アナログ派の愉しみ/本◎福井晴敏 著『終戦のローレライ』

そのとき潜水艦の艦長は
なぜうろたえたのか?


なんだって、あんなに熱中したのだろう? 福井晴敏の架空戦記小説『終戦のローレライ』(2002年)だ。講談社から発売されてすぐ、上下2巻・原稿用紙にして2800枚という長大な作品を一気読みしたのだが、いまにして思うと、あそこまで熱に浮かされたように本のページを繰ったのは他にあまり覚えのない体験だった。果たしてもう一度味わえるだろうか。そう思い立って約20年ぶりに読み返してみたところ、かつての興奮には至らなかったものの、そのぶん落ち着いて接したことで当時は気づかなかった発見に出会えた。

 
ごく簡単にストーリーを紹介しよう。太平洋戦争が最終局面を迎えた1945年(昭和20年)夏、すでに無条件降伏していた同盟国ドイツから日本海軍に一隻の潜水艦が引き継がれる。それは全長100メートルの図体に魚雷発射装置のみならず巨大な砲門や対空機関銃まで備えたつくりのうえ、さらにナチス・ドイツが極秘裏に開発した「ローレライ・システム」も組み込まれていた。これは一種の特殊音響兵装で、ドイツ人と日本人の血を引く少女パウラの神秘的な感応力を用いて、周辺海域の状況が立体モニターに精密に再現されるというものだった。かくして、新たに《伊507》と名づけられた異形の潜水艦は、大日本帝国連合艦隊が壊滅したいま、寄せ集めの艦長と乗組員たちによって単身で南洋へ乗りだし、みずから特攻に出撃する。アメリカが広島、長崎に続いて、東京にも原爆を落とそうとする企図を阻止するために……。

 
なるほど、荒唐無稽ではある。しかし、そこに目くじらを立ててもはじまらない。もともと歴史から題材を借りたエンターテインメントとして構想されたのだし、わたしも難しいことを言わずに楽しむつもりで手に取ったはずだ。ところが、その出版のタイミングがアメリカ同時多発テロ事件の直後だったせいで、われわれの受け止め方がまったく変わってしまったのではないか。2001年9月11日、イスラム過激派のメンバーによって民間航空機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センターなどに突入して約3万人の死傷者を出した自爆テロをめぐり、アメリカのメディアはさかんに「カミカゼ」の表現を使って報道して、半世紀前の日本軍の特攻の記憶が亡霊のようによみがえってきたなかで、この作品も当初の設計以上の生々しいリアリティを発散したことが、いまになってみると理解できるのである。

 
こんな場面がある。主役の《伊507》の側ではなく、それに敵対するアメリカ海軍のガトー級潜水艦《トリガー》の内部の情景だ。その戦闘指揮に立つキャンベル艦長は(あたかも『白鯨』でモビィ・ディックを追うエイハブ船長のように)異常なまでの執念を燃やし、そこには自分の軍務中に若い妻が浮気に走ったことへの復讐心も作用していた。すでに《トリガー》は満身創痍と化したにもかかわらず、キャンベルは副長のファレルの制止を振り切って深追いしたあげく、《伊507》の少女パウラが起動した「ローレライ・システム」による逆襲に遭って、もはや回避しようもなく魚雷がまっしぐらに迫ってきた個所を以下に引用する。

 
 同じく壁にもたれかかったファレルが、血まみれの顔をこちらに向けていた。嘲笑に歪んだ厚ぼったい頬と、冷たく光る眼を同居させた顔が、自分ともども、百人の乗員を殺した男への憎悪を込めてキャンベルを射竦めた。
 「来世用の忠告だ。女房に逃げられた男に、潜水艦の艦長はやらせるもんじゃない」
 艦長と、艦長を制止できなかった副長の我が身を同時に嗤って、ファレルは言った。見透かされていた? 恐怖や怒りを押し退けて恥辱の念が全身を貫き、キャンベルは咄嗟に左右を見回した。他の者に聞かれはしなかったかと恐れ、最後の最後にそんなことを気にする己の浅ましさに愕然とした刹那、艦尾方向から発した爆発音がキャンベルの鼓膜を破った。

 
あと数秒ですべてが終わり消えてなくなるという瞬間に、あえて下劣な憎まれ口を叩いてみせた部下と、この期におよんでなお自己の体面を気づかってうろたえる上司。まさしく愚の骨頂の両者の姿を、しかし、わたしはい笑い飛ばす気になれず、もし同じような事態に見舞われたらきっと自分も似たような小心ぶりを発揮するのだろうと想像した。なぜなら、それはわれわれの不断の正気を支える日常性にもとづくものだから。かつて日本軍が踏み切った特攻を目の当たりにして、アメリカ軍の側に発狂する兵士が続出したといわれるのは、たとえ死と隣り合わせの戦場にあっても日常性にしがみつかずにはいられない人間のありようを根底から突き崩したからに違いない。


21世紀の地球上にふたたび戦火が燃えあがったさなか、この作者が送りだした魔女(ローレライ)はそんな恐怖の歌をうたってわたしを呪縛したのだった。
 

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