アナログ派の愉しみ/本◎流 智美 著『猪木戦記 若獅子編』

暴力の味わいに
初めて酔い痴れたとき


あの興奮はなんだったのだろう? わたしの通学した東京・小平市の小学校5年5組の教室では、その日の朝から異様な熱気が渦巻いていた。今夜のテレビのプロレス中継で、強敵フリッツ・フォン・エリックがついにジャイアント馬場、アントニオ猪木のコンビと対決するからだ。男の子はだれしも算数や国語の勉強など手につかず、休み時間にはやみくもに取っ組みあってプロレスごっこに興じるのだった。

 
当時のわれわれにとってプロレスはスポーツではなく、ロープで四方を仕切られたリングは独立した小王国だった。そこでは「正義の味方」の馬場や猪木が外国からやってくる「悪役」レスラーたちを迎え撃つのだが、かれらは「噛みつき魔」ブラッシー、「黒い魔人」ボボ・ブラジル、「白覆面の魔王」ザ・デストロイヤー……といかにも恐ろしげな異形の連中で、なかでも戦慄させられたのが「鉄の爪(アイアンクロー)」のエリックだった。鋼鉄のように強靭な右手を武器として、こめかみに食い込ませるブレーンクローは流血沙汰を引き起こし、腹部を鷲づかみにするストマッククローではたちまち悶絶させてしまう。そんな狂暴なエリックとわれらがヒーロー、馬場・猪木のタッグが正面切ってぶつかるというのだからとても落ち着いてなんかいられない。

 
かくして、夜9時からテレビにかじりついてわたしが目撃したものはなんだったのか? まるできのうのことのように鮮やかな印象がある一方で、実のところ、そもそもどのような経緯があの試合を生みだしたのか知るよしもないまま今日まで過ごしてきたのだが、先年逝去した猪木の軌跡をめぐる流智美の力作ノンフィクション『猪木戦記』(2023年)と出会って、そのあたりの事情が明らかとなった。

 
本書によると、力道山に見出されてプロレス界入りした猪木が、いったん離れた日本プロレス協会に1967年に復帰したことから、あらためて馬場とのコンビが実現した。その最初の試合は同年10月31日(ワット、タイラー戦)で、これをきっかけとしてプロレスは戦後の力道山以来のブームとなり、日本テレビとNET(現・テレビ朝日)によって毎週2回ゴールデンタイムに試合が放映されるに至った。さらには馬場と猪木が準主役で登場するアニメ『タイガーマスク』(梶原一騎原作、日本テレビ)もスタートして、いやがうえにも子どもたちを熱狂へと導いていった経過があとづけられるのだ。

 
こうしたなかで、1970年3月7日(東京・台東体育館)インタータッグ選手権のタイトルマッチで、エリックがイヤウケアと組んで馬場・猪木の黄金コンビと雌雄を決する日を迎えたという次第。その三本勝負の模様をこう伝えている。

 
「エリックの切り札アイアンクローをめぐって興味深い攻防が見られた。1本目をエリックのキックとニードロップでフォールされた猪木は、2本目に入ると馬場と二人でエリックの右手にターゲットを絞り、徹底的なストンピングで集中攻撃した。アイアンクローを繰り出す右手を、数十回踏みつけられたとあっては、さすがのエリックでも堪らない。猪木は中腰になったエリックを柔道の大外刈りの要領で投げ仰向けにし、そこを『腕ひしぎ十字固め』の態勢で固めた。エリックが瞬時にギブアップしたので〔後略〕」

 
まさにそれこそ、わたしが目の当たりにした光景だった。馬場と猪木がエリックの武器の右手をマットの上に固定して、交互に踏んだり蹴ったりして麻痺させたうえ、猪木がギョロ目を剥いてその指を反り返すありさまが、ブラウン管越しには力任せに一本一本骨折させていくように眺められて、わたしの喉からも思わず咆哮が迸ったものだ。

 
馬場と猪木のタッグは1971年12月7日(ファンク兄弟戦)の試合を最後として袂を分かつことになったから、ほんの4年間に過ぎなかったという。おそらくエリックとの激闘はそんな両雄にとって最も輝かしいシーンのひとつであり、リアルタイムで見届けることができたわれわれの世代は僥倖というべきだろう。いや、それだけにとどまらない。幼いころ虚弱だったわたしはようやく身長も伸び、間もなく小学6年生になろうとする春を迎えて、あのタッグマッチが自分の体内からふつふつと未知のエネルギーを湧き立たせるのを感じていた。そう、相手の存在を破壊しないではおかない暴力の味わいに初めて酔い痴れたのだ。
 

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