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烏賊墨色ノ悪夢 第三話

「私もいつかこんな絵が描けたらな」

 瞳子は自室の机で画家、海棠美墨の画集を開き、中でも一番のお気に入りである、海外の都市公園の池をセピア調で描いた「絆」という題名の作品を眺めていた。美墨がノルウェーの首都オスロで活動していた時期に描かれた初期の作品だが、一目見た時から瞳子はこの作品の虜だった。

 都市公園の池を優雅に泳ぐ水鳥たちと、水面に反射する雄大な雲との共演が見ていて楽しい。同時に、行ったこともない土地にも関わらず、セピアの色味が郷愁のようなものを感じさせてくれる。

 過去にこの作品に関して美墨は「まだ未熟で粗削りな部分も多いけど、今の自分を形成する上で欠かせない大切な一枚です」とコメントを残している。一見するとシンプルな風景画に見えるこの作品に美墨がどういった「絆」を込めたのか。本人が心意を語らなかったこともあり、ファンの間では今でも考察の種となっている。

 瞳子が初めて海棠美墨の作品と出会ったのは今から四年前。中学一年生の頃だった。幼少期の頃から絵を描くのが好きで、中学でも美術部に所属していた瞳子は、様々な色を駆使したカラフルな作品作りに主眼を置き、時には過剰と思える程に色の足し算に夢中だった。

 そんなある日、たまたま目にした雑誌に、新進気鋭の若手芸術家として海棠美墨の特集が組まれており、そこで目にした彼女の作品に瞳子は衝撃を受ける。美墨はあらゆる絵画を一貫してセピアで描いており、引き算とでも言うべきその画風は、色を多用する瞳子の画風とはある意味で対極にあった。それなのに、美墨の作品の方が圧倒的に色鮮やかで、躍動的で、確かな息遣いや生活感のようなものが感じられた。その絵には命が宿っていたのだ。こういった表現もあるのかと。瞳子はたった一回見たその絵で、己の感性や人生観そのものが大きく更新されるような衝撃を受けた。

 それ以来、海棠美墨は瞳子にとっては憧れの対象だ。色の多様を止め、引き算の表現を積極的に取り入れていった。部活仲間や顧問からは突然の作風の変化に戸惑い、中には前の瞳子の絵の方が好きだという意見も多かったが、瞳子は自分を貫くことを止めはしなかった。

 海棠美墨の表現を探求するためには、美術部での活動が煩わしいとさえ感じるようになってしまい、コンクール入選などの華々しい実績を持ちながらも、瞳子は三学期の後半には美術部を退部してしまった。自宅でも絵を描ける環境は整っていたので、瞳子としては困ることは無かった。

 三年前。中学二年生の頃には電車で迎える距離の現代美術館で海棠美墨の展覧会が行われることになり、瞳子は期間中何度も何度も美術館に通い詰めた。大切にしている画集もその時に購入したものだ。中日と最終日には海棠美墨本人が登壇してのトークショーも企画されており、本物の海棠美墨と会える機会に胸を躍らせたが、海棠美墨の体調不良を理由に両日ともに中止が決定。肩を落としながらもきっと次の機会がある。もし同じような企画が行われるなら地方に遠征したっていい。それぐらいの心づもりでいたのだが、その機会は二度と訪れることはなかった。

 海棠美墨の体調不良は想像以上に深刻で、その後は一度も新作を世に送り出すことのないまま、二年前に27歳の若さでこの世を去ってしまった。

 憧れの存在の喪失は、瞳子の胸にもポッカリと穴を空けてしまった。もう海棠美墨の新作を目にすることも叶わない。神様は残酷だ。あれだけの才能を持った人間に、たった27年しか時間を与えないだなんて。代償を伴うとしても、対等に契約をしてくれる悪魔の方がまだ温情ではないかとさえ、本気でそう思ってしまう。

 海棠美墨の新作が二度と生まれることのない今の世界は、瞳子にとってはあまりにも退屈だ。今でも趣味の範囲で絵は描き続けているが、目標と同時に情熱も流浪の旅に出てしまった。今の自分が何かを成し遂げることが出来るとはとても思えない。瞳子は完全にくすぶっていた。

「どうしてこの絵が?」

 絵の資料用に画像ファイルを整理していた瞳子は、見覚えのない画像ファイルを発見した。【未来の私】というタイトルで、雪菜と【FUSCUS】を試していた時のものだと直ぐに分かったが、あの時はキーワードが曖昧過ぎたのか、結局絵は完成しなかったはずだ。しかも雪菜と一緒に【FUSCUS】を利用していたのは10月16日の夕方頃のはずだが、画像の保存日時は翌17日の午前4時となっている。もちろん、この時間に改めて画像を保存した心当たりなどない。

「ウイルスとかじゃないよね?」

 普段なら身に覚えのないファイルを開くような軽率な真似はしないが、危険な好奇心がマウスカーソルを【未来の私】の画像データへと合わせる。始めて利用した瞬間から、瞳子は【FUSCUS】の画風の虜だった。もう二度と新作を見ることは叶わない、憧れの美墨の作品と再会出来たように錯覚したからだ。あの画風で自分の姿を描いてくれたのなら、それは恍惚にも似た感情を得られることだろう。瞳子にとって【未来の私】の絵は禁断の果実だ。己の中の芸術性と憧憬とが、楽園の蛇のようにその先へとそそのかす。マウスをクリックする動作に一切の迷いは存在しなかった。

「これが未来の私?」

 画面いっぱいに表示されたのは、セピア調で描かれた、仰向けに大の字で倒れたまま虚空を見上げる瞳子の姿であった。胸から流れ落ちた大量の血液が地面へと広がり、まるで堕天使のような黒い翼を形成している。その絵からは心音が感じられない。それは死をテーマに描かれた傑作だった。

「綺麗。これが私なの?」

 モデルとなった人物が自分であることは一目見て分かったが、疑問や不気味さよりも、まずその作品の完成度の高さに瞳子は感嘆した。死を描いた絵画作品は数あれど、ここまで心を惹かれるものが今まであっただろうか。AIが生成した絵にここまで魅了されるのはやはり、この画風に憧れの画家、海棠美墨の存在を重ねずにはいらないからだ。例え死の瞬間であっても、この画風が自分をモデルとしてくれたことが嬉しく仕方がない。

「こんな時に誰?」

 喜悦に水を差すようにスマホに着信が入った。舌打ち交じりに発信者を確認すると、友人の佐藤根雪菜であった。親友だとは思っているが、昔からどうにも間の悪いところがあり、そういったところだけは嫌いだ。

『……瞳子、どうしよう……』
「雪菜。何かあったの?」

 電話越しの雪菜は言葉に詰まる程泣いていた。直前までの苛立ちもすっかりと冷めて、瞳子は様子のおかしい雪菜に寄り添う。

『お姉ちゃんが……お姉ちゃんが』
「佐那ちゃんがどうしたの?」
『……トラックに跳ねられて……死んだ……』
「そんな……」

 佐那が大学に進学して一人暮らしを始めてからはあまり会えていなかったが、美人で愛嬌があった佐那は、一人っ子でよく佐藤根家に遊びに行っていた瞳子にとっても自慢の姉のような存在だった。中学生の頃、絵のモデルなってくれとお願いしたら、笑顔で快諾してくれたこともあった。その佐那がもういないだなんて信じられない。

「とにかく気をしっかり持って。心細い時はいつでも駆けつけるから」

 佐藤根一家は長女の急死で大混乱のはずだ。親友とはいえ他人の瞳子が直ぐに合流するのは難しいかもしれないが、雪菜がそれを求めるならいつでも駆けつける覚悟を瞳子を決めていた。

「……そういえば、佐那ちゃんも【FUSCUS】を」

 雪菜を宥めて通話を終えた瞳子は、パソコン画面いっぱいに映る自分の死に様を見てふと思う。【FUSCUS】は佐那から妹の雪菜を経由して伝わって来た。だとすれば【未来の私】の噂もまた佐那から伝わったことになる。佐那は【未来の私】と【FUSCUS】にキーワードを打ち込んだのだろうか? だとすれば、その後亡くなってしまう彼女の未来を【FUSCUS】はどう描いたのだろうか? あるいは……。

 ※※※

 10月28日午後。

 アナログゲームにはプレイヤーの個性が現れる。熟練者であればそういった部分もコントロールして駆け引きを楽しむかもしれないが、例えば友人同士が内輪で盛り上がっている場合は遠慮がいらない分、思わぬ内面が明らかとなるものだ。

 それが大学時代に熱中したアナログゲームから繭美が得た経験だった。この頃に身に着けたある種の観察眼は、現在の仕事にも少なからず活かされていると自負している。

 友人たちと盛り上がった代表的なアナログゲームは人狼ゲームで、お馴染みのメンバーの中には雨谷光賢の姿もあった。人狼ゲームの立ち回りというのは、プレイヤーが人狼か村人か、村人ならば役職によっても変わってくるものだが、光賢はどんな立場にあろうとも非常に攻撃的な立ち回りを見せるプレイヤーだった。

 確定情報が無くとも、初回でも積極的に誰かを吊ろうとするし、自身が人狼の時は積極的に村人を食らいながら、やはり積極的に自分以外の人間を吊っていく。露骨過ぎて必ずしも勝率が高かったとは言えないが、強烈な彼の個性として強く印象に残っている。

 大学の先輩主催のマーダーミステリーに参加した際にもその傾向があった。光賢は犯人役ではなかったが、ここでのロールプレイも行動力の塊であり、良く言えば勇敢、悪く言えば考え無しといった印象だった。

 あえてネガティブな例えをすると、ミステリーならば目障りで、あるいは知り過ぎて、終盤を待たずして黒幕に消されるようなポジションだろう。

 成績は優秀だし、普段は理性的に会話を進めるタイプにも関わらず、ここぞという場面では攻撃的な一面が見え隠れする。ゲームのプレイング一つで大げさかもしれないが、そこからさらに十年も友人として付き合ってきて、この考察はあながち間違いではなかったと繭美は確信を深めている。

 そして光賢を語る上でもう一つ欠かせない要素はやはり、最愛の妹である玖瑠美の存在であろう。決して本人の前では口にしなかったが、光賢はシスコンではないかというのが当時の友人間での共通認識だった。歳の離れた妹を溺愛する気持ちは分からないでもないが、それは時に光賢が妹の奴隷に見える程だった。

 大学二年生の夏休み。予算や具体的な日程を決めて、仲の良い友人数名と旅行を計画したことがあったが、旅行の直前になって光賢だけが予定をキャンセルしたことがあった。本人は家庭の事情で急遽実家に戻らなければいけなくなったと語り、それなら仕方がないかと繭美ら友人もその場では深く追求しなかったのだが、後になってそれは実家で暮らしていた当時10歳の玖瑠美が、光賢と一緒に遊びたいとせがんだのが理由だと判明した。

 小さな妹のお願いだから仕方がないと光賢は語っていたが、正直繭美は内心では呆れていた。価値観は人それぞれとはいえ、時間をかけて友人と計画してきた旅行と一時の妹の我儘なら、前者を選択して然るべきではないのか。

 しかし、光賢の中で最優先されるのはあくまでも玖瑠美との時間なのだ。繭美が初めて玖瑠美と顔を合わせたのは彼女が中学三年生の時で、初対面では礼儀正しい少女といった印象だったが、光賢と親し気な繭美に対して、嫉妬を覚えるような眼差しや言動が見え隠れしていた。彼女は間違いなく光賢に対する独占欲が強い。

 光賢の方は社会人として生活していく内に幾らか感情が落ち着いて来た印象だったが、それでも二人は一般的な兄妹に比べると、お互いに対する依存は強固なものがあった。光賢の中であらゆる要素よりも優先されるのは、今でも玖瑠美の存在なのだ。

 そんな中で起きた今回の玖瑠美の不審死。光賢が壊れてしまってもおかしくはなかったが、彼は事件の真相を突き止めるという目的を持つことで、辛うじて己を保ち続けている。だが、今の光賢は繭美の目から見てあまりにも危うい。

 最愛の妹を奪われた末に、彼の奥底の攻撃性が覚醒したなら、その先に待っているのは破滅以外にはあり得ないだろう。光賢にはそうなってはほしくはない……はずなのに。

「……何してるのよ私は」

 繭美は光賢のために部外秘の資料を持ちだしていた。今はまだ誤魔化せているが、すでに不審がっている同僚もいる。このことが露呈すれば自分のキャリアにだって傷がつくというのに、このままだと光賢が壊れてしまいそうで、居てもたってもいられなかった。惚れた弱みと言えばまだ可愛げがあるが、自分本位な罪滅ぼしとしての意味合いも大きい。

 玖瑠美が死んだとの一報を受けた時、もちろんショックだったし、見知った彼女の死に胸を痛めた。だけど心の奥底には、これで光賢がやっと玖瑠美の呪縛から解放されるのではないかと、そんなあさましい考えを抱いてしまっている自分がいた。
 
 光賢の友人として、それは決して許されないことだ。だからこうして、光賢に手を差し伸べることで己を正当化している。

 破滅に向かっているのは光賢だけではない。繭美も十分に破滅の道を進んでいる。全ての真相が明らかになった先に、救いなど存在するのだろうか?

 何も答えを出せないまま、繭美は光賢のマンションのインターホンを鳴らした。

「非番の日に済まないな」
「私だってこの事態は見過ごせないもの」

 佐藤根佐那の死から二日後。光賢の自宅マンションを警視庁、鈍山警察署所属の警部補、虎落繭美が訪れた。光賢同様に玖瑠美の転落死には疑念を抱いており、刑事としての職務の傍ら、玖瑠美の死について独自に調査を行っている。

 インターホンを押す直前のような憂いは表情から消えていた。職業柄、感情を表に出さないことは得意だ。クールな顔立ちと170センチの長身も、印象付けに一役買っている。

「佐藤根佐那の死について何か情報は?」

「目ぼしい情報は何も。これまで通り事故、ないしは自殺で事件性は低いというのが警察の見解。錯乱状態に陥った被害者が自ら車道に飛び出していく様子を、多くの通行人が目撃しているからね」

「あの異様に黒い出血はどう説明する? 突然の錯乱に関してもあまりに不自然だ」

「遺体からは薬物反応などは検出されていないし、黒い血液についても科警研で分析を行ったけど、科学的には通常の血液とは変わらないとの検査結果が出ている。外部からの干渉が認められない以上、被害者が突拍子もない行動をとった末に事故死したという事実が残るだけ。どんなに異様な死に様であったとしても、事件として扱うのは難しいわね」

「それが警察の限界か?」
「私だって現状を憂いている。十分な証拠が集まれば一連の不審死についての再捜査を直訴するつもりだよ」

 繭美は警察官として真正面から捜査することが出来ない歯がゆさを感じていた。今後も犠牲者が増える可能性は十分に考えられる。光賢の親友としてではなく、一警察官としても見過ごせない事態だ。

「代わりと言っては何だけど、直近で発生した類似の不審死について調べて来た。部外秘だからこの場で頭に叩き込んで」

 繭美はスマホで撮影してきた捜査資料の画像を提示した。一般人である光賢に提示するのは本来ご法度だ。

「いいのか? 万が一露呈すればお前のキャリアに傷がつくぞ」
「親友の妹の死の真相さえも突き止めれないような地位なんて、こっちから願い下げよ」
「恩に着る虎落。情報源は絶対に漏らさない」

 親友の覚悟を感じ取り、光賢は深々と頭を下げた。そのまま提示された捜査資料のに目を通していく。

「都内だけでもこの二週間の間に六件か」
「まだ調べが及んでいないけど、地方にまで範囲を広げれば、被害件数はさらに増加するでしょうね」

 捜査資料によると、東京都内では光賢の把握している三件とは別にもう三件、被害者が異様に黒い出血を伴った死亡事案が確認されている。

 時系列順に並べると――

 10月14日・二輪和仁(23)動画投稿者・遮断機の下りた踏切に進入、電車と接触し全身を強く打ち死亡。事故・自殺の両面で現在も捜査中。車体や肉片に付着した血液は異様に黒く見えたとの報告あり。

 10月16日・雨谷玖瑠美(20)大学生・突然錯乱状態に陥り、自宅マンションのベランダから転落し死亡・事故、自殺の両面で現在も捜査中・到着時点で出血が異様に黒かったとの報告あり。

 10月18日・生熊いくま季里きり(21)美大生・自宅で作業用のアートナイフで頸動脈を切り失血死。現場の状況から自殺と断定・部屋中に飛び散った血液は異様に黒かったとの報告あり。

 10月18日・吉比きび友則とものり(19)専門学校生・友人と趣味の登山中、岩場で足を踏み外し滑落死。事故と断定。滑落直前に奇妙な言動があったとの証言、滑落した斜面に残された血痕が異様に黒かったとの情報あり。同日に亡くなった生熊季里とは高校時代の先輩後輩の間柄。

 10月21日・真柴ましば堅太郎けんたろう(29)会社員・山間部を車で走行中に誤ってガードレールを突き破り崖下へと転落。一時間後に救出されたがその場で死亡を確認。単独事故と断定。落下時に打ちつけた胸部や、ガラス片で切り刻まれた顔面からは黒い出血を確認。

 10月26日・佐藤根佐那(20)大学生・突然錯乱状態に陥り車道へと飛び出し、走って来たトラックと接触し轢死。その場に居合わせた友人の段永樹ら数名から、異様に黒い出血の目撃情報をあり。

 ――となっている。

「生熊ら三人も【FUSCUS】を利用していたのか?」

「その可能性は十分に考えられると思う。生熊季里は美大生で、吉比友則は専門学校でプログラミングのスキルを学んでいた。どちらも画像生成AIに興味を抱いた可能性はある。知人同士でもあったし、片方が相手に【FUSCUS】を紹介したという筋書きもあり得るね。すでに自殺と事故で処理されている以上、踏み込んだ捜査は出来ないから、あくまでも想像の域は出ないけど」

「真柴堅太郎については?」

「真柴は【FUSCUS】を利用していたと見てまず間違いない。彼は会社勤めの傍ら、趣味で自分で描いたイラストを【ヴィオレッタ】名義でネットに投稿していた。過去のSNSの投稿を確認したら、セピア調で描かれた風景画が載せられていたよ」

 繭美は自身のスマホに、まだ残されていた【ヴィオレッタ】のアカウントの投稿を表示した。最近の画像生成AIのクオリティに驚嘆する文言が添えられた、セピア調で描かれた湖畔の城は、【FUSCUS】の画風と完全に一致している。

「まだ知名度が低いとはいえ、【FUSCUS】自体は誰でもアクセス可能な画像生成AIだ。利用者の明暗を分けたのは【未来の私】というキーワードを知り得たかどうかか」

 そうでなければ被害者はとんでもない数に上ることになる。鍵を握るのは【FUSCUS】以上に【未来の私】というキーワードの方だ。

「玖瑠美ちゃんのサークルには、二輪和仁から伝わったのよね」
「二輪は元々、段の高校時代の先輩で、時々動画制作を手伝っていた仲だと聞いている」

「私は二輪についてもう少し掘り下げてみようと思う。ひょっとしたら他の被害者とも繋がりが見つかるかも。本来の仕事もあるし、少し時間はかかるかもしれないけど」

「助かる。こればっかりはお前が頼りだ」
「そういう雨谷くんの方では何か分かったの?」

 玖瑠美が警察官としての立場で情報を収集している間、光賢はITジャーナリストとしての目線で【FUSCUS】についての調査を行っていた。知識、人脈共に、この分野の情報収集に関しては警察官の繭美を凌駕する。

「各方面から情報を収集したが、【FUSCUS】の開発元である【MEDIA NОX】について詳細を知る者は誰一人として見つからなかった。もちろん既存の企業や開発チームにも当てはまらない。このことから【FUSCUS】は個人製作の画像生成AIである線が濃厚だ」

「素人の私には、このクオリティは個人製作の域を越えているように思えるけど?」

「普段からこの分野を取材している俺も同意見だよ。だが、天才というのは存在するものだ。業界内では開発者の【MEDIA NОX】の正体ついて様々な憶測が飛び交っている。過去にも高性能AIを個人で開発して世界を驚かせた天才、ラーヒズヤ・バクシの名前がよく候補に挙がるが、【FUSCUS】が完全に日本国内向けの仕様であることから、俺は日本人プログラマー八起かずき深夜みやの関与を疑っている。【MEDIA NOX】は深夜しんやという意味だしな」

「何者なの?」

「十四歳でMITに合格した神童だ。情報工学に精通し、世界最高峰のプログラマーの一人とされている。フリーランスとして各地を渡り歩き、多くの重要なプロジェクトに関わってきた生ける伝説だが、ここ数年は表舞台から完全に姿を消している。極秘裏にどこかの国の巨大プロジェクトに関わっているとも、これまでに開発したプログラムで得た莫大な特許料で悠々自適な隠居生活を送っているとも言われている。それ自体が業界内ではちょっとした都市伝説だ」

「その八起深夜が、独自に【FUSCUS】の開発を行っていた可能性があると?」

「少なくとも、それだけの技術力と資金力を彼女は有している。現在は国内在住との噂もあるし、調べてみる価値はあると思う。彼女が無関係だったとしても、専門家としての立場から意見を仰げるかもしれない」

「私の方でも八起深夜の名前は覚えておく。被害者との間にも何か接点が見つかるかもしれないしね。何か彼女の人相が分かるものは?」

「直近だと4年前に雑誌のインタビューを受けた時の写真が残っているはずだ。画像を送るよ」

「直近で4年前なの?」

「ここ数年は表舞台から姿を消していると言っただろう。以前はSNSで一般のフォロワーとも気さくにやり取りしていたようだが、そのアカウントも3年程前に削除されている。どういった心境の変化かは分からないが、その頃から彼女は外界とのあらゆる接触を断っているようだな」

 険しい表情のまま、光賢はパソコンから繭美のスマホへと八起深夜の画像を転送した。

 画像の八起深夜は色白な肌とショートボブの黒髪が印象的な細身の女性で、印象的な大きな瞳には、見る者を捕らえて離さない、独特な引力のようなものが感じられた。何の根拠も存在しないが、現在も過去も未来さえも、この4年前の写真と変わらぬ存在感で彼女は存在し続けていると確信出来る。さながら現代に生きる魔女のように。

「左手の薬指に指輪をしてる。既婚者かしら?」
「どうだろうな。流石に私生活までは分からない」

 インタビューを受ける八起深夜は左手の薬指に、月桂樹をデザインに落とし込んで特徴的な指輪をはめていた。本人が過去に私生活を公表していない以上、指輪をはめている以上の情報はない。

「雨谷くん。全ての真相が明らかになった時、その中心に八起深夜がいたら、君はどうするつもり?」

 親友として、何よりも警察官として、これだけは確認しておかなければいけなかった。妹の死の真相を知りたいという兄としての感情は理解出来るが、その奥に潜む復讐心への懸念を排除しきれない。

 玖瑠美の死が完全にオカルトか何かだったなら別の可能性もあったかもしれないが、人為が介入していたとすれば、光賢は決して相手を許さないだろう。平時では解放されることのない攻撃性が開放される条件を、今の光賢は恐ろしい程に満たしている。

「真実が明らかになれば俺はそれで十分だよ」

 微笑む光賢に、繭美は何も言葉を返すことが出来なかった。
 光賢は復讐を躊躇わないだろう。いざという時は、自分が制御装置にならなくてはいけない。


第三話

第一話


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