アナログ派の愉しみ/音楽◎セル指揮『ライヴ・イン・東京1970』

音楽の美食家が
最後に成し遂げたもの


オーケストラの指揮者には特異な性格の面々が目につくが、そのなかでもジョージ・セルはとりわけ際立った存在ではないだろうか。

 
1897年にハンガリーのブダペストに生まれたセルは神童の誉れ高く、3歳からウィーン音楽院で学び、作曲を行う一方で、10歳でピアニストとして、16歳で指揮者としてデビューする。こうしてヨーロッパの楽壇で頭角を現したものの、ナチス・ドイツが台頭すると、ユダヤ系のかれは亡命を余儀なくされてアメリカ大陸へ移住することに。そして、第二次世界大戦の終結後、オハイオ州のクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に招聘されるなり辣腕をふるって、地方都市のオーケストラをたちまち世界トップ水準にまで引き上げて名声を築く。

 
そんなセルには多くのエピソードがあるけれど、とくにわたしが興味を抱いたのは音楽とは別の話だ。かれはワインや料理に対して異常な味覚を有していたという。あるとき、オーケストラと演奏旅行中、ニューオーリンズの有名レストラン「アントワーヌ」でザリガニの料理が出され、会食者のあいだで「この濃厚なソースには何種類のスパイスが使われているか」とクイズを出しあい、セルはしばらく舌のうえで吟味したのち、ひとりだけ正解を言い当てたそうだ。先に音楽とは別の話と断ったが、実のところ、こうした味覚の尋常ならざる鋭敏さがそのまま聴覚にも具わって、かれの音楽づくりの基本をなしていたらしい。自己の信条をつぎのように披瀝しているのだ。

 
「私は管弦楽の響きの完全な均質性を好みます。どの部分を取ってみても、ひとつまたはそれ以上の主要声部が同時に他の声部によって伴奏されうる柔軟性を持ち、そのうえに適正なバランスを保持するような、そんなアンサンブルの完璧さ。要するに、最もsensitiveな演奏です」

 
まさしく音楽の美食家にふさわしい発言ではないか。もっとも、これでもまだ抑えたもの言いで、アメリカの著名な評論家ハロルド・ショーンバーグの弁によれば「狂信的なアンサンブル主義者」だったそうだが、実際、セルとクリーヴランド管が残したおびただしいレコードを耳にすると、微に入り細を穿って究極のアンサンブルを実現した、あたかも天才シェフの手になるメインディッシュのごとき演奏ばかりなのだ。ただし、それらにいつも魅了されるかと問われたら、もちろん文句のつけようはないにせよ、わたしのように駅の立ち食いソバにも喜んで舌鼓を打つ者にはあんまり立派すぎて、つい敬遠したくなることも……。

 
しかし、そんなわたしをも打ちのめしてやまないアルバムがある。『ライヴ・イン・東京1970』。前の大阪万国博覧会が開かれた1970年、その記念行事としてセルが手兵を率いて来日し、5月22日に東京文化会館で行ったコンサートの実況録音だ。

 
まず、プログラムが凄まじい。はじめに妖精の国の扉を開くウェーバーの『オベロン』序曲(1826年)を置き、メインではモーツァルトの『交響曲第40番』(1788年)とシベリウスの『交響曲第2番』(1902年)という、交響曲の歴史の草創期と変革期の大傑作を対比してみせ、アンコールはロマの音楽に由来するベルリオーズの『ラコッツィ行進曲』(1846年)で結ぶ。まさに管弦楽のエッセンスのような内容で、オーケストラにとっては真の力量が問われる恐ろしいラインナップに違いない。それに対して、このコンビは果たして完璧なアンサンブルを披露したばかりか、いつになく青白く火照ったエネルギーを注ぎ込んでさらに美への希求を燃えあがらせた。

 
実は、このときセルはすでに自分が骨髄がんに冒されて余命いくばくもないことを知っていたという。事実、日本公演から帰国して2カ月後に73歳で他界するのだが、ここにあるのは病魔とぎりぎりの闘いを繰り広げながら、それさえもエネルギーとして、最後まで自己の信条のsensitiveな演奏を貫いた音楽の美食家の姿なのだ。
 

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