アナログ派の愉しみ/音楽◎武満 徹 作曲『ノヴェンバー・ステップス』

邦楽器とオーケストラを
対決させる発想はどこから?


風変わりなプログラムと言うべきだろう。1989年9月12日に当時の西ドイツのフランクフルトで、サイトウ・キネン・オーケストラが行ったコンサートだ。

 
まず秋山和慶の指揮によってシューベルトの『交響曲第5番』(1816年)で幕を開け、ついで小澤征爾が指揮台にあがって武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)、ブラームスの『交響曲第4番』(1885年)と進み、最後にアンコールとしてモーツァルトの『ディヴェルティメント ニ長調』(1772年)のメヌエットで結ばれるというもの。ことほどさように時代も様式もばらばらの曲が並んでいるのは、桐朋学園大学の音楽の指導者だった斎藤秀雄の名を冠し、国内外の一流プレイヤーが集結したオーケストラの幅広い実力をアピールする目的からだったろう。

 
このコンサートの模様はライヴ映像が残されていて、いかにも熱量にあふれた雰囲気を追体験することができるのだが、そのなかでもひときわ強烈なインパクトを発散しているのは『ノヴェンバー・ステップス』だろう。武満が世界に飛翔するきっかけとなったこの曲については、小澤をはじめ複数の指揮者のレコードが出ていて、わたしも耳では知っていたものの、はじめて演奏風景を目の当たりにしてその異様なありさまに意表を突かれる思いがした。

 
ざっと説明してみよう。ステージの前面には雛飾りのような台がしつらえてあり、右側では尺八の横山勝也が黒い紋付袴をまとい、左側では琵琶の鶴田錦史が女性ながら男装のサングラス姿で身構える。小澤のタクトが一閃すると、ハープが水滴の一音を落としたのを受けて弦楽器郡がさざなみを広げたところに、尺八と琵琶が裂帛の気合で覆いかぶさり、以降、ふたつの邦楽器とオーケストラは調和することなく、たがいに駆け引きしたりぶつかりあったりしながら混沌とした音響の伽藍を聳え立たせていく……。一体、これはなんなのだろう? 会場を埋め尽くした聴衆も少々戸惑っている様子が見て取れるのだ。

 
この曲の成立には小澤が深くかかわったことはよく知られている。武満が尺八と琵琶のためにつくった『蝕(エクリプス)』(1966年)の初演に立ち会ったかれは、これらをオーケストラと組み合わせようと親交のあったアメリカの著名な指揮者バーンスタインにかけあって、ニューヨーク・フィル創立125周年記念の委嘱作として『ノヴェンバー・ステップス』が誕生する道を開いたのだった。それにしても、こうした発想の根源はどこにあったのだろうか。

 
1935年に満洲(現・中国東北部)の奉天で歯科医のもとに生まれた小澤は、当時、現地の関東軍の中枢にあった板垣征四郎(のち東京裁判で死刑)と石原莞爾の双方から一字ずつもらって征爾と名づけられたという。そうした事情はたとえ歴史が移り変わったのちにも、この世に現れた起点として人生を支配したのではないだろうか。その天才的な軍事思想家といわれた石原には『世界最終戦争論』(1940年)と題した著作があって、このような記述を見ることができる。

 
「人類の歴史を、学問的ではありませんが、しろうと考えで考えて見ると、アジアの西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。この二つが最後の決勝戦をやる運命にあるのではないでしょうか。軍事的にも最も決勝戦争の困難なのは太平洋を挟んだ両集団であります。軍事的見地から言っても、恐らくこの二つの集団が準決勝に残るのではないかと私は考えます」

 
石原によれば、古代ローマ帝国以来、紆余曲折を辿りながら国家主義を発展させてきたヨーロッパ・アメリカ圏と、中国大陸に拠って立って別個の民族国家を推し進めてきた日本を中心とするアジア圏とが20世紀の中葉に至って、太平洋をはさんでついに最終戦争を戦ったのちに世界の統一に至るというのだ。こうした大風呂敷の議論の当否はともかくとして、ことを軍事面から切り離してひとつの文明論としてのみ考えてみたときには、日本の音楽とヨーロッパ・アメリカのクラシック音楽をあえてぶつけることでその先に統一を見ようとした態度は、そのまままっすぐにこの異形の作品につながっていったのではなかったか。

 
1996年に65歳で世を去った武満と、今年(2024年)2月に88歳で逝った小澤の、両者のパートナーシップが生みだした最大の遺産が『ノヴェンバー・ステップス』だった。


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