見出し画像

罪花狂咲 第四話

「もう一日くらいお休みしたら?」
「大丈夫。学校に行く方が気が紛れそうだし」

 疲労感を隠しきれない様子で制服に袖を通す美夕の姿に、小夜子は不安を覚えずにはいられない。普段は一人暮らしをしている小夜子は、美夕のことが心配で、ここ数日は実家に身を寄せていた。

 三日前。竜崎信義が亡くなった。美夕との待ち合わせ場所に向かう際に歩道橋の階段から転落。その死には謎が多く、事件事故の両面で警察が現在も調査中だ。

 バーベキューで出会って以来、美夕は年上の竜崎に夢中だった。そんな相手が初めて会う約束をしてくれたというのに、自分との待ち合わせ場所へ向かう途中で亡くなってしまった。そのショックは計り知れない。

 心労はそれだけでは終わらない。亡くなる直前、様子のおかしい竜崎に警察官が声をかける一幕があり、竜崎は制止を振り切り逃走。その直後の死ということもあって、警察は竜崎には何か後ろ暗い事情があるのではと疑い、詳しい経緯を調べている。その過程で、待ち合わせ相手であった美夕も警察の事情聴取を受けた。非日常の連続は、女子高生の心にはあまりにも要領オーバーだ。

「せめて途中まで送っていこうか?」
「そういうのいらないから。お姉ちゃんの過保護なところあまり好きじゃない」
「ちょっと美夕」

 一度も振り返らぬまま美夕は玄関を飛び出していった。内心は複雑だが、姉に不満を漏らす気力があるならとりあえずは大丈夫だろうかと小夜子は前向きに捉える。

 美夕が開けっ放しにした玄関の扉を閉めると、小夜子はポケットからスマホを取り出し海鈴の番号へと発信した。

「もしもし海鈴ちゃん。急にごめんね」
『小夜子さんからの連絡ならいつでも大歓迎ですよ。それでご用件は?』「美夕のことなんだけどね。あの子、今日から学校に復帰したんだけど、まだ少し心配だから放課後にでも会ってあげてくれないかな。姉の私の前だと逆に意地を張っちゃうようなところがあるし、学校のお友達は詳しい事情を知らない。その点、海鈴ちゃんの前でならあの子も素直になれると思うの」『私で良ければ喜んで。私から美夕に連絡しておきますね』
「ありがとう、海鈴ちゃん」
『私達の仲じゃないですか』

 電話越しの海鈴はとにかく優しかった。美夕の前では自然と強張っていた小夜子の表情も、海鈴と会話しているうちに穏やかになっていった。

「海鈴ちゃんみたいな子が妹なら良かったのに」

 海鈴との通話を切った直後、思わず小夜子の口から本音が漏れた。実の妹である美夕を愛していないわけではないが、実の姉の弱みに付け込み反論を封じるなど、最近の美夕の言動は目に余るところがある。猫を被るのも上手なのでこれまでに行動が問題となったことはないが、自分の目の届かない場所、例えば学校といった環境で美夕はどんな存在であるのか、時折不安を覚えることもある。

「……もうこんな時間。私も支度しないと」

 想い人を喪った直後の美夕には申し訳ないが、小夜子だって自分の時間は大切だ。今日は以前から約束していたデートの日。美夕のフォローは海鈴に任せて、出かける支度へと取り掛かった。

 ※※※

「美夕、二日も休んでたけど大丈夫?」
「ちょっと体調崩しててさ。もう平気だよ」

 美夕が学校に登校すると、いつも一緒に行動している友人が心配そうな様子で駆け寄って来た。

「それなら良かった。楠田くすだの件もあるし心配してたんだ」
「楠田? そういえば姿が見えないけどどうかしたの?」

 遅めの時間の登校となってしまい、教室にはほとんどの生徒が顔を揃えているが、話題に上った楠田くすだ真理恵まりえの姿は見えない。

「美夕、もしかして知らないの? 楠田ってば自殺未遂を起こして今は入院中」
「……ごめん、今初めて聞いた」

 竜崎の死後は完全に無気力となってしまい、スマホを確認している余裕などなかった。楠田の自殺未遂に関しては今日が初耳だ。
 動揺を隠しきれず、美夕の表情は微かに引きつっていた。同級生が自殺未遂をしたと知れば動揺するのは当然だ。友人は正常な反応と受け取ったようだが、美夕の受けた衝撃は普通の同級生のそれとは異なる。

「それっていつの話?」
「三日前の夜って聞いているよ。次の日からは美夕まで体調不良で休んじゃうし、美夕にまで何かあったんじゃないかって、みんな心配してたんだよ」
「入院中って言ったけど、楠田の容体は?」

 自分のことを語る余裕はなく、今の美夕にとっては楠田の状態こそが何よりも重要だった。

「幸い命に別状はなかったって聞いている」
「……自殺しようとした動機は?」
「流石にそこまでは知らないよ。外野の私には想像することしか出来ないけどさ、楠田ってあまり友達とかいなそうだったし、一人で色々と抱え込んじゃってたのかもね」「学校側も調査とかするのかな?」
「一応はするでしょう。学生である以上、学校関係の事情が一番怪しいもの。もちろん凄くプライベートな問題の可能性もあるけどさ」
「……それはそうだね」
「美夕、あまり責任を感じたら駄目だよ」

 核心を突かれた気がして、美夕はビクリと肩を震わせた。背に冷や汗を浮かべながら恐る恐る友人の表情を伺う。

「ほら、孤立しがちな楠田のこと、学級委員長としてよく気にかけてたじゃん。美夕って真面目だからさ、楠田の悩みに気付いてあげられなかったことに責任を感じているんじゃないかと思って」

 友人の表情に侮蔑の色は一切なく、労うように美夕の肩に触れた。美夕が動揺を隠しきれず落ち着かない様子なのも、優しさからくる動揺だと信じてやまない。

 ――そうだよね。学校での私は完璧だもの。誰も疑わない。

 美夕は心の中で安堵した。
 片桐美夕という少女は明るく社交的で、誰に対しても分け隔てなく接する心優しき学級委員長。これまでに問題を起こしたことはなく、問題児とは対極にある模範的な生徒であると言っても過言ではない。それが周囲の片桐美夕という少女に対する評価と認識だ。そんな彼女の秘めた内面に薄々勘づいているのは、その一旦を垣間見た実姉の片桐小夜子と、勘の鋭い灰谷永士くらいであろう。

 ――それにしても楠田の奴、まさか自殺未遂なんて起こすなんて。死のうとするのは勝手だけど、私に迷惑がかかるような真似だけは止めてよね。

「……うん、正直今は頭の整理が追いついていなくて」

 心の中で楠田に対して悪態をつきながら、美夕は自分という人間の評価が良くなるよう、心にもない言葉を紡いでいく。手だけは自然と心臓の位置へと伸びていた。

 ――胸がチクチクする。ただでさえ竜崎さんのことでショック受けているってのに、楠田のバカが。

 ここ最近どうにも胸の調子が悪いが、今感じている痛みはこれまでで一番不快だ。訴える程ではないが、気のせいと切り捨てるには存在感が強すぎる。きっと全てはストレスのせいだ。余計な悩みを増やしてくれた楠田への苛立ちが募っていく。

 それまでは単なるクラスメイトでしかなかった美夕と楠田真理恵の関係性に変化が生じたのは三月下旬のこと。アルバイト帰りの美夕が偶然、男性連れで歩く楠田真理恵の姿を見かけたことに端を発する。

 見たところ男性は真理恵より年上で、年の頃は二十代後半といったところ。兄妹ではなく男女の仲であることは一目で分かった。人目を気にしつつも手はしっかりと恋人繋ぎだったし、何よりも印象的だったのは学校では野暮ったい印象だった楠田真理恵が、少しでも相手の男性と釣り合おうと、ファッションやメイクを背伸びして頑張っていたことだ。

 無口で孤立を深めている学校での印象とのギャップに美夕は好奇心を刺激され、バレないように、そっと二人の尾行を開始した。

「へえ、大人しそうな顔してやることはやってるんだ」

 二人を尾行して辿り着いた先はホテル街だった。二人は少しだけ周りを気にしながら、一軒のラブホテルへと入店していく。周りを気にしていたのは単なる警戒心。ラブホテルへ入店すること自体を躊躇った様子はない。これが初めてではないと美夕は直感した。

「面白いもの撮れちゃったな」

 二人がホテルへ入店する様子を、美夕はしっかりとスマホのカメラへと収めていた。この時点で何かしてやろうと決めていたわけではないが、後々何かに使えるのではと咄嗟に思いついた悪知恵であった。

 それから程なくして、事態は美夕にとって面白い方向へと進んだ。思いがけず、美夕は、楠田の相手の男性の正体を知ることになったのである。

 ――へえ、そういう繋がりだったのね。

 祭日を利用し普段とは違う曜日にバイトに入っていた美夕は偶然にも、あの日楠田と一緒にホテルへと入っていった男性を接客した。接客後、それとなくバイトの先輩に確認をしてみると、男性は近くの塾に勤務する講師で、時々昼食にハンバーガーとポテトのセットを買いに来るのだという。

 楠田真理恵が塾通いをしていることは前から知っていた。真理恵と同じ塾に通っている知人に遠回しに尋ねてみたら、真理恵の塾はやはり例の男性講師が務める塾と同じであった。

 ――バイトを増やそうかと思ってたけど、その必要はないかもね。
 
 全てを知った瞬間、美夕の中に邪心が芽生えた。
 二人が塾の講師と教え子。どれだけ本人たちが真剣であろうとも、世間一般には非難に晒される関係性には違いない。美夕はそこにつけ込むすきを見出した。

「ごめんね楠田ちゃん、急に呼び出しちゃって」
「いえいえ、それで私に用って何ですか?」

 ある日の昼休み。人気の少ない校舎裏への呼び出しに楠田は素直に応じてくれた。美夕は学級委員長として何かと楠田を気にかけていた。美夕にとってそれは自分を良く見せるためのポーズに過ぎなかったが、楠田自身は自分のような暗い人間にも気さくに声をかけてくる美夕へは好印象を抱いていた。これから酷く傷つけられることになろうとは夢にも思っていない。

「どうしても楠田ちゃんに見てもらいたいものがあってさ」

 蠱惑こわく的に笑って見せると、美夕はスマホの画面を楠田へと見せた。画面にはもちろん、あの日ホテルに入る二人を移した写真が表示されている。急転直下。写真を目にした瞬間から、楠田から見る見る血の気が引いていく。

「……何これ?」
「この前、偶然あんたが男と一緒に歩いているのを見かけてね。興味本位で後をつけてみたら面白いものが撮れちゃった。後から調べてみたらびっくり、この人、塾の先生なんだってね。塾の先生が教え子の女子高生に手を出しちゃうのはまずいよね」
「そんな言い方止めて、先生と私は真剣に!」

 感情的になる楠田の口もに人差し指を当て、美夕は不敵に微笑んだ。

「あら大胆。駄目だよ、そんな大声出しちゃ。周りに聞こえちゃう」
「……」

 残酷な正論を前に、楠田は押し黙る他なかった。目には涙が溜まり今にも溢れ出しそうだ。

「大丈夫、私は優しいからこのことを誰にも言ったりしないよ。あんただって大好きな先生に迷惑はかけたくないでしょう」
「……私は何をすればいいの?」

 何かしらの要求を突きつけられることを楠田はすでに覚悟していた。優しい人間だったなら、そもそも写真を突き付けてくるような真似はしない。

「最近少し金欠気味でさ。もし良かったら少し恵んでくれないかな?」

 悪魔の微笑みを前に、大人しい楠田は無言で頷くことしか出来なかった。悩みを相談できる友人なんていない。内容が内容だけに、友人がいたとしても相談出来ないかもしれない。楠田真理恵にとって状況は四面楚歌しめんそかだった。

 ――ラッキー。これで今月は新しい服が買えそう。

 社会人相手に簡単に恐喝出来ると思うほど美夕は浅はかではない。だからこそ楠田の方をターゲットに選んだ。先生に迷惑をかけたくないという純情が重い足枷あしかせとなる。愛する先生にも相談できぬまま、楠田は深みにはまっていくと、美夕はそう確信していた。

 以降、楠田真理恵の地獄の日々は始まった。口止め料として、事あるごとに美夕に金銭を支払い続ける。最初の内はお小遣いで何とかやり繰りをしていた楠田だったが、学生の財布事情が潤沢なはずもない。

「いつもより少ないんだけど? これじゃあサンダル買えないじゃん」

 七月に入ってすぐ。この頃にはすでにバーベキューに行く予定が決まっており、美夕はおしゃれのための費用を楠田から調達しようとしていた。搾取さくしゅが始まってから三ヵ月。懐事情、精神面ともに楠田真理恵には限界が近づいていた。

「これまではお小遣いの前借りで誤魔化して来たけど、最近はお母さんたちもお金の使い道を怪しんでる。もう限界だよ……」
「親が駄目なら愛しの先生にでも相談してみたら? 可愛い可愛い年下の彼女のためならお金貸してくれるんじゃない?」
「それだけは駄目、先生にだけは絶対に迷惑かけられない」
「ちょっと、離しなさいよ」

 強く腕を掴んで来た楠田を美夕は荒々しく振り払った。一瞬、感情的に突き飛ばしそうになるが、怪我をさせて虐めを疑われたら厄介だ。あくまで自分の保身のために、その場は思い留まった。

「少しだけ期限を延ばしてあげる。親も恋人も駄目なら、自分でお金を作りなさい」
「……お願いだからもう許して。これ以上は本当に」
「お願い出来る立場だと思ってるの? あなたに拒否権なんてないわ!」

 有無を言わさぬ美夕の迫力を前に、結局は楠田も屈する他なかった。
 美夕が直接楠田とやり取りをしたのはこれが最後。美夕が新たに指定した期日の前日に楠田真理恵は自殺を図った。

「片桐、少しいいかな?」

 昼休み。友人たちとの昼食を終えた美夕は、クラス担任の男性教師に生徒指導室へと呼び出された。タイミングがタイミングだけに嫌な予感が拭えないが、優等生を演じている以上、拒否することも出来ず、覚悟を決めて場に臨んだ。

「お話しって何ですか? お休みしてしまったことについては、ご連絡していた通り体調不良が原因ですが」
「真面目な片桐のことだ。サボりだったなんて疑っていないさ。話というのは楠田のことでね。デリケートな話題だからこうして一対一の形にさせてもらった」

 胸の痛みも相まって、今にも心臓が飛び出しそうな心地だった。それでも決して優等生の仮面にひびは入れない。

「自殺未遂と聞きました。私も今朝知ったばかりで驚いています」
「幸い命に別状はなかったがこれは由々しき事態だ。学校側としても原因究明を進めていきたいと考えている」

 教師の言葉に威圧は感じられないが、それでもこれから何を言われるのか美夕は気が気じゃなかった。「お前のせいだろう」と突然指摘される可能性を完全には拭い去れない。

「そこでなんだが片桐、最近の楠田の様子で何か気になったことはないかな?」
「気になったことですか?」

 教師の態度に美夕を疑っている気配は微塵もない。学校内での交友関係が希薄な楠田に関する情報を、学級委員長として楠田を気にかけていた(少なくとも周りからそう見えていた)美夕なら何か知っているのではと、単純に情報収集の一環として声をかけたのだろう。

「残念ですけど私の方では何も。最後に話した時にも当たり障りのない会話をしただけでしたし……私がもっと彼女に寄り添えていたら、こんなことにならなかったかもしれません」

 猫を被ることに関して美夕は天性の才能を有していた。伏し目がちに、時々声を詰まらせるその姿に、楠田真理恵を恐喝していた悪女の一面は微塵も感じられない。

「自分を責めては駄目だ片桐。責任を感じるべきなのは君ではなく、担任教師である私の方だ。自殺を図るまでに追い詰められていた教え子の悩みに気付いてあげられなかった。悩みを相談出来る相手であることが出来なかった。私は自分が情けないよ」

 美夕の姿に看過された担任教師は美夕に同情的ですらあった。これでこの話も終わりだろうと、美夕はホッとを息を撫で下ろしたが。

「酷ではあるが、やはり楠田本人の口から事情を語ってもらう他ないだろうな」

 安堵は一転。再び美夕の背筋が凍り付いた。

「楠田さん自身にですか? 流石に可哀想では」
「もちろん無理強いはしないさ。ゆっくり時間をかけてもいい。本人の気持ちが落ち着いて胸中を吐露出来るようになったらということだよ」
「そ、そうですよね」

 自殺を図るまで追い詰められた楠田ならば、もう怖いものはないと、早々に美夕から恐喝を受けていたと暴露する可能性は高い。自殺は未遂に終わり幸いにも命に別状はない。真実はいつ明らかになってもおかしくはないのだ。これまで主導権を握って来た美夕の運命は今、楠田に握られていると言っても過言ではない。

「楠田が戻ってきたら、片桐も楠田のことを支えてあげてくれ。もちろん先生も協力するから」
「……はい」

 動揺のあまり、上手く作り笑いが出来ていたかどうか美夕は自信が持てなかった。

 ※※※

『全部私が悪かった。あの写真は削除したし、今まであなたから受け取ったお金も全額返済する。だからどうかあなたの自殺未遂の原因について、私の名前を出すのだけは止めて。心の底から謝る。だから、一度連絡をください』

 教師の言葉を聞いて焦った美夕は、慌てて楠田宛てにメッセージを送信した。自殺を図って入院している相手に直接口留めするのは難しい。楠田がスマホを確認出来る状況にあるとは限らないが、今は楠田がメッセージに対して何らかのリアクションをくれることを祈るばかりであった。例えば楠田のスマホを親が預かっていて、万が一このメッセージを見られでもしたら、楠田の証言を待たずして美夕は破滅を迎えることとなってしまうが、今はその可能性は見越せるほど冷静ではいれれなかった。

 ――楠田に名前を出されたら私は終わり……。

 不安が胸痛となって美夕を貫く。駅前のベンチに座って背中を丸めながら、痛みが引くのをそっと待つ。痛みは朝よりも酷い。

「美夕、大丈夫?」

 聞き慣れた親友の声を聞き美夕は顔を上げる。そこには待ち合わせに到着した海鈴が、具合の悪そうな美夕を見て不安気な表情を浮かべている。海鈴の後ろには従兄弟の灰谷永士も同行している。学校終わりに一緒にここまでやってきたようだ。

「ごめんごめん。学校に復帰したのはいいんだけど、ずっと家に籠ってたからか、上手く切り替えられなくて疲れちゃった。でも、海鈴の顔を見たら安心したよ」
「そっか、なら良かった」

 昼休み中に放課後に少し会わないかと海鈴から連絡を貰い、美夕は二つ返事で快諾した。楠田の件を考えれば友達と会っている場合ではないが、今は一人きりで過ごす孤独にとても耐えられそうになかった。

「永士くんも来てくれたんだ。もしかして私に気があるとか?」
「ご想像にお任せするよ」

 ――相変わらず不気味。

 本気なのか冗談なのか、永士の無表情から読み取ることは難しい。
 頭脳明晰でイケメンで、年齢の割に落ち着いていて。美夕は初めて会った頃は永士に好感を抱いていたが、海鈴を介して何度か顔を合わせているうちに少しずつ苦手意識が積み上がっていった。

 美夕は自分の思い通りにならない人間が嫌いだ。両親は末っ子の美夕を溺愛しているし、口うるさい姉の小夜子も弱みを握ったことで最近は随分と大人しくなった。親友の海鈴のことはもちろん大好き。押しに弱い海鈴はいつだって自分に合わせてくれる。それでこそ親友だと美夕は確信して止まない。

 だけど、灰谷永士という人間はあまりにも掴みどころがない。下心を見せたらその瞬間に足元をすくわれそうな、そんな得体の知れなさを彼は有している。灰谷永士は自分に御しきれる人間でないと、二カ月前のあの事件を経へ確信へと変わった。

「カラオケでも行く? それともゆっくりお茶でもしながら雑談する?」
「今日はお茶にしよう。新しく出来たカフにみんなで――」

 言いかけたところで美夕のスマホから通知音が鳴った。美夕は慌ててブレザーのポケットにしまっていたスマホを取り出した。画面には楠田真理恵からメッセージが届いた旨が表示されている。

「美夕?」
「ごめん、大事な連絡なの」

 美夕は有無を言わさぬ迫力で美夕を制した。いったい何事かと海鈴は不思議そうに小首を傾げる。

 ――お願いだから早まった真似だけはしないでよね。

 美夕は祈るように楠田からのメッセージを画面へ表示した。

『もう全てが手遅れなの。私は先生に捨てられた。全部あなたのせいよ。あなたがあんなことをしなければ私の平穏は脅かされずにすんだ。先生も先生よ。私を愛してくれていると言ったのに、結局は保身のために私を裏切った。私はあなたと先生を絶対に許さない。私と先生の関係もあなたの裏の顔も、全部ぶちまけてやる。一度は死のうとした身。例え退学になったて構わない。その時はあなたも地獄に道ずれよ』

「何よこれ!」
「ちょっと美夕!」

 楠田からの鬼気迫るメッセージを目にした瞬間、美夕は怯えるようにその場から駆け出した。突然の奇行に呆気に取られ、海鈴のその場から動けずにいる。

「追わなくていいの?」
「ごめん、突然のことにびっくりしちゃって。急いで追いかけよう」

 一人冷静に状況を静観していた永士に背中を押され、海鈴も慌てて美夕の後を追った。

「ふざけんな! ふざけんな! ふざけんな!」

 強烈に痛む胸部を抑えながら、美夕は楠田真理恵が入院している病院を目指していた。メッセージアプリではらちが明かないと、今まで一度も使ったことがなかった楠田の番号へ何度か発信するも応答はなく、ついには相手側がスマホの電源を落としてしまった。こうなってしまえばもう、直接病院に乗り込んで直談判するくらいしか美夕には思いつかなかった。

 外見に似合わぬ荒々しい言葉を吐く女子高生の存在に周囲の視線が集まる。普段なら慌てて取り繕っているところだが、周りから自分がどう見えているのかを気にする余裕さえも今の美夕には存在しない。

 ――こんなことになるなら、楠田になんか関わるんじゃなかった。このままじゃ私は本当に破滅する。

 横断歩道の赤信号に捕まり停止を余儀なくされる。一分一秒が惜しい現状に美夕の苛立ちは高まり、比例して胸の痛みが強まっていく。だが今は胸の痛みを気にしている余裕はない。皮肉なことに向かっている場所は病院だ。このまま不調が続くようなら、楠田を言いくるめた後で診てもらえればいい。

 ――まだ間に合うはずだ。楠田に強く口留めすればまだ誤魔化せる。

 息を整え直そうとしたタイミングで美夕のスマホが鳴った。楠田からに違いないと慌ててポケットに手を伸ばし、恐る恐るスマホの画面を開く。

『言ったでしょう。全てがもう手遅れだって。あの後すぐに私自身が学校に連絡した。詳しい聞き取りは改めてになるだろうけど、関係者としてあなたの名前はすでに出している。さいは投げられた。あなたはもう逃げられない』
「……嘘でしょう」

 美夕にとってそれは死刑宣告に等しい言葉であった。これまで築き上げて来た優等生像が崩れていく。明日学校に登校するなり事情を聞かれるに違いない。いいや、学校側が調査を開始している以上、今すぐ連絡があってもおかしくはない。そうすれば家族にも伝わる。怒られるだけではすまない。友達だって離れていく。もう全てがお終いだ。

「痛っ!」

 これまでで最も激しい痛みが美夕の胸を貫き、耐え切れずスマホを前に落としてしまう。拾い直そうと前傾になろうとした瞬間、痛みに耐えきれず美夕はバランスを崩した。激痛が走ると同時に胸が張り裂け、ブラウスの前が真っ赤な鮮血で染まっていく。

「……なんでこんなことに」

 全ては自分で蒔いた種だ。高慢な本性を秘めていようとも、人に直接危害さえ与なければそれなりに上手く立ち回っていけたはず。欲などかかず、楠田の問題に首を突っ込むべきではなかったのだ。

 最期の瞬間に美夕が悔いたのは、楠田に対する惨い仕打ちではなく、自分で自分の首を絞めてしまった己に対する愚かさだった。

「私は罪は犯しました」

 バランスを崩した前へ倒れた美夕の体が車道へと侵入し、通過した乗用車のミラーと顔面が直撃した。

「おい、女の子が車と接触したぞ!」

 突然の出来事に、信号待ちをしていた周辺の人達から次々と悲鳴が沸き起こる。

「……美夕?」

 友人が車と接触した瞬間を、急いで後を追って来た海鈴と永士も目撃していた。突然の出来事に理解が追いつかず、美夕はその場で立ち尽くすことしか出来なかった。今すぐ駆け寄ってあげたい。だけど、美夕の姿を見たらパニックになってしまいそうで、その一歩を踏み出すことが出来ない。もう人が死ぬのを見るのは絶対に嫌だ。

「場所は駅近くの庭木にわき書店前の横断歩道。女子高生が車と接触、遠目ですが顔面を強打したよう見えました――」

 その場に立ち尽くす美夕や周辺の人達がパニックで何も出来ずにいる中、永士だけは冷静に救急への連絡を行っていた。


第五話

第一話


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?