アナログ派の愉しみ/音楽◎アバド指揮『英雄』

大指揮者が最後に
紡いでみせた「物語」とは


指揮者クラウディオ・アバドは、第二次世界大戦後のクラシック音楽界において最も重きをなした存在のひとりだろう。しかし、世を去って10年が過ぎようとするいま、かれの人生の軌跡を振り返ってみると、その輝かしさよりも痛ましさのほうが先に立つのには理由がある。

 
1933年にイタリア・ミラノの著名な音楽一家に生まれたアバドは、ヴェルディ音楽院やウィーン国立音楽アカデミーで英才教育を受け、国際的な指揮者コンクールに優勝したのち、32歳のときにザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを指揮してセンセーショナルな成功を収める。その後、1968年からミラノ・スカラ座、1979年からロンドン交響楽団、1982年からシカゴ交響楽団、1986年からウィーン国立歌劇場の首席指揮者や音楽・芸術監督をつとめ、文字どおり世界を股にかけて八面六臂の活躍を繰り広げた。レコード録音にも積極的に取り組み、それらの清新な覇気にあふれた演奏は音楽ジャーナリズムで絶賛を博して、わたしもウィーン・フィル他との『マーラー交響曲全集』、ベルガンサ以下の名歌手とロンドン交響楽団と組んだ『カルメン』などをいまだに愛聴している。

 
そんなアバドが1990年に名門ベルリン・フィルの芸術監督・首席指揮者に就任したことは納得のいく成り行きで、世界じゅうのファンが喝采を送ったことを覚えている。ところが、この栄光の瞬間からかれの演奏が次第に窮屈なものとなり、まばゆい輝きが色褪せていくにつれて、失望の声が広がるのに時間はかからなかった。あまつさえ、就任10年が経ったころには胃がんを患っていることが公表されて再起が危ぶまれ、幸いにも手術が成功して指揮台への復帰が叶ったものの、まるで別人のようにげっそりと痩せこけたその姿には鬼気迫る気配さえ漂っていた。

 
そこには一体、どんな事情が横たわっていたのだろうか? 指揮者の頂点ではあれドイツ・オーストリア音楽の司祭ともいうべきポストに、ベルリン生まれのフルトヴェングラー、ザルツブルク生まれのカラヤンのあとを受けて、初のイタリア人として就いたことの重圧も当然あったと思うけれど、事態はもっと深刻だったような気がする。

 
みずから楽器を手にしない指揮者にとって、いちばんの役割は、いま、ここで、この楽曲を演奏することの意味、すなわちオーケストラと聴衆を結ぶ「物語」を示すことだろう。前任者たちの時代には、第二次世界大戦をはさんで政治と音楽の関係が厳しく問われ、そのせめぎあいに翻弄されながら、引き換えにベートーヴェンやブラームスを演奏する意味を聴衆と分かちあい「物語」を成り立たせることができた。ところが、戦前の生まれでも戦後に音楽活動をスタートさせたアバドはもはやこうした「物語」から切れてしまい、それこそがベルリン・フィルの指揮台に立ったときの十字架となったのではないか。かれと同世代のカルロス・クライバー、ロリン・マゼール、小澤征爾といった指揮者たちにも同様の混迷が見て取れるのだ。

 
そのアバドは2002年にベルリン・フィルのシェフを退任すると、以降は臨時編成のルツェルン祝祭管弦楽団や、若手プレイヤーを集めたマーラー室内管弦楽団などを拠点として、その顔つきには病気の名残りが色濃かったものの、ふたたびエネルギッシュな活動を繰り広げるようになった。そこにあったのは昔日の明朗さとは異なり、闊達であっても急がず騒がず、ずっと落ち着いて陰影に富んだ演奏だった。

 
死の半年前、最後の出演となった2014年のルツェルン音楽祭のオープニング・コンサートの模様がライヴ映像として残っている。プログラムの前半は、ブラームス作曲『悲劇的序曲』、シェーンベルク作曲『グレの歌~間奏曲&山鳩の歌』(藤村実穂子独唱)と、いずれも悲痛な色合いの曲だけに、すでに80歳を迎えていたかれにはただならぬ意思があったのかと勘繰りたくなる。のみならず、後半のメインには第2楽章に葬送行進曲を持つベートーヴェンの『交響曲第3番〈英雄〉』が選ばれたのだが、過度の力を入れることはなく、しばしば満面の笑みさえ浮かべて、どこまでも融通無碍な指揮ぶりが披露されたのだった。そして、わたしは熱い涙をこぼしつつ覚ったのである。このときフルトヴェングラーやカラヤンの『英雄』とはまったく別の地点に立ち、アバドは自己のがんとの闘いと死への予感を通じて普遍的な「物語」を紡いでみせたのだ、と――。
 

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