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アメリカの大統領選挙、「過半数票」はどうしてたったの270票なの? (パート2)

前回noteで大統領を選ぶ「Electoral College」(選挙人団)という間接的選挙の仕組みについて書きました。ユニークなこのやり方、アメリカ建国当時から200年以上ずっと、続けて行われてきました。

今回はその仕組みの歴史的背景を振り返ってみたいと思います。昔の話でありながら、現代アメリカの人種差別問題に深く通ずるルーツがあるのです。

「みんなを代表する人を選ぶ」ことの難しさ。

リーダーを選ぶにあたり、まず決めるべき課題がいくつかあると思います。(1)選挙母体となるグループ、(2)選ぶ権利をもつ人、(3)リーダーを選ぶ方法 ー どれをとっても難問です。

イギリスから1776年に独立したUnited States of America。 (一般的に「合衆国」が定着してますが「合州国」が正しいと思ってます。なのでここでは「合州国」の表記で統一させていただきます。)独立当初は東海岸の北から南まで、以下の13の州でした。

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ある意味、13人の子供が一つ屋根におさまって新たな独立集団を作ったのでした。独立集団としてまず決めるべきは「みんなのリーダー」でした。お手本となるのはこれまで「親」だったヨーロッパ。でもそことの大きな違いは「君主」が存在しないことでした。イギリスもフランスも「王室」があり、そこに就く人は選挙で選ばれるのでなく、生まれで決まるものです。

「Founding Fathers」と呼ばれるオピニオン・リーダー的な起業チームはいましたが、その中から取締役会やCEOを決めるルールが存在しないまま独立国になったので、対外的にも対内的にもルール作りが急務でした。

会議は続くよ、いつまでも。

1776年の独立後、アメリカ政府の骨子を定めた「合州国憲法」が制定されたのは11年後の1787年。おもに行政・立法・司法の3本柱、それぞれの選出方法と役割、連邦政府と州の権利の配分を記したものでした。

憲法草案作りは「Constitutional Convention」という特別チームに託されました。1787年5月から議論をはじめ、暑い夏に入りました。草案提出のデッドラインは9月。。。それまでになんとか話をまとめなければいけません。

その中でも行政を担う大統領の選挙方法は最後の最後までもつれこんだ大きな課題でした。

連日繰りひろげられる議論の場はPhiladelphia市。「アメリカが生まれた街」とあだ名があり、映画「ロッキー」の舞台としてもよく知られます。(ロッキー・バルボアがランニングで駆け上がるフィラデルフィア美術館の階段のシーンはあまりに有名ですよね!)

夏はとても暑いこの地域、紳士の正装には「白いカツラ」と「詰襟スーツ」がかかせません。さぞみなさまお疲れだったと思います。疲労がたまり、話がすすまなくなり、一週間の休会宣言をしたあとでもう一度出直し、という場面もありました。その結果、時間切れになる前にできあがった「妥協案」が前回noteで説明した「Electoral College」システムでした。

もっとシンプルな方法ってなかったの?

もちろんありました。

オプションその1。

「合州国」なんだから、各州の代表者(つまり知事)による選挙にする。
でもこれは癒着を呼ぶだろうということで却下。

オプションその2。

みんなが選挙した代表者を集めた議会で選ぶ。
でもこれも癒着の温床になり、かつ「三権分離」の法則に反します。

オプションその3。

一番純粋かつシンプルなのは、「直接投票」です。
民主主義なのだから、普通にみんなで選挙しようよ、と。

でもこのオプションには大きな問題がありました。

それは建国以前から特に南部州で広がっていた奴隷制度です。

より正確にいうと、奴隷制度に起因する「人間の数」と「有権者の数」の間の大きな違いです。

大統領を選ぶ方法を作るまえに、すでに「議会」の仕組みはできてました。
ー 上院(Senate)  :各州から二人。
ー 下院(House of Representatives) :各州の人口をもとに決めた人数。

なので人口の多い州が下院に多くの議員を送ることができます。議会で影響力をもてる、ということです。

建国当時の13州の内訳:

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奴隷制があった州は主に南部の州。奴隷を解放し、黒人を自由市民として扱ったのは主に北部の州。南北のテンションがのちにアメリカの南北戦争に発展し、未だに続くアメリカの人種問題につながっています。

1770年当時の人口分布図(出典:Wikipedia
南部の州では多いところ(たとえばGeorgia州)で人口の6割以上が黒人だったようです。

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奴隷制度を法的に導入していた州では、奴隷は「所有物」とされ、人権はなく、投票権もありません。一方、人口の数えには入るので政治的には無視できない存在です。

頭数と有権者の数のバランスをとるべく考え出されたのが「5分の3規定」というものでした。

「5分の3規定」ってなに?

米国憲法第二条の1項(原文)

「Representatives and direct Taxes shall be apportioned among the several States which may be included within this Union, according to their respective Numbers, which shall be determined by adding to the whole Number of free Persons, including those bound to Service for a term of years, and excluding Indians not taxed, three-fifths of all other Persons」

各州から選出される議員の数はその州の人口に基づく。人口の数えには「Free People」(自由市民)が入り、(原住民であった)Indianは入らない。その他の人は1人=5分の3に数える、という憲法規定でした。ここでいう「その他の人」は暗に黒人をさしていました。奴隷100人は60人に数える、という今では考えれない法律です。

この数式をあてはめることで(奴隷)人口の多い南部と北部で、議席の点ではバランスらしき状態が作られました。

さて、では最大の難関である「大統領の選出方法」はどうしましょう?
有権者(つまりは白人男性)による直接投票にするとその割合が多い北部州の声が大きく反映され、割合が少ない南部州は不利になります。

さんざん議論した結果、直接選挙でもない、州の代表者による選挙でもない、「間接選挙」の制度が作られました。それが「Electoral College」です。Electorの選出方法は各州にまかせられました。(基本的に象徴的な役割なので、誰がなるかは実質的意味をもちません。)

Electoral Collegeの基本ルール:
①各州のElectorの数は下院議員数と上院議員数を足した数。
②Electorは自分の州の人々の意見を反映する投票を行うこと。
③各Electorは二票を投ずる。その結果投票数が一番多いのが大統領、二番目が副大統領になる。

先例なき斬新なこの妥協策を入れた憲法案が提出され、州の間の合意を経て新憲法が誕生しました。1787年のことです。「はー、終わった、お疲れ様〜」の様子がこちらです:

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初代Electoral Collegeは総数91人、その内訳を上で紹介した13の州に当てはめるとこういう状況でした。

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Electorの選出が間に合わなかったり、憲法の批准手続きが間に合わなかったり、第一回大統領選挙は荒波の門出でした。(実際には69人(上の黄色のところ)しか揃わなかった。)
69人がそれぞれ二票を投じた結果:
ジョージ・ワシントン氏:69票(つまり満場一致)
ジョン・アダムス氏:34票
その他に票分散:35票

票数1位と2位で、初代大統領・副大統領の新政権が無事発足しました。(ちなみにワシントン大統領はVirgina州出身。上の票で見ると一番Electorの数が多い州です。)

さらに翌年の1789年4月、ワシントン大統領の就任式の様子はこれです(出典:Wikipedia)

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「1800年選挙事件」およびその後

荒波の門出のあと、最初の座礁はすぐにやってきます。

第一回選挙から12年後(つまり第4回選挙)の1800年。同じ数の票を二人が集めてしまいました。一人は南部Virginia州出身のThomas Jefferson。もう一人は北部New York出身のAaron Burr。南部の票固めへの対抗馬として当時現職のJohn Adams(Masacchusettes出身)も出馬していました。JeffersonとBurrが同じ得票数でトップにたち、その次はAdams、と大混乱になりました。

こういったこともあろうかと憲法にはバックアッププランが用意されていました。

Electoral Collegeで決まらない時には議会で再選挙となります。

議会で様々なすったもんだが繰り広げられた結果、Jefferson大統領が選出されました。この「1800年の選挙」はいろいろな逸話になり、大人気のブロードウェイミュージカルの「Hamilton」の題材でもありました。(Hamilton氏はJeffersonを擁護した立役者として知られます。)

1800年選挙の失敗から学び、新しいルールが’すぐに作られました。
各Electorは「大統領と副大統領のそれぞれに投票する」というものです。これが1804年に制定された修正憲法12条となりました。

また、奴隷制時代の暗い象徴とも言える「5分の3規定」は奴隷解放をうたった修正憲法13条で撤廃され、人種に関わらず全市民に法的には投票権が認められました。

ただし、その後も有権者の認定条件や投票方法に様々な制約が多くの州で導入され、黒人の市民権行使に数多い制約がつけられていました。そんな差別の歴史の繰り返しが今の「Black Lives Matters」運動にずっと繋がっていると言えると思います。

赤対青って、ずっと昔からだったのだろうか?

1788年の第一回大統領選挙以降、ほぼオリジナルルールそのままできっちり4年ごとに選挙を行い、今年がなんと59回目になります。

日本では松平定信が倹約令を発令し、寛政の改革の最中のできごとです。その時からずっと同じやり方で大統領を選んできた、というのもすごいですね。

長い歴史の中で、きっちり赤・青の戦いになったのは実は割と最近のことです。以前は勢力図にそれなりに変遷もあり、二大政党以外の候補者もいました。

でも第二次大戦後はほぼ、「赤対青」になっています。なんと1972年はニクソン大統領がマサチューセッツ州以外の49州を制し圧勝したということもありました。そして1984年はレーガン大統領の圧勝の年でした。こ

こでもう一つ面白いのは、今は「すごく青い州」とされるカリフォルニア州、1992年のクリントン大統領選出まではずっと赤組だったのです。(出典:270towin.com)

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Electoral Collegeの仕組みは現代世の中にそぐわない、有権者の声を反映していない、人種差別のルーツが強い、州の間で一票の重み格差が激しい、とにかくフェアじゃない、と多くの批判の声があります。でも投票方法を変えるには憲法改正が必要なので、そう簡単にはいかないという現実もあります。

全国で直接投票を行うようになる日もいつか来るかもしれません。でも今はとにかく、世界が注目する2020年大統領選挙 ー 220年前と同じやり方で選挙は進みます。

2020年11月3日およびその後は多くの人が仕事に手がつかないことは確実と思います。皆さまはどうなると思われますか?

パート2まで読んでいただき、ありがとうございました!


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