アナログ派の愉しみ/映画◎リチャード・フライシャー監督『ソイレント・グリーン』

この地球上で
食糧危機の果てに人類は


リチャード・フライシャー監督『ソイレント・グリーン』(1973年)の描く世界が2022年に設定されていたことに、つまり、いま生きているこの時代に他ならないことにわたしは改めて感じ入ってしまう。高校生のころ、このSF映画を東京・立川の場末の映画館で観たときに、人口爆発のもたらす食糧危機の未来図があまりにリアルで、こうした夢も希望もない世界が50年後にやってくるのだろう、と説得されてしまったからだ。なにも、粗忽なわたしにかぎった話ではあるまい。

 
レッキとした理由があった。当時、将来の食糧危機については日常会話のように語られていたからだ。世界的なシンク・タンクのローマ・クラブは『成長の限界』(1972年)を公表して、このまま幾何級数的に人口増加と工業生産が進行すれば人類社会は100年以内に破局に瀕する、と予言し、とりわけ深刻な食糧不足への警鐘を打ち鳴らしていた。学校の教科書にも、未来の日本の食卓としてごはんと味噌汁とサツマイモだけをあしらった写真がのっていて、とくに違和感もなかったことを覚えている。

 
だから、むしろ、以降の年月を飢えとは縁がないばかりか、みなが飽食の時代と自嘲するなかで過ごしてきて、いまやご多分に洩れずメタボとなり、健康診断でなるべく炭水化物を控えるように指導されるとは、そのことのほうが想像の外の成り行きだったと言うべきだろう。あの『ソイレント・グリーン』の強烈な戦慄を、いまだに引きずっている立場としては――。

 
舞台となる2020年のニューヨークは人口4000万人、うち半数が失業者で、地球温暖化の結果の酷熱に見舞われながら住むところもなく、政府から週に一回配給されるソイレント・グリーンという高栄養食品でかろうじて露命をつなぐという状況だった。それさえも不足しがちで、飢餓に苦しむかれらが暴動を起こすと、ただちに治安部隊が出動してショベルカーで片っ端から排除するのだった。ある日、高級マンションの一室で富豪の男が殺害され、殺人課の刑事ソーン(チャールトン・ヘストン)が駆けつける。だが、そのベン・ハーやモーゼの風貌を偲ばせる主人公も、現場検証より先にまずは「職権」としてキッチンの野菜や果物、生まれて初めて目にした牛肉、バーボンのボトルなどをネコババするのに余念がないありさまだ。

 
ソーンは同じアパートの部屋に住む長年のパートナー、「本」と呼ばれる調査係の老人ソル(エドワード・G・ロビンソン)と協力して捜査を進めるうち、被害者がソイレント社の幹部だったことを突き止め、海中のプランクトンからつくられるという人工食糧の秘密をめぐって内部犯行との疑惑を持つ。そして、いち早く真相に接近したソルは深く絶望して、その足で公共の安楽死施設「ホーム」へ向かい、あとから駆けつけたソーンに後事を託すると永遠の眠りにつく。その遺体を追って、かれはソイレント社の巨大工場へ忍び込み、ついにその恐るべき真相を暴くのだ。とうに海洋汚染によってプランクトンも死滅したいま、人工食糧はもはや世界にありあまっているもので製造するしかなく、ソイレント・グリーンの原料は人肉であった、と。

 
ソーンが高々と手を差し上げて、「ソイレント・グリーン・イズ・ピープル!」と告発するラストシーンを目の当たりにして以来、その叫びは半世紀のあいだ、ずっとわたしの耳の奥で鳴りつづけてきたように思う。過去から未来に向かって投げつけられた恐るべき呪文だったと言うべきか。いや、待て。本当にただの呪文だったろうか? 世界の人口が80億4500万人に達した今日、人類は未曽有の格差社会のもとで、すでに人類同士がめぐりめぐって相食むことでかろうじて生きのびているのが現実ではないのか。

 
実は、この映画のラストシーンのあとにはさらに衝撃の映像が用意されている。エンドロールに重ねて流されるそれは、あの「本」のソルが世界を見かぎって、人生最後の時間に「ホーム」でひとり眺めたものだ。ベートーヴェンの『田園』交響楽に合わせて、草花が咲き乱れ、動物や鳥たちが遊び戯れ、そこに人間はひとりもいない……。そう、つまり、わたしはこれから死へと旅立とうとする老人と同じ体験をしているわけで、かつて高校生のころにはひどく居心地の悪さを覚えたものだが、いまとなれば自然と吸い込まれるような気分に浸り、とめどなく涙しながら、このまま静かに無と化してもいいとさえ――。まったくもって、恐ろしい映画である。
 

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