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性欲と身体と自主と自由の話



「フィクションを書いたり読んだりする側に向く揶揄として頻出しがちな"性欲"ってなんだろう」
「性欲だとジャッジしたがるのはなぜだろう」
「そして、そうとジャッジされること自体は忌避されがちなのはなぜだろう(後ろめたいから?)(じゃあ何が後ろめたいのか)」
「しかもそこにおそらく性差があるのはどうしてだろうな」


 あたりのことをしばらく考えていました。
 暫定Ace/Aroだからこそ、なお興味があるというわけです。
「自分にも、向けることはないにせよ性欲自体はないわけではないだろうに、その解像度が漠然としすぎているのはなぜだろうか」という疑問もあったので。


 考え始めたそもそもの発端はこの記事なのですが。

https://anond.hatelabo.jp/20200601124254


 内容の是非ではなく、「性欲丸出しの女性向けオタクコンテンツ」の響きのみに焦点を当てて話していく感じです。
(内容の是非は、ディズニー作品のことをよく知らない自分には言及できません)

「性欲丸出しの女性向けオタクコンテンツ」なのか、
「女性の性欲丸出しのオタク向けコンテンツ」なのか、
という重箱の隅ホジな真似をして申し訳ないのだけど、該当ゲームをプレイしている当方が思ったのは


「あの仕様でありながら"丸出しの性欲"視されることどうして……」とか、
「女性の性欲が丸出しにされた状態、は言うほど"表に"出てきていたか?」とか(出てきていなかったから紛糾したといえばそれもそう)、
「何を指して性欲としているのか?」とか、
「キモい発露と見なしたものに性欲という言葉を宛てている感じなのか?」とか、そのあたりでした。


・エロがむやみに表に出るのはいけません→それはそう。
・性的なニュアンスを含むものもセンシティブなので、場所を選びましょう→それはそう。
・性欲とは、そのままエロ表現? に直結して然るべきなのか?→わからない……安直すぎん……?
・男の性欲と女の性欲に違いはあるのか? →あるはあるんだろうけど結局一緒では? わからない…………


 なんかもう全方位に疑問符で申し訳ないですね。
 しかし、ともかく、「性欲である」という揶揄が少なからず波紋を呼ぶのはどうやら事実みたい。そうじゃない、とか、そうかも、とか個々に感情はあると思いますが。
 自分には少なからず効いたし、そうなると「なにが効いたのか」「なぜ効いたか」が気になって気になって仕方がない。
 性欲、とくにフィクションを介在してのそれ、皆さんはどう扱っているんでしょうか。自分は取り扱いに手を焼いていました。一応は過去形だとしても。そういう話をします。



・自罰感情とか心の性器とか


「(対フィクションにおける)おまえのそれは性欲である・性欲ではない」的なジャッジ、やっぱりめちゃくちゃ野暮では?
 いや、単純にそんなジャッジされたくなくないです? 「それを看破してだから何?」というか……「それの是非を問う」ことの野暮さというか、「やましさ」を植えつけようとする魂胆というか。

 
「性欲だ」とされた途端におそらく、ほぼ反射的に、無意識に、「それを隠そうとする」機微がもう浸透しきってしまっているのではないか、自他ともどもに。という危惧。自罰感情の話です。
 むしろ隠さないことによって「エロい話題オーケー」となぜか見なされて、他者から異性から同性から加害されるリスクが生じる。という側面もあるはあるにしても。(そもそもそんな雑な見なし方をする側が邪悪なんだけど)


 もちろん「みだりに口にするのははしたない」あたりの感性は万人にあるんだろうけど、それでも、言い種として「心の男性器(略すとここちん)」の方を用いるのはまだオッケーっぽい空気がある。ように感じる。のは、インターネットの見過ぎなんでしょうか。


 それで、自分は、そのここちん概念がどうにも据わりが悪くて苦手でした。
「言うて自分にはそれはないし……それを使って任意のフィクション対象をどうこうしたくもないし……どうこうされるフィクション対象が見たいかってのも微妙だし……でも概念としてはポピュラーだ……少なくない女の人がその概念を使っている……」という感情が、苦手の主成分。
「それが無ければいけないのか」っていう自分の積年の感情や、「興奮はそこで行われることが是なのか(じゃあ無い場合はその興奮も偽物なのか)」に尽きるというか……言うてそもそもあるじゃん、個々人にそれぞれの生殖器。おもに性別に則ったそれが……。


 もちろん、人がここちんを有しているそのことは否定できないし、ここちんに基づいた欲望を否定するのは内心の自由に対する侮辱行為なので、しませんしできませんが。
 ただ、その概念が強くまかり通っていて「その興奮じゃないと是じゃないように感じていた」という自分のお気持ちに折り合いをつけることもまた、少し難しい。
「女性が(あるいは男性も)、自らの欲望(?)を"男性的に"表現するそのことのポピュラーさ」がややおっかなかった。あるいは、「性器に基づいて興奮を表現すること」に対して思うところがあったのか(※表現それ自体は自由です)。
 あとは単に、「男性器呼び(ここちん概念)が幅を利かせているのではなく、女性器呼び(?)が抹消されまくっていること」への不均衡さ。
「女の性欲が丸出し」にされること(どんなだ)への、性別問わず眉をひそめてくるような、あの感じ。あの感じがどこから来ているんだろうか、という話にもなってきます。
 


・欲望と、内心の自由


 男性器呼称はギャグにもノリにもなるっぽいのに(その空気が苦痛な人もいるし大丈夫な人もいる)、女性器呼称はなぜああまで「卑語」の側面が強いのでしょう。か。
 かく言う自分も卑語寄りに見なしていただけに、いざ振り返って不思議な顔になったという。おおかた「下品に聞こえる」わけじゃないですか。
 いや、どうして?
 その言葉が「卑語としてのニュアンスが強すぎる(風に聞こえる)」ことに対して自分が疑問を持ってなかったっぽいことが今さらおっかない。とくに女性器、なぜだか「エロ視するのが妥当なもの」としての概念が強すぎる。気がする。


 そもそも男のそれ女のそれ問わず、性器自体にエロの要素がくっつきすぎているという通念。突き詰めればただの生殖器、身体の一部。なのに。「それ以外の意味合いやニュアンス」がめちゃくちゃ手強く手堅く付随しているのは、社会あるいは人間の為せるわざなんでしょうか。
 そうなると、別にそれは言うほど卑語ではないじゃん。おおっぴらに口にするものでもないにせよ、「絶対にいやらしいから絶対に口にしてはいけない」ものではないじゃん。じゃあ、その「絶対」の出どころは? 在り処は? という。


 自分の観測範囲のみを指すなら、「エロ要素を抜いて為される女体の話」を男女ともにあまり聞いたことがないし、かつ「女体持ちが率先して自らの女体の話をする」ことはびっくりするぐらいステルス。
「性的消費」あるいは「ルッキズム的なジャッジ」が強すぎるからなんだろうけど、それにしても。


 むろん自分も「いやおおっぴらに性の話とか気持ち悪いな」があり、だからここちん概念が苦手だったのもあったけど、「女体持ちが自らの身体にまつわる話をしてはいけない」のはなんかちげーな……とふいに我に返った感じ。なんか言うほど暗黙のタブーではなかったなみたいな気付き……。
「自分が女体持ちであることは承服してたけど、女体に紐付いたニュアンスにはいっさいまったく何ひとつ承服していなかった」ことを、ここにきて思い出してしまう。


「ただその身体をしているだけ」のことにごちゃごちゃ意味が後付けされるのがうるさくてしょうがねえわけでした。たかだか胸のこと(パイスラとかいう言葉)、たかだか股のこと、何やらついて回る品定め。「自分のものだけど自分のものではない」をゆっくり教え込まれるあの感じ。
 単純に、蓋を開ければただの手の込んだ抑圧だった、というだけ。身体は身体であり性は性であり、「他者から、モノのように、エロニュアンスのように、品評されるために」あるわけではなく、突き詰めればまず当人だけのものである。ということ。
 この感覚は、性別問わずわりと杜撰にされがちなのではないか、という話……。


・私のものは私のもの


 女体にまつわる通念のめんどくささ、すっごいですね。「性器はよくないもの」「性欲の存在を(人が喜ばない形で)表明してはいけない」「身体諸々のことは他者がジャッジしてもいいけど当人は口にしてはいけない」のやんわりとしたセルフ立ち入り禁止感。男体持ちの方もそうなのかな。
、己には己の身体、そして性がある、と納得できて初めて「性的な事柄」に対する自身のスタンスにようやくピントが合う。っていう。迂遠すぎるルートを辿っています。


「何に(性的に)興奮するかは自分で決めていい」というの、「いや当然じゃん何言ってんだ」だって思えるか? という。
 思えるなら別にそれで大丈夫です。自らのそれを何もやましく思わなかったり、あるいは明かしてはならないと思ったり、よくないものとして封じようとしたり、そういう経験がないのなら、健全……といえるのかもしれないし。


 あるいはここちんスタンスの方々のほうが、こうした感慨に先に至っていた可能性もあるんだけど、「内心で何をエロ視するかなんて、自分で決めていい」「その興奮に引け目を感じなくていい」という自由さを実感できる人はたぶん多くないのでは、などと思う。第何次性徴?
 少なくとも自分は、そういう内心の自由を今さらなんとなく理解したことによって、「自身の女体を本当にとくに何とも思わない(引け目とかそういうのを感じないの意)」ことが可能になったし、そうして回り回って性的興奮の自由を得た、とも言える。
「そういうことを考えてはいけないぞ」という抑圧だか通念だかそれらの内面化だかに、本当にひどく手こずらされた。
 己の性も身体も己のものだし、性器も性的な特徴も結局はただの物質。価値やメリットの有無を外付けされる謂れはない。それが腑に落ちるまで、ここまでかかるとは驚きました。



・じゃあ女と名乗るのか?


「女体持ちである」ことは名乗れるんじゃないかな、という着地点です。
 たとえば性的興奮一つとっても、濡れていることと「女体である」ことに相関はあるけれど、濡れていることと「女である」ことに相関はないんですよ。いやほんとに。
「女体である」ことの肯定のできなさ、本当にすっごい。「綺麗になろうとする」とか、「ふしだらではいけない」とか「体型に甘んじてはいけない」とか、「現状をよしとしない」感覚の強力さってあれは何なんだろう。そういう抑圧? は男体持ちの方もそうなのかな。それは社会通念が悪。


 女性器の名称をいじった罵倒用名詞三文字……の存在をかつて知ったときは正直笑ってしまったし、「それを罵倒として用いる」感性が心底わからなかったんですが(下品ということだけはわかる!)、あれも「女体持ちであること」に対する悪罵なんだなあって。女体持ちであること自体が悪罵としてまかり通るってすっごいねえ。
 女性が自らの「女体の仕様」を、あるいは「女であること」を悪とする(あるいは是とできない)の、生きていく上で本当に毒にしかならない。月経を始めとしてポジティブに思いにくい要素は枚挙に暇がないにせよ、それでも「女体持ちであることは悪ではない」としていかないことには悲しすぎるなと。


 女体持ちであるそのことと「その女体はよくないものである」ことに相関は一切ないです。そう信じるしかない。そもその身体はご自身のものなので、どう見なしてもいいです。そう信じるしかない。
「女であれ」と迫られ続けながら、自らの身体を磨かされるような不毛をどうにかしたいよな。いや自分は磨いていないのですが。
 自らの女体を賛美せよとは言わないけれど、「なんか漠然とよくないもの」と無意識にでも思うような時間、一秒でも減ってほしい。自分の身体は自分のものだと全然思ってほしい。これはそういう祈りです。


(20/07/03追記)
(冒頭の記事から考えていた折に、Twitterで見た「まんビズム」の概念が大変ドンピシャで感銘を受け、解像度がぐーんと上がったのでこのnoteを書けたところがあります。自分のこれらの言い方よりもっと簡明なので、気になる方は調べてみてください)


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