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烏賊墨色ノ悪夢 第六話

 8年前。ノルウェーの首都オスロで、二人の日本人女性が出会った。

「時々ここで絵を描いているわよね」
「あなた誰?」
「日本語で返してくれた。やっぱり日本人なんだ」

 オスロの都市部から北西に三キロ程いった地点にあるフログネル公園で、風景をスケッチしていた小柄な女性に、長身の女性が笑顔で語り掛ける。小柄な女性は長い黒髪に白いインナーカラーを入れており、服装もレザーのライダースジャケットにダメージデニムとカジュアルな印象だ。長身の女性は対照的に、黒髪のショートボブに、タートルネックのセーターにブレザーを合わせたカッチリとした装いだった。

「私は八起深夜。近くのIT企業の研究部門に勤務してて、ここにはお昼休みに時々気分転換で散歩にくるんだ。そしたら最近は毎回スケッチに励む日本人らしき女の子がいるじゃない。私としてはもう興味津々なわけですよ」

 そう言って、深夜は女性の隣に腰を下ろした。

「なにそれ。けど私も、ここで日本人に声をかけられるとは思ってなかった」
「あなた、お名前は?」
「美墨。海棠美墨」

 返答こそ素っ気ないが、隣に座った深夜を拒むことはせず、美墨も満更でもなさそうに笑っている。

「海棠さんは海外留学?」
「絵の勉強をするために先月から留学中」
「海外で絵の勉強か。凄い行動力」
「周囲は大反対だったけどね。私の人生なんだから好きにさせろっての」
「最高。そういう心意気大好き」
「そういうあんたも、海外で研究者なんてすごいね。あたしとそんなに歳は変わらそうに見えるけど、貫禄あるよ」
「飛び級で大学卒業してからずっとこの業界にいるから。最近はフリーランスとして各地を転々としてて、今の止まり木はここってわけ。ちなみに歳は今年で22」
「一歳違いじゃん。私は今年で21」

 経歴よりも年齢が近かったことの方に美墨の関心はあったようだ。新鮮な反応が深夜には嬉しかった。

「せっかく異国の地で知り合ったんだからさ。私達お友達にならない?」
「別にいいけど私、流行りとかに疎いし、一緒にいてもつまらないかもよ?」
「そんなの、友達になってみないと分からないじゃない。今日からよろしくね、美墨」
「早速名前呼びとか、海外暮らしのコミュ力やば。そういうの嫌いじゃないけどさ、深夜」

 その日から二人は、頻繁にフログネル公園で顔を合わせるようになった。

「深夜は普段、どんな研究をしてるの?」

 この日は生憎の空模様で美墨はスケッチが行えなかったが、それでも公園へと足を運び、同じく公園を訪れた深夜と、近くのカフェで談笑を楽しんだ。

「私の専門は情報工学で、人工知能、所謂AIの研究開発を行ってる。社外秘で詳細までは言えないけどね」

「AIのことはよく分からないけど、よく将来人間の仕事はAIに奪われるとか言うよね。あれって実際どうなの?」

「効率化という意味では確かにそういう流れも来るだろうけど、あくまでもケースバイケースじゃないかな。AIやロボットが絶対に入れない人間の聖域というのは絶対に存在するし、何でもかんでも機械頼みの社会が健全とも思えないしね。絵や小説といった創作の分野は、その最たるものだと思うよ」

「絵を描いたり、物語を綴ったりするAIは登場しなっていこと?」

「それは少し違うかな。この数年以内にはきっと、誰でも利用できるような、画像や文章を生成するAIが登場すると思うよ。人の手ならたくさんの時間をかけて生み出されるような作品を、AIがものの数秒で完成させてしまう時代がもう目の前まで来ている。これを聞いて美墨はどう思う?」

「そうだとしても、私達の芸術家のやることは何も変わらないよ。自分の個性をひたすら作品にぶつけてやるだけさ。私達が目指すところは上手い絵を素早く仕上げることでも、大量生産することでもない。己を曝け出した先に、誰かの心に少しでも響いてくれたなら、それが一番の誇りさ」

 堂々たる美墨の口振りに、深夜は破顔一笑した。

「やっぱり美墨ってば最高。私の持論だけどさ、AIは万能かもしれないけど、それはすきという名の面白味がないことでもあると思うんだ。対する人間は、万能とはとても呼べない欠点だけらの存在だけど、一人一人に個性という名の無限の可能性がある。自分の個性を信じて突き進む美墨なら、絶対にAIに淘汰とうたされることはないね」

「淘汰とか物騒なこと言うね。だけど、深夜に言われると自信がつくから不思議」

 芸術家として成長していく上では、孤独も創作の立派な糧だと思っていたし、故郷を懐かしんで感傷に浸るようなタイプでもない。それでも年頃の女性が一人、何の基盤もないまま異国の地で生活するというのは、やはり寂しさが付きまとうものだ。気さくに接してくれる同年代の深夜は、初対面で感じた時よりもずっと大きな存在になっていた。

「そういう美墨はどういうきっかけで絵を始めたの?」

「きっかけらしいきっかけなんてないと思う。物心ついた頃には黒いクレヨンで何かを書いてた気がするな。おじいちゃん曰く、言葉よりも先に絵で表現することを覚えた孫だったとか。テレビも同年代の子が熱中しそうな変身ヒロインには目もくれず、硬派な美術系の番組に興味津々だったそうだよ。そんな子供が図体だけ大きくなったのが今の私ってわけ。安易に才能って言葉は使いたくないし、自分に絵の才能があるとも思ってないけどさ、絵に熱中する才能だけは間違いなく生まれ持ってたと思うんだよね。親兄弟はまったくそういう方面への関心が無かったから、私はたぶん海棠家の突然変異だね」

「なるほど。聞けば聞くほど美墨は絵画の申し子ってわけだ」

 きっかけなど聞くだけ野暮だったのだと、深夜は自分の質問のくだらなさに苦笑する。大きなきっかけなどなくとも、人は何かに夢中になれるし、人生を左右する決断をすることだって出来る。ソースコードを気にしてしまうのは職業病かもしれない。

「そういう深夜はどうしてAIの研究をしてるの? お仕事的な話じゃなくて情熱的な意味の話ね。天才少女だったことはもう知ってるけど、だからこそ進める道は色々とあったでしょう」

 コーヒーを一口飲むと、深夜は考え込むように目を閉じた。

「強いて言うなら、新しい何かを生み出すことに興味があったからかな。私の持てるスキルで最もそれを体現出来そうなのがAI開発の分野だった。あまり深く考えたことは無かったんだけど、たぶんそういうことなんだと思う」

「深夜と直ぐに仲良くなれた理由が何となく分かった気がした。私達は頭の良さも生き方も全然違うけど、きっと同じような根源を持っているんだね。私達は新しい何かを生み出す快楽に魅入られてるんだ」

「快楽か。確かにそうかもしれないわね」

 美墨のある種俗っぽい、こういったストレートな表現は好きだ。誰も成し遂げていない何かを成そうとする快感は、性欲以上に己を奮い立たせてくれる。

「美墨と話していると退屈しないわ。こういう雨の日は特にね」
「天気が関係あるの?」
「絵を描いているあなたも好きだけど、雨の日は私の方を見てくれるから」

 美墨は何よりも絵を描くことを愛している。だけど雨降りで屋外で絵を描けない時はこうして深夜との会話に全ての意識を向けてくれる。この時間が深夜にとっても尊かった。

「痛い台詞。言ってて恥ずかしくならない?」
「私は良い女だから何を言っても許されるの」
「自信満々に言ってくれちゃって。けど、確かに深夜が言う台詞なら許せるかも」

 そう言って美墨は天真爛漫てんしんらんまんな笑顔を見せた。出会って以来、ここまで表情が砕けたのは初めてのことだったかもしれない。

「それとさ。雨の日じゃなくても、私はちゃんと深夜を見てるよ」
「えっ?」
「深夜って凄く綺麗だから。いつか深夜の絵を描きたいなとか。会う度にそんなことを考えてる」
「美墨のお願いならいつでも脱ぐよ」
「誰もヌードとは言ってない。まったく」

 日本にいる時だって、ここまで誰かに心を開けたことがあっただろうか。単身ノルウェーに留学したのはもちろん芸術を学ぶためだし、その時間を大切にしている。だけどそれと同等か、それ以上に深夜と過ごす時間を美墨は大切にしていた。留学で得た最高の収穫は絵のスキル以上に、心の底から分かり合えるパートナーとの出会いだったのかもしれない。

 ※※※

「美墨。最近少し瘦せたんじゃない?」

 フログネル公園内にある、ヴィーラゲン彫刻公園で彫刻をスケッチしていた美墨の背中に深夜が問い掛ける。美墨と出会って一カ月半が経とうとしていたが、元々細身だった美墨の体は出会った頃よりも骨ばって見えた。この一カ月半の間で徐々に体重が落ちて行った印象だが、深夜には一つ心当たりがあった。

「ちゃんとご飯は食べてる?」
「大丈夫大丈夫。ほら、私ってば一度絵を描き始めたら寝食を忘れて熱中しちゃうから。それで疲れて見えてるだけだって」

 美墨は苦笑顔で鼻を擦ったが、それは強がりであることは深夜にはお見通しだった。美墨が嘘をつく時、鼻を擦る癖があることはとっくに気づいている。

「デリケートな話題だけど……食費に困っているんじゃない? ノルウェーは税金が高い国だし物価も高い。金銭面は色々と大変でしょう」

 図星故に美墨は何も言い返せなかった。日本で貯めた貯金と、こちらでのアルバイト代で、美術学校の学費や最低限の生活費は賄えているが、物価や税金の高いオスロでの生活は切り詰めないと立ち行かない。加えて美墨の場合は画材の費用が嵩むので、その分を食費を切り詰めることで捻出していた。仕事を増やして絵を描く時間が減ってしまっては本末転倒なので、美墨にとってはあくまでもこれが最善の策だった。

「体を壊したら、それこそ大好きな絵が描けなくなっちゃうよ」
「……まったく何も食べてないわけじゃないから大丈夫だって」

 言葉に普段の切れ味がないのも、空腹で頭が回っていないからだろう。素人目に見てもデッサンも筆のノリが悪いように見えた。今の美墨は芸術家としてではなく、一人の日本人留学生としての壁にぶち当たっているのだ。美墨と美墨の絵を愛する深夜にとっては、見過ごしてはおけない事態だった。

「ねえ美墨。私と一緒に暮らさない? 家賃の負担が無くなるだけでも相当楽でしょう」

 美墨の肩に触れて、こちらへと振り向かせた。

「……気持ちは嬉しいけど、深夜にそこまで迷惑はかけられない」

 気まずさから美墨は決して深夜と視線を合わせようとはしない。

「迷惑なんかじゃない。私は本気だよ。家賃だけじゃない。日々の生活費や学費だって私が面倒みてあげる。私こう見えてけっこうお金持ちなんだよ。学生時代から開発したプログラムでたくさん儲けてきたんだから、美墨一人ぐらい余裕で養える。美墨はお金の心配なんてしないでずっと絵のことを考えていたらいいんだよ」

「お金の問題じゃないよ。深夜にそこまでしてもらう資格なんて私には……」
「美墨にとって絵を描くことはその程度のものなの?」

 出会って以来、ずっと優しい面差しで美墨と接してきた深夜の表情が、この時だけは罪を問う検事のように鋭かった。

「今のままじゃ空腹とお金に押しつぶされて、大好きな絵が続けられなくなるよ。手段なんて選んでる場合じゃないでしょう。それとも美墨の情熱は、友達に迷惑をかけるぐらいで揺らぐ程度のものなの?」

「……私は絵を描くことが大好きだよ。それを続けらなくなるのは耐えらない」

 いつの間にか美墨の目には大粒の涙が溜まっていた。勝気で奔放な印象ばかりが先行していたが、まだ21歳の若さだ。異国の地で対面する、金銭問題と夢とのギャップには相当追い詰められていたのだろう。それでいて素直に友人の手を取れない葛藤。それは根の真面目さであると同時に生来の頑固さでもあった。だが今の彼女は、感情だけではどうにもならないことがあるという現実を思い知ったはずだ。

「深夜。本当に助けてもらってもいいの?」
「助けるなんて感覚は私の方にはないけどね。美墨と一緒に暮らせたら私もきっと楽しいし」
「ありがとう深夜……」
「今夜は美墨の歓迎祝いだね。美味しい物でも食べにいこう」

 大粒の涙を流して深夜の胸に顔を埋めた美墨を、深夜は気持ちが落ち着くまでの間ずっと優しく抱擁し続けた。

「美墨がずっと絵を描き続けられるように、私がずっと支えるからね」

 ※※※

「……まるで走馬灯ね」

 ダブルベッドの上で目を覚ました八起深夜の頬を一筋の涙が伝った。

 美墨と二人で選んだダブルベッドは一人で使うには大きすぎる。大きすぎるのに、真ん中を占領する気にはなれなくて、自分の定位置だった右側だけを使う習慣が体に染みついている。左半分はいつだって美墨のための空間だったから。

 下着姿で寝ていたので、その上からガウンを羽織ってリビングへと向かう。生憎と今日は雨模様で、カーテンを開けてもリビングはどこか薄暗い。まるで今の深夜の心境とリンクしているかのようだ。

 リビングの壁には一枚のセピア調で描かれた裸婦画が飾られている。オスロで同棲を始めたばかりの頃、誕生日が近かった深夜のために、深夜をモデルにして美墨が描いてくれたものだ。

 美術モデルの経験などないので、足を組んで椅子に座り、組んだ両手を突き上げるポーズを維持し続けるのは肉体的には大変だったが、美墨が自分をモデルに絵を描いてくれる時間が尊くて、あっという間に時が過ぎ去った感覚だった。出会ったばかりの頃に脱ごうかと深夜が冗談めかして言ったこともあったが、プレゼントの絵をヌードで描かせてくれたと提案してきたのは美墨の方からだった。

 同じ部屋で一緒に生活し、同じベッドで眠り、時に一緒に入浴をする中で、美墨は純粋に深夜の肉体美に惚れこんでいた。深夜を最も美しく表現するには有りのままの姿が一番。美墨が何気なく放ったその一言こそが、深夜にとっては絵そのものよりも嬉しいプレゼントであった。

「直ぐに朝ごはんにするからね」

 深夜はお気に入りの黒いマグカップにホットコーヒーを、美墨のお気に入りだった白いマグカップに温めたミルクを、それぞれ注いでいく。オーブントースターで食パンを焼いている間に、トマトとレタスで簡単なサラダを作り、ボールへと盛り付ける。焼きあがったパンにバターとマーマレードを添えれば二人分の朝食の完成だ。向かい合う形でテーブルに配膳する。

「いただきます」

 両手を合わせて深夜は朝食を開始する。昨夜は何も食べずに眠ってしまったので今朝は食が進み、あっという間に深夜の朝食が減っていく。

 向かいに置かれた美墨の分はいっこうに減らないが、深夜はそちらには一切手をつけない。だってこれは美墨の分の朝食だから。

「美味しいね。美墨」

 深夜が笑顔を向ける先に最愛のパートナーの姿はなく、代わりに一台のパソコンがテーブルの上に置かれ、その周りに朝食の皿が配膳されていた。

 パソコンの画面には【FUSCUS】の文字が表示されている。


第七話

第一話


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