アナログ派の愉しみ/本◎ユクスキュル著『生物から見た世界』

退化と進化――
繰り広げられる毎朝の攻防戦


わたしの通勤は毎朝、最寄りの停留所でコミュニティ・バスを待つことからはじまる。そこは都営の集合住宅を囲む植え込みに面し、あまり手入れのされない草木が野放図に生い茂っている。盛大な緑が目を楽しませてくれるのはいいとしても、何より閉口させられるのは、それらが若葉から紅葉へと移ろう半年ほどのあいだ、ひっきりなしに藪蚊どもが来襲してくることだ。

 
バスの利用客は中高年世代が多く、神出鬼没のかれらに対してはなはだ分が悪い。と言うのも、そうでなくてもしょっちゅう視界に蚊の幻影がちらつくため(飛蚊症とはよく名づけたものだ)目が追いつかず、また、かつてはあれほど耳ざわりだった蚊の羽音もいまやさっぱり聞き取れず、相手からすればほとんどデクノボウ同様だろう。やみくもに腕を振り回したところで太刀打ちできるはずもなく、つい諦めが先に立ってしまう。

 
ことほどさようにわが身の能力の退化を実感する一方で、藪蚊どもはこの停留所周辺で何百、何千という世代を重ねてきたからだろう、どうやら驚くべき進化を遂げているらしいことに気づいた。

 
かれらはわれわれ以上に地の利を知悉して、いちばんの獲物はここにたむろする乗客たちと見定め、あたりを野良猫がうろついたり、主婦が犬の散歩にやってきたりしても関心を移すことなく、あくまでこちらの身辺を飛び回っている。暑さ寒さをいとわないのはもとより、今朝は雨だから大丈夫だろうと高をくくっていると、どんな運動神経の働きなのか降り注ぐ水滴のはざまを縫って攻めてくるのには開いた口がふさがらない。

 
なかには、さらなる猛者もいる。いざバスが到来するなりいっしょに乗り込み、車内の混雑でこちらが身動きできないところを刺し放題に刺してくる。ようやくJRの駅前に辿り着くと、だれもかれもが皮膚を掻きむしりながら下車するありさま。連中は停留所周辺にとどまらず、コミュニティ・バスが巡回する経路一円をテリトリーとするかのように、わがもの顔で跳梁跋扈しているのだ。

 
もっとも、エストニア出身の動物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルは著書『生物から見た世界』(1934年)において、他の生きものをそんなふうに擬人化して観察する態度を戒めている。われわれはとかく、ひとつの世界にすべての動植物が詰め込まれていると理解しがちだけれど、そんなことはない、いのちあるものはみな固有の世界に生きているのであり、それを「環世界」と呼んでこうした譬えを使って説明している。

 
「それゆえわれわれは、草地にすんでいる甲虫であろうと、チョウやガ、ハエ、カ、トンボであろうと、われわれのまわりの自然に生息するあらゆる動物は、それぞれのまわりに、閉じたシャボン玉のようなものをもっていると想像していいだろう。(中略)自在に飛びまわる鳥も、枝から枝へ走りまわるリスも、草地で草を食むウシもみな、空間を遮断するそれぞれのシャボン玉によって永遠に取り込まれたままなのである」(日高敏隆・羽田節子訳)

 
そのシャボン玉は、空間の広がりばかりでなく時間の流れも別々のうえ、その生きものの感覚器官が受け入れる刺激もまったく異なることで「環世界」を成り立たせているという。つまりは、あの藪蚊どもも停留所周辺やバスの車内がたまたまシャボン玉になったまでのことで、その根底にあるのはごく単純な生理的反応なのだろう。いや、待てよ。われわれだってシャボン玉のなかで生きているのは同じではないか。さしずめ地球をコミュニティ・バスとして、太陽のまわりを無邪気にぐるぐる回りながら一生を過ごしているだけの話かもしれない……。
 

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