アナログ派の愉しみ/映画◎清水 宏 監督『按摩と女』
温泉場には
女性がよく似合う
初夏の陽光に照らしだされた崖沿いの山道を、杖を突いたふたりの若い男がもつれあうようにして歩いてくる。こんな会話を交わしながら。
「ねえ、徳さん、山の温泉場もまたいいね。山は青葉のころにかぎるよ。いい景色じゃないか、まるで見えるようだ。きょうはずいぶん急いだようだけれど、何人ぐらい追い越したかな」
「うーんと、17人だ。前を歩いている目明きをあとから追い越すときは気持ちいい。これはなんだね、めくらじゃなくちゃわからない気持ちだね」
「向こうから子どもが何人来るか、当ててみな。勘を働かせて」
「そうだね、八人だね」
「八人半だよ」
「半?」
「赤ん坊がおぶさっているよ」
清水宏監督による戦前の映画『按摩と女』(1938年)のファースト・シーンだ。盲目のふたりは、徳市(徳大寺伸)と福市(日守新一)。按摩をなりわいとして、ひと夏のあいだ山奥の温泉場で稼ぐために向かっているところだ。上記の会話は、そんなかれらの抜け目ない感性ばかりでなく、いましも非日常の世界へと一歩一歩近づいていることの胸騒ぎを伝えるものだと思う。かく言うわたしも同じような体験の覚えがあるからだ。
もうずいぶん以前のこと、東北新幹線の北上駅から新緑の山道をバスで1時間あまり揺られて、秘湯として知られる夏湯(げとう)温泉に向かった(この路線バスはとっくに廃止となったらしい)。そのときに日常の世界が背後へと遠ざかっていくにつれ、思いがけないほど解放感が込み上げてきたのだった。
映画では、そのあと一台の乗り合い馬車が徳市と福市を追い越すと、ふたりはこんなやりとりをする。
「いい女が乗ってたな」
「いい女?」
「東京の女だな」
「東京の女?」
「東京の匂いがしたよ」
その東京の女(高峰三枝子)と、徳市は客と按摩の関係で再会を果たすなり、見えない目にも美貌が窺われて恋心に火がついたことから物語が動いていく――。温泉場には女性がよく似合う。この東京の女だって、ふだんの生活ではこれほど美しくも、また、謎めいてもいなかったのではないか。孤独な両者が束の間の運命のいたずらに弄ばれたのも、山奥の非日常の世界であったからこそだろう。
昔日にわたしが訪れた夏油温泉でも女性の輝かしい光景が記憶に残っている。そこでは渓流沿いに点々と所在する源泉の湧出個所に小屋掛けの湯舟がしつらえてあり、それぞれ男・女別に指定された時間帯に入浴する仕組みになっていたのだが、いちばん大きな露天風呂は夜間には混浴となっていた。したがって、日が落ちるとわらわらと老若男女が集まってきて同じ湯に浸かる……と聞くと、男連中が鼻の下をのばしているかのような想像が働くかもしれないけれど、実際には手拭いで股間を隠してコソコソしているのは男性たちのほうで、女性はたいていスッポンポンになっても動じることのない立ち居振る舞いだった。そのうち、リーダー格のひとりが音頭を取って『夏の思い出』や『ふるさと』などの歌がはじまり、われわれ男性陣も加わって、やがて盛大な合唱が冴え冴えとした月光の下の山間にこだましたのだった。いまにして振り返ってみると、そこにはまさしく俗世を離れた桃源郷が現出していた気もするのである。
映画のラスト・シーンでは、謎めいた東京の女がふたたび乗り合い馬車の客となって、「サヨナラ」のひと言を徳市に残して日常の世界へ帰っていく。あたかも温泉場の出来事はすべてまぼろしに過ぎなかったかのように。