アナログ派の愉しみ/本◎石田英敬&東浩紀 著『新記号論』

生成AIとは
人類初の共通言語なのか


旧約聖書の『創世記』によれば、地上の人類が力を合わせて天まで届く「バベルの塔」の建設をはじめたことに神が怒って、かれらをばらばらに散らして意思疎通ができないよう言語を混乱させたという。以来、人類は言語の違いのせいでコミュニケーションを取るのに多大の労苦を払いながら今日に至ったわけだが、いまや生成AIが出現してそうした言語の障壁を乗り越えようとしていることには、どのような意味があるのだろうか?

 
そこで思い起こすのが、『新記号論』(2019年)の議論だ。これはメディア情報学者の石田英敬(東京大学名誉教授)を、哲学者の東浩紀が主宰するゲンロンカフェに招いて、2017年に「一般文字学は可能か――記号論と脳科学の新しい展開をめぐって」と題して行った連続講義をまとめたものだ。したがって、まだ生成AIがわれわれの前に本格的に姿を現す以前の段階なのだが、すでにしてただならぬ符合を見出して驚嘆してしまう。

 
石田と東の対話は旧来の人文学を、デジタルメディア革命がもたらした今日の金融資本主義、ソーシャルネットワーク、人工知能の状況にふさわしくアップデートさせようという企図のもとに進められていく。そこから石田は情報記号論を提唱して、ふたつの論点をクローズアップさせる。ひとつは、現在のテクノロジーが用いる文字は、これまでの活字と違い、われわれ人間には読めなくなったことに注意を促してこう指摘する。

 
「人間は機械の文字を読み書きすることができないが、その認知のギャップこそが人間の知覚を統合し、人間の意識をつくり出すという話をしました。ぼくたちはこの『技術的無意識の時代』において見えないものを見て、意識の成立以前に聞こえるものを聞いて生活しているわけです」

 
そして、こうしたメディア環境に即応して、もうひとつの一般文字学の論点が浮かびあがってくるという。

 
「世界中には漢字、ひらがな、ハングル、アルファベット、キリル文字など、さまざまな文字種が存在します。これらはいっけん、まったく異なるかたちをしているように見える。だから、それぞれの文字種はランダムに存在しているように思えます。ところがそうではないのです。神経科学や認知科学の研究の最新知見では、すべての人間は、同じ文字を読み書きしているということが有力な仮説となっています」

 
すなわち、人間が文字として使っているかたちは、実は自然界を認知するときに視覚に現れる事物のかたちと重なって有限であり、その基本パターンは、十とX、卜とTが同一のように、ごくかぎられていて(視覚認知科学者マーク・チャンギージーによればわずか36種に過ぎない)、しかも驚くべきことに、基本パターンの出現頻度はどの言語圏の文字でも自然界の事物でもおおむね一致するというのだ。

 
これを敷衍すれば、人間の読み書きにはもともと共通する仕組みのあったところ、21世紀の高度なネットワーキング社会の到来を迎えて、それがはっきりと認識されたことが生成AIの開発へもつながっていったのだろう。その意味では、この新たなイノベーションが出現したとたん、あっという間に地球全体を包み込んでしまったのも必然的な流れであり、つまりは、生成AIこそが「バベルの塔」以後の人類が初めて手にした共通言語と見なせるのではないか?

 
上記の石田の問題提起を受けて、東はこう応じている。

 
「もしこの研究が正しいのだとすると、たしかに火星人から見たら(火星人がいたとして)、地球人はみな同じタイプの文字を使っているように見えるかもしれない。そしてそれは地球の風景と同じかたちの分布のように見えるのかもしれない」

 
なるほど、かつてH・G・ウェルズが発表した『宇宙戦争』(1898年)では、それまでたがいに争っていた人類がとなりの惑星からの突然の来襲に際して、初めて「火星人」という共通の言葉のもとでひとつにまとまって立ち向かう姿が描かれている(結局、火星人を打ち負かしたのはかれらが免疫を持たない病原菌だったけれども)。このSF小説の古典は、今日、生成AIのもとで起きつつある人類史上のエポックメーキングなドラマを予言していたようだ。
 

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