず「自分」ってなんなのか、というところから捉え直し、その「自分」が何をやっているのかを理解していくためのツールです。


哲学を学んでいくと、世界の見え方がガラッと変わる。

「え、そうだったの?そういうことだったの?」

今まで問題だと思っていたことが問題でなくなり、問題でないと思っていたことが問題になってくる。今まで「自分」だと思っていたものが「自分」でなくなる。そしてその解決策が見えてくる。

2、アサナを通してできるようになっていくこと


「さて、私の人生にこの哲学を当てはめて生きていこう」という時にアサナは実践的に役に立つ。哲学で学んだことを一個一個、一瞬一瞬、パーツごとに観察する。

・一体今、私は何をやっているのか。

・一体今、私はどこを動かそうとしているのか。

・一体、私はどこへ向かおうとしているのか。

日常では見過ごして、無意識にいろんなものをガサっと動かして、結果、少しずつのズレが集まって、やがては全体の方向性が大きくずれてしまうところを、アサナでは一個一個紐解いて整理する意識の癖をつけていく。シンプルなアサナの中で、手はどこにある、足はどこにある、意識はどこにある、氣はどこにある、呼吸はどうなっている、心はどのような状態にある、ということを同時に観ていくことで洞察力を高めていく。

そしていつも「自分」とはなんなのか、その「自分」だと思っているものが一瞬だって固定されたものではないことを体験していく。その中で育っていくものがアウェアネス。

私が何をしているかに気づいていること。

それがヨガのアサナで積み重なっていくこと。


3、動くことが瞑想になる

てやんでい、瞑想なんて甘っちょろいことしてられるか!!というあなた。

哲学を学んでいると、アサナの中でそれを体験として噛み砕き、理解していくことができる。そこに哲学という添え木があるから、動くこと(アサナ)が「瞑想」(意識的観察)になっていく。瞑想を重ねていくと「意識を観る意識」という特殊な意識を育てていくことができる。

例えば今、発動している意識が、自分のエゴイスティックな部分から発動しているものだとしたら、アウェアネスが育ってくるに従って、同じ出来事を体験しても発動する意識の質が変わってくるのだ。

何か新しいことを立ち上げて、これから始めようという時、本質的な学びを土台として初めていくことは、遠回りに見えてとても論理的で効率的だと思う。


4、自分を見つめるためのセッティングを変えていく


生産的なこと、経済的なことが安定してから、本質的な学びに取り掛かろうというのは資本主義的な感覚だろう。多くの人が、このアイディアに洗脳されていて、本質的なところから遠ざかっていく。そのように仕向けられた世界の中では当然のこと。

しかし、私は心からオススメする。生産的なこと、経済的なことに挑戦する前にこそ、本質的な学びを通して、自分というもの、世界というものを捉え直す必要があると。そしてそれを定着させていく必要があると。

この世界がこんがらがって、不自然になっているのは、そもそものセッティングがずれてしまっているからなのだ。「仕事」というもののセッティング、「お金」というもののセッティング、「家族」というもののセッティング、「成功」のセッティング、「愛」のセッティング、「結婚」のセッティング、「こども」というもののセッティング、「教育」「職業」「食べ物」・・・etc. 全てのセッティングを根本的にずれたところでいくら考えても、「本当の答え」になんか会えっこないのだ。「ずれた答え」しか返ってこないのだ。


「こんがらがり」から抜けてくると、なんとなく直感的にそれが理解されてくる。そしてそこに入っていく。そしてそこから抜けていく。「こんがらがり」過ぎていると、全ての直感が封じ込められてしまっているから、まずその通り道があることすら気づけない。

どんなに明らかな答えの道が用意されていたとしても。「こんがらがっている」ことに気づいた誰かが手を差し伸べていたとしても。それを払いのけて、こんがらがる道へとさらにさらにこんがらがりに入ってしまうのだ。


自分が少しでも「こんがらがっている」と気がついたら、本質的なセッティングを見直していくことをお勧めする。そして、そのセッティングの見直しを自力でする本質的な知性が自分にないと気がついたら(私はなかった!!)その時点ですぐにヨガ哲学と繋がっていくことを心からお勧めする。

ヨガ哲学の良さは実践的、プラクティカルであること。頭で理解できなくても、順番を追って練習していくことで、その知恵が身についていくといくこと。

私のように記憶力がなくて、読解力がない人間でもそんなに優秀でなくても、運動神経が悪くても、ボケーっとしていても、気持ちを向けてコツコツ楽しんでやりさえすれば、一歩一歩進んでいくことができるということ。

こんなに優しい知恵はない。

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