アナログ派の愉しみ/映画◎楊徳昌 監督『牯嶺街少年殺人事件』
「私を助けたいの?」
そう叫んだ少女はなぜ殺されたのか
いまにして振り返ってみると、中学生の3年間はわれながら不穏な高ぶりをまとっていたように思う。やっと家族という箱庭を脱して、およそ無防備のくせに自覚のないまま世間に向かって足を踏み出してしまう、そんな過渡的な時期ならではの危うさといったらいいだろうか。もちろん、その危うさの一部には、からだの奥底でにわかにうごめきはじめた性欲の存在もあったことは言うまでもない。
そうした回想に誘われたのは、楊徳昌(エドワード・ヤン)監督の『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』(1991年)を観たからだ。1961年6月、台湾に中華民国が成立してから初めての少年による殺人が起きた。大陸の中国共産党政権とのあいだで厳しい緊張に置かれ、社会全体が動顛しているさなかのことだった。30年の歳月を経てこの事件を映画化した楊監督は当時、犯人と同世代として大きなショックを受けたという。
中学受験に失敗して夜間部に通う小四(シャオスー)は、クラスの不良仲間とつきあううち地元のヤクザ抗争に巻き込まれたり、転校してきた高級軍人の坊ちゃんと日本刀やライフルをいじったり、バンドのボーカルをつとめる友人とはエルヴィス・プレスリーのレコードに熱を上げたり、無軌道で落ち着きのない日々を送るなかで、同級生の小明(シャオミン)とのあいだにほのかな感情が芽生える……。
と、あらすじを紹介してもさして意味がないだろう。この約4時間におよぶ長大なドラマでは、主人公のまわりに有象無象の登場人物が行き交い、その関係は錯綜して敵味方の立場も定かではない。家族にあっても、公務員の父親は過大な期待を押しつけてくる一方で、自分の社会的立場をめぐり右往左往して憚らず、また、きょうだいたちも頼りになるのやらどうやら。そう、ここに繰り広げられるのは、わたしたちが中学生時分に向き合うのと同じ茫漠とした人間関係なのだ。
「僕は君の希望だよ。僕だけが君を助けることができる」
やがて思いを募らせた小明には複数の男との過去があったらしいと知って、その日、小四はこう告げた。とたんに相手が叫ぶ。
「助ける? 私を助けたいの? 他のひとと同じ、自分勝手だわ!」
かくして少年は激情に駆られ、ナイフを少女めがけて振るう。だが、こうした男女のたがいにひとりよがりの対話はだれしも身に覚えがあるはずだ。あのころ、とかくガールフレンドには過去なるものがあって、そのたびに怒りに震えたけれど、たいていは思春期の性欲がデッチ上げた妄想のたぐいだったろう。この映画が描くのは、美化もない歪曲もない、あくまで自然な中学生の姿であり、その意味ではかれらの自然な犯罪のかたちなのだ。
現代の日本でも、いじめや自殺、さらには殺人を含む犯罪などの中学生にまつわる事件は引きもきらない。マスコミは相変わらず、したり顔で学校や警察・行政の対応を論じて済ませているが、それより、この作品のようにかれらの自然な姿を真正面から見つめた長編映画の一本でもつくったほうがずっと建設的ではないだろうか。
小四が逮捕されたのち、留置所へボーカルの友人が差し入れてきたテープを警察は無造作に捨ててしまう。そこには、自分がうたった「Are You Lonesome Tonight」の録音をプレスリー宛てに送ったところ、本人から、遠い島国でも自分の歌が好かれて嬉しい、と返信がきたとの報告が吹き込まれていた……。そして、小四はいったん死刑が宣告されたものの懲役15年に減刑され、30歳の年に釈放されたことが字幕で説明されてドラマは終わる。
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