アナログ派の愉しみ/映画◎アーサー・ペン監督『奇跡の人』

チャットGPT論議に
欠けているもの


アーサー・ペン監督の『奇跡の人』(1962年)をこれまで何度観ただろうか。そのたびにただ感動するだけでなく、新たな思考へと導かれるような思いがするのはこの映画ならではの作用だろう。いまはまた、話題騒然のチャットGTPが指し示す問題についても――。

 
アメリカ南部の大地主一家に生まれたヘレン・ケラー(パティ・デューク)は、生後間もなく患った熱病のせいで三重苦(目が見えない、耳が聞こえない、口がきけない)の宿命を負い、両親に甘やかされて勝手気ままに育ち、十代になったいまも野獣同然のありさまだった。そこへ、北部の施設出身で視覚障害を持つサリヴァン先生(アン・バンクラフト)が家庭教師としてやってきて、その日から両者のあいだにはプロレスさながらの格闘劇がはじまる。いやがるヘレンにスプーンとナプキンを使った食事をさせ、下着や衣服を自分の手で身に着けるよう仕向け、生活には厳格な秩序があることを叩き込む。同じように神羅万象には名称があって厳格な秩序をなし、それによって世界を認識する道が開かれることを伝えようとするのだが、そこが最大の難関だった。ただ手まねで手話を繰り返すだけで、言葉と意味のあいだがどうしても結びつかない。相変わらず粗暴な振る舞いで反抗するヘレンに井戸のポンプで水を浴びせた瞬間、彼女がついにその冷たいものを「water」と理解するところは映画史上の名シーンだ。かくして、サリヴァン先生はヘレンを抱きしめながら指先で「I love Helen」と告げる……。

 
わたしは今度も惜しげもなく涙と鼻水をこぼしてしまったのだが、しかし、ふと疑問が兆す。そんなに簡単にわかったつもりで感動していいのか。ことによったら、そこには健常者の「上から目線」の驕りがひそんでやしないか、と――。

 
実は、ベースとなったヘレン・ケラーの自伝は手元の文庫本で500ページ以上という大部なもので、映画に描かれたエピソードはそのうちの4ページ分ほどに過ぎない。ヘレンがサリヴァン先生の手引きによって暗黒から光明の世界へと歩みだしていくのには、もっと複雑多様なプロセスが存在したのだ。たとえば、映画のフィナーレでサリヴァン先生が手話で告げたセリフのあとに、自伝では、ヘレンが「love」の意味を問い直したことが記述されている。先生は指先を相手の心臓の位置に当てたが、やはり彼女には理解できなかった。すると、数日後にあらためてこんな対話が交わされたという(岩橋武夫訳)。

 
 「愛とは、今、太陽が出る前まで、空にあった雲のようなものですよ」と先生はおっしゃいました。私はこの答を、その時了解することができませんでしたので、先生はもっと簡単な言葉で説明してくださいました。「あなたは手で雲に触れることはできませんが、雨には触れることができます。そして花や渇いた土地が暑い一日のあとで、どんなに雨を喜ぶかを知っています。あなたには愛には触れることができませんが、それがあらゆる物に注ぎかける優しさを感ずることはできます。愛がなければあなたは幸福であることもできず、その人と遊ぶことも望まないでしょう」
 この美しい真理は、たちまち私の心に徹しました。私は自分の魂と他の人の魂との間には眼に見えぬ糸がむすばれていることを感じました。

 
なんと素晴らしいレッスンだろう、ここに示された言葉と意味の真摯な関係といったら! 三重苦を負って空の太陽も雲も見ることができない、雨や風の音を聞くこともできない少女に向かって、このように世界の秩序を伝え、その世界に向かって彼女の心を開かせることができたからこそ、サリヴァン先生は「奇跡の人」の称号にふさわしい。そこにはハナから健常者と障害者の別などあるまい。果たして、われわれは愛という言葉に対してこれだけの意味を込めて使っているのか?

 
このところのチャットGPTをめぐるかまびすしい論議において、わたしが欠けていると思うのは、そもそも現代において言葉と意味は真摯な関係にあるのかどうか、といった大前提への見解だ。サリヴァン先生やヘレンと異なって、もしそれが通りいっぺんのものに過ぎず、コミュニケーションの安直なあり方がチャットGPTの台頭を招いたとするなら、問題はAI(人工知能)ではなくわれわれ自身の側にあるはずだ。この60年前につくられた格闘劇の映画は、いまこそ痛烈な警鐘を打ち鳴らしているのである。

 

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