アナログ派の愉しみ/映画◎渡辺邦男 監督『明治天皇と日露大戦争』

その天皇の姿は
何に由来するのか


明治37年(1904年)年頭、伊藤博文貴族院議長以下の元老・閣僚らが御前会議に集まった。ロシアの際限のない南下政策によって、その魔手が満州から朝鮮半島へと迫りくるなか、国民のあいだに「ロシア討つべし」の声が充満し、ついに大日本帝国の政府・軍部は開戦を決意して最終的な手続きを取ろうとしたのだ。しかし、聖断を求められた明治天皇は首を縦に振らず、「よくよく考慮して戦争を避けるがよい」との言葉を残して席を立ってしまう。そして、御製(天皇の和歌)が詠われるのだ。

 
 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
 など波風の たちさわくらむ

 
渡辺邦男監督の『明治天皇と日露大戦争』(1957年)の開幕のシーンだ。明治天皇に扮したのは剣戟俳優の嵐寛寿郎で、スクリーンに天皇役が登場したのは日本映画史上初めてのことだった。もっとも、この作品が空前絶後の大ヒットを記録したのは、それだけが理由ではなく、太平洋戦争で大日本帝国が無条件降伏し、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のもとでの占領期間を経て、ようやくサンフランシスコ平和条約(1951年)により独立を取り戻し、ソ連との国交回復(1956年)も実現した当時において、この国のアイデンティティをあらためて確かめたい、という機運が国民のあいだに醸成されていたのではなかったろうか。

 
明治天皇はこのあと日露開戦のやむなきに至ると、大陸の寒冷地で戦う兵を思って真夏でも冬用の軍服を着込み、かれらと同じムギ飯の弁当で食事し、戦死者の名簿のひとりひとりの名前を脳裏に刻もうとする姿が描かれる。もとより、相応の史実にもとづくエピソードだろうけれど、むしろそこには説話的な雰囲気が濃厚に立ち込めているように感じられるのだ。

 
日本最古の歴史書『古事記』(712年)は、律令国家が成立していくなかで、この国のアイデンティティを説話をとおして共有するためのものだったろう。上巻では神々よる神羅万象の形成が語られ、中巻では神々の系譜につらなる神武天皇らが国土を統一して支配する過程が語られ、下巻では人間天皇による治世の成り行きが語られる。その先頭に立つ仁徳天皇(大雀命)は、高い場所から世間を見渡して立ち昇る煙の少ないことから人民の貧窮を察し、その夫役を免除して、皇居の屋根が雨漏りするほどになっても修理せず、やがて国じゅうが豊かさを取り戻したことで「聖帝」と記している。この称号について、本居宣長は『古事記伝』でつぎのように注釈した。

 
「聖帝二字を、比士理(ヒジリ)と訓べし、日知(ヒシリ)の意なり、但し此は、皇国の元よりの称(ナ)には非じ、其は、漢籍(カラブミ)に、聖人と云者の徳をほめて、日月に譬へたることあるを取て、日の如くして、天下を知(シロ)しめすと云意なるべし、されば、天皇を賛奉(ホメタテマツリ)て日知と申すは、此天皇より始まれる事にて、漢国の例に效(ナラ)へる称なり」

 
すなわち、中国古代の伝説的な堯舜にはじまる聖天子のイメージを導入して、理想の天皇のあり方を示そうとする装置だったわけだ。もっとも、長い歴史のなかでこうしたイメージはやがて雲散霧消してしまったものの、『古事記』から1200年あまりを経て、この映画が明治天皇像を造型するにあたって「聖帝」の装置がふたたび用いられたという事情ではなかったろうか。かくて、東洋の政治思想の流れに明治天皇を置くとともに、そこから世界史の大舞台へと羽ばたく近代日本の位置づけも浮かび上がらせることになった。こうした国家像は以後、司馬遼太郎の長篇小説『坂の上の雲』(1972年)によって拡大再生産され、さらにこれをNHKが大型ドラマ化した(2009~11年)ことで新たな説話として21世紀の国民にも刷り込まれていく……。

 
映画では、東郷平八郎率いる連合艦隊がロジェストヴェンスキー指揮下のバルチック艦隊を日本海海戦で打ち破り、ついに日露戦争が奇跡的な勝利に終わったのちも、明治天皇が笑顔ひとつ見せることはない。日本じゅうが狂喜乱舞するなかで、そっとつぎの御製を詠って結ばれるのだ。

 
 むか志(し)より ためしまれなる 戦(たたかひ)に
 おほくの人を うしなひ志かな


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