アナログ派の愉しみ/音楽◎エルガー自作自演『希望と栄光の国』

そこには世界を支配した
大英帝国の残照が


クラシック音楽の愛好者ならば、いまはなきイギリスのレコード会社、EMIに対して崇拝に近い念を抱いていよう。

 
すぐに思いつくだけでも、カザルス(チェロ)のバッハ『無伴奏チェロ組曲』(1936~39年)、ワルター(指揮)のマーラー『交響曲第9番』(1938年)、リパッティ(ピアノ)のショパン『ワルツ集』(1950年)、フルトヴェングラー(指揮)のベートーヴェン『第九』(1951年)、カラス(ソプラノ)のプッチーニ『トスカ』(1953年)、カラヤン(指揮)のR・シュトラウス『ばらの騎士』(1956年)……といった歴史的名盤を世に送りだし、もしこれらのレコードが存在しなかったらわれわれの音楽体験はどれだけ貧しいものになっていたか、想像するのも恐ろしいほどだ。

 
音を記録・再生する技術をめぐってはアメリカのトマス・エジソンとエミール・ベルナーが開発競争したことからレコード会社もアメリカで発祥し、そのコロムビアとグラモフォンのイギリス法人が合併するかたちでEMI(Electric and Musical Industries Ltd)が発足した。したがって、後発のスタートと言えるかもしれないが、たちまちクラシック音楽界を席巻したのには理由がある。ちょうどレコード産業の勃興期に第一次と第二次のふたつの世界大戦が繰り広げられ、ヨーロッパ大陸が戦火により国土荒廃に陥った状況下で、イギリスの地理的条件が有利に働いて、各国のトップクラスの演奏家たちにコミットすることができたからだろう。

 
新会社のEMIはロンドン南東端のアビイ・ロードに面した地に新たな録音スタジオを開設し、1931年11月21日、多くの著名人を集めて賑々しく落成式を挙行した。このときに披露されたのが、エドワード・エルガーがロンドン交響楽団を指揮しての『希望と栄光の国』の自作自演だった。

 
エルガーは1901年にあまりにも有名な『威風堂々』第1番を作曲する。当時、イギリス国王に就いたばかりのエドワード七世がこの行進曲を耳にして「中間部の旋律が実に素晴らしい。これに歌詞をつけたら国民が口ずさむようになるだろう」と意見したのを受けて、かれは『威風堂々』の中間部だけを切り取って独立させ、コントラルト独唱と合唱をともなう歌曲に生まれ変わらせることに。そこに付したアーサー・ベンソンの詞はつぎのような内容だった。

 
 希望と栄光の国よ、自由の母よ
 汝から生まれた我らは、いかに汝を称えようか?

 
この『希望と栄光の国』は翌年の戴冠式に献呈されて以降、国王が予見したとおり広く国民に親しまれて「第二の国歌」となった。アビイ・ロードのスタジオの自作自演の録音では、冒頭に盛大な拍手によって迎えられた74歳のエルガーが張りのある声で「みなさん、おはよう。きょうのこの日にふさわしい曲をやるとしよう。さあ、準備はいいかい?」と口にする様子が収録されている。そして、威勢よくはじまるのは声楽を省いたオーケストラのみの演奏ではあるけれど、ときに調子が上ずりかけるほどのめくるめく高揚感が伝わってくる。ほんの3分足らずの時間だとしても、そこには世界を支配した大英帝国の残照がきらめき、その光輝ある歴史を永遠に伝えようとしているかのようだ。

 
このときから38年後、同じEMIのアビイ・ロードのスタジオで、ザ・ビートルズが解散を間近にして『アビイ・ロード』をタイトルとしたアルバムを制作する。最後にアンコールのように置かれた『ハー・マジェスティ』は、ポール・マッカートニーが当時の国王エリザベス二世に捧げたラヴソングで、1969年7月2日に録音された。そこでうたわれるのはこんな詞だ。

 
 女王陛下はとても可愛い娘だ
 いつかきっとものにしてやるぜ

 
わたしはこの小さな曲にも大英帝国の残照を見るとともに、あの『希望と栄光の国』のはるかな木霊も聴き取らずにはいられないのである。2012年、EMIの音楽出版事業をソニーが、レコード部門をユニバーサル・ミュージックが買収して、この偉大なレコード会社は歴史的な使命を終えた。
 

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