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暗澹海の遊泳

 こんばんは。これは日記です。


 落ち込む時は落ち込む。というよりも「よっしゃこれでやってこ!!」みたいな指針や気概になることが少ないからそもそも「上がっていない」という方が近い。
 アップダウンが激しいくせに、上がること自体も多くない。日々の様々なことに簡単に疲れてしまうし、シャットアウトすればいいものを「よかった探し」に奔走してしまって結局時間を週末を空費する。
 とにかくままならない。しかし、そのままならなさを作っているのは己なのだ——という思いが拭い切れない頃になってようやく「さすがに調子が悪いよな」と気が付く。そうなった時にはもう、気が紛れるようなことにも着手できなくなる。そして今、その気分のままこれを書く。


「(セクシュアリティやそれらを踏まえた生き方に)正解がないなら間違いもない」という認識に至ることができたのは僥倖だし、その認識自体がいかに真でも、それでも苦しむのだから変な話で。
 単にそれは、いかな発見や着想を得ようともそれはゴールではなく、以降も粛々と人生は続くからっていうそれだけのことなんだけど。
 見出したもの、得たもの、それらが人生の解像度を上げてくれるそのぶん、「変わったのは己の見方や認識、よくて行動のみであり、生きるこの場所自体はまあまあヘルであること自体はそんなに大差ない」ということに気が付いてしまうわけです。(環境を変えるのは己だよという模範解答の話は今は脇に置く)


「それでも正解はないんだから己が間違っているという証拠にはならない」と言い聞かせることはできても、それでも、磨耗すること自体はなかなか避けられない。リカバリの手管は幾ばくかは上がっているにしても。
 結局、最終的に「さらにわからなくなる」ということが、時々めちゃくちゃにしんどくて笑ってしまう。
「だってそれでも、人は人と繋がって生きることを是とされてしまうことに変わりはないんだから、どうしたってこのしんどさは一緒じゃん……」という気持ち。
 人と人とのやり取りの上に成り立つすべてのことに、とりあえず暗澹とする。そうなると全方位が対象となりキリがないので、意識をズラす。そうして時々「あっそうか人は人と生きていきたいんだった。そっか」と思い出してこうなる。「人を好きになれたり、人の好きに応えられたり、やっぱりそれが望ましいのは本当じゃん」ということを思い出してしまう。


 パートナーがいます、とか、伴侶がいます、とか、一緒に生きていきたい人がいます、とか、そうした事柄に対して自分は祝福することが関の山で「それを求めたい感慨がない」ということに翻って打ちのめされる。
 だから「本当に欲しくないのか?」と自問だってする。それに対する自答は「あり得ない世界とは思っていないけど、欲しいか欲しくないかと言われればいらない。必要かそうじゃないかと言われたら、必要ではないと断言はできない」がどうにか言語化できる範囲。


「人と繋がりたい」という切実さがない(大事にしたい友人たちはいるので、そこで満足している……という可能性もあるにしても)。それでも、「それで世の中をやっていけるのか??」という不安が時々顔を出す。
 やっていけないこともないだろうけど、現状に不満もないけど、それでもやるせなさ寄る辺なさみたいなのはずっとついて回るのではないか? だから人と生きようってのか? いや、ないな……の繰り返し。何もわからなくなる。
 みんなどうやって生きてんの? という怒りとも悲嘆とも恨みともつかない感情が残る。これを宥めながらどうやって生きていくんだか。他人を信じていないのか、と言われれば言葉に詰まるくらいのアレ。


 そして今日はそういう夜。こういう時に推しコンテンツを浴びるとかするのがベターとわかってはいても、何にも手をつけたくないという感覚が駄々をこねるのでどうにもよくない。
 このへんの虚無感はたとえば日常生活で成功体験が少ないだとか、充実感がないだとか、学習性無力感がどうたらとか、いろいろな要因はあるとは思う。あるいはスキゾイド? と思わなくもないけどそれも少し脇に置く。
 大丈夫になりたいとまでは言わないので、まあ悪くはないよくらいのテンションでいたい。週明けから頑張りましょう。


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