アナログ派の愉しみ/映画◎サタジット・レイ監督「オプー三部作」

ススキの大地で汽車と行き交う場面は
まるで宮沢賢治の童話のような


この感覚は一体、どこからやってくるのだろう。およそ時代も風土もかけ離れているというのに、すべてが懐かしく、まるで自分もこの映画の登場人物のひとりであるかのような気がしてやまない。サタジット・レイ監督が、イギリス統治下のインドを舞台として3代にわたる家族の歴史をドキュメンタリー・タッチで描いた『大地のうた』(1955年)、『大河のうた』(1956年)、『大樹のうた』(1959)年の、計5時間半におよぶ「オプー三部作」のことだ。

 
第一部の『大地のうた』では、ベンガル北部の寒村で祈祷師をなりわいとする父親と気丈な母親のもとに生まれた少年オプーが、姉ドゥルガとともに過ごす日常がえんえんと綴られる。みすぼらしいあばら家の生活では衣食にもこと欠くほどで、姉は地主の果樹園で平然と盗みを働いたりする。あたりをうろつくイヌやらネコやらアヒルやらと変わるところのない、そんな社会の底辺で家族のふれあいがどれほど香しい息吹を伝えてくることだろう。

 
この長大なドラマの最も美しいシーンは、ある日の午後、母親が姉に向かって「子牛を探してきて」と命じるところからはじまる。きょうだい喧嘩をしていたオプーとドゥルガは、もつれあうように駆け出していき、サトウキビの畑ではそれぞれが茎を噛んで甘味をすすり、湿地帯に広がるススキが風に揺れて光り輝きながらふたりの小さなからだを包み込む。その光景はあたかも、インドにおいて神聖視される牛に乗って笛を吹くクリシュナ神と女たちが戯れあう古代の神話のようだ(実際、第三部『大樹のうた』では、青年オプーの風貌がクリシュナ神の像にそっくりとのエピソードが出てくる)。

 
やがてふたりの前に巨大な電柱が聳え立ち、こちらの電柱からあちらの電柱へと辿っていくうち、もくもくと煙を吐いて驀進してきた汽車と行き交う。初めての体験はそれだけではなかった。ようやく子牛をつかまえて家へ帰る道すがら、竹林のなかにうずくまっている人影を見出す。仲のよかった親族の老婆が行き倒れていたのだ。初めて人間の死とじかに向き合ったのである。このへんの大らかな呼吸はいかにもインドの悠久の大地にふさわしい。と同時に、宮沢賢治の童話のような透徹した叙情が迫ってきて、わたしは思いがけないほどの胸の震えにうろたえてしまう。

 
こうしてオプーが世界とひとつになった幼い日から間もなく、姉は風邪をこじらせて息を引き取る。その後、第二部『大河のうた』では、故郷を離れてガンジス河畔のベナレスへ移った矢先に父親が斃れ、苦学を重ねてカルカッタの大学へ進んだのちに母親も世を去る。天涯孤独の身となったオプーは、第三部『大樹のうた』で、学友の妹と結婚して新たな家庭を得たのも束の間、妻は実家で出産後に命を落とす。生き残った息子をどうしても許せず、ひとりで5年間流浪の生活を送ってから、学友に説得されて息子カジョルと会ったものの、少年が自分を父と認めず石を投げつけてくるようすに背を向けて立ち去ろうとしたとき、振り返って叫ぶ。

 
「カジョル、友だちになろうよ!」

 
この言葉にやっと心を開いた息子を肩車して、ふたりで明日に向けて一歩を踏み出すラストシーンに、わたしは盛大に涙をこぼさずにはいられない。

 
家族の喪失と再生の物語――。インド古来の見方をするなら、あの日、オプーがサトウキビとススキの大地でともに世界と出会ったのち、世界から去った姉ドゥルガと、いまふたたび世界への新たな一歩に導いてくれた息子カジョルとは輪廻・転生でつながっているのかもしれない。だとすれば、決してハッピーエンドでなく、オプーの歓喜はほんの一瞬ですぐにまたこの世の苦しみを生きていくことになる。しかしなお、この歓喜の一瞬に価値があることをレイ監督は主張して、それが時代や風土を超えて、わたしの苦しみも癒してくれるのだろう。まったく不思議な映画だ。
 

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