アナログ派の愉しみ/本◎志賀直哉 著『剃刀』

そのページを開くと
恐怖体験がよみがえる


ふだんはすっかり忘却しているのに、志賀直哉の短篇『剃刀』(1910年)のページを開くと、まるで魔法の鍵のように必ずその記憶が呼び起こされる。ささやかな恐怖体験。とはいえ、いまになっても脇の下にひやりと冷たい汗を感じるのだ。

 
あれは大学を出て、サラリーマン生活がはじまって間もない週末のことだった。わたしは東京・小平市の親元に暮らしていて、近くの小さな商店街にある理髪店へ向かった。そこは地元に根づいた店で、かなり前から主人の父親といっしょに息子が見習いをしていたのが、最近ではすっかり息子のほうが中心となり、その日もガラス扉を開けてチリリンとベルが鳴ると、黒縁メガネをかけた若主人が姿を現した。

 
『剃刀』では、麻布六本木の「辰床」で、先代主人に見込まれて婿となってあとを継いだ辰三郎がこんなふうに紹介される。

 
 剃刀を使う事にかけては芳三郎は実に名人だった。しかも、癇の強い男で、撫でて見て少しでもざらつけば毛を一本一本押し出すようにして剃らねば気が済まなかった。それで膚を荒らすような事は決してない。客は芳三郎にあたって貰うと一日延びが、ちがうと云った。そして彼は十年間、間違いにも客の顔に傷をつけた事がないというのを自慢にしていた。

 
しかし、その芳三郎が風邪のせいで熱を発し、いつになく体調が勝れなかったと小説は説明する。わたしの髪を刈りだした若主人もふだんと調子が違った。こちらから話しかけても上の空で、やがて洗髪を済ませて髭剃りに移ると、前屈みとなった若主人の口元がすぐ目の前にあってぶつぶつと呟いている。ことによったら、いっぱしの社会人気取りのわたしの顔つきを見下ろしながら、芳三郎が馴染み客の若者に抱いたのと同じような印象を持ったのかもしれない。

 
 切れない剃刀で剃られながらも若者は平気な顔をしている。痛くも痒くもないと云う風である。その無神経さが芳三郎には無闇と癪に触った。使いつけの切れる剃刀がないではなかったがかれはそれと更えようとはしなかった。どうせ何でもかまうものかという気である。それでも彼はいつか又丁寧になった。少しでもざらつけば、どうしても其処にこだわらずにはいられない。こだわればこだわる程癇癪が起って来る。からだも段々疲れて来た。気も疲れて来た。熱も大分出て来たようである。

 
そのうち、わたしは少しずつ若主人の独り言の内容を理解した。ここしばらく、おれは監視されている、監視しているのは隣(食料品店)の夫婦だ、それだけじゃない、あいつら、きのうは夜中にウチの店にドブネズミを放しやがった、ぶつぶつぶつぶつ。メガネの奥の両目が据わっている。ちょうどわたしの下顎のあたりをあたっていた剃刀の刃先が小刻みに震えだすのが伝わってきた。被害妄想。そんな言葉が脳裏を駆けめぐる。が、相手の精神状態がバランスを欠いているらしいと察しても、この体勢ではわずかな身動きさえできない……。
 
『剃刀』の芳三郎のほうは、つい手元が狂って若者の顔にほんの小さな傷をつけてしまう。そして――。

 
 傷は五厘程もない。彼は只それを見詰めて立った。薄く削がれた跡は最初乳白色をして居たが、ヂッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上って来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上って来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイとひと筋に流れた。此時彼には一種の荒々しい感情が起った。
 かつて客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、此感情が非情な強さで迫って来た。呼吸は段々忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打ち克つ事が出来なくなった。……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと咽をやった。刃がすっかり隠れる程に。若者は見悶えも仕なかった。

 
もちろん、わたしの場合はことなきを得て今日がある。しかし、この「小説の神様」志賀直哉の文章に接すると、ふと首筋に鋭い痛みを覚えるとともに、自分が難を免れたのはただの偶然に過ぎない気がしてくるのだ。

 
その理髪店は、以後もしばらくのあいだ営業していたようである。
 

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