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烏賊墨色ノ悪夢 第九話

 11月9日午後。

「虎落。ちゃんと休んでいるのか? 何だかやつれて見えるぞ」
「そう見えますか?」

 繭美は勤務する鈍山警察署の屋上で、先輩刑事の曲木まがき房一郎ふさいちろうと缶コーヒーを飲み交わしていた。繭美が先月から、仕事の傍ら別件で何かを調べていることは曲木も薄々気づいていた。優秀な繭美に限って妙なことにはならないだろうとこれまでは静観していたが、ここ数日は疲労感が目に見えている。流石に心配だ。

「例の女子大学生の転落死についてまだ調べてるのか? お前の知り合いらしいし、入れ込む気持ちも分かるが、あまり自分を追い込み過ぎるなよ」

「……この事件だけは、納得がいくまでとことん調べたいんです。そうでないと妹を喪った友人が取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。私は彼を救いたいんです」

 あまりにも非現実的な出来事が起きているため詳細は語れなかったが、繭美の根底にあるこの思いに偽りはない。一刻も早く真相を明らかにしないと、光賢を止めらなくなる。

「そんなに危ういのか?」
「少なくとも私にはそう見えます」

 繭美の意味深な言葉に、曲木は被害者の兄が思いつめて後追い自殺を考えている可能性を想像した。それなら友人を思って奔走する繭美の心情も理解が出来る。

「そこまで言うなら俺は何も言わないが、あまり一人で背負い込むなよ。何かあったらいつでも相談しろ。これでもお前の先輩だからな」
「ありがとうございます。曲木先輩」

 曲木がどういう想像をしたのか繭美も想像がついていたし、わざとそういう方向に誘導もした。先輩を騙すようで申し訳なく思うが、真相を語れぬ以上、今はそう解釈してもらった方が好都合だ。

 繭美は光賢が後追い自殺をする可能性など恐れてはいない。恐れているのは復讐の鬼と化した光賢が誰かの命を殺めてしまうことだ。そんなことを、先輩刑事の曲木に言えるはずがない。

「そういえばお子さんは元気ですか? 上の娘さんは中学生でしたよね」

 流れを変えようと繭美は新たな話題を投下する。曲木は子煩悩な一面があり、こういった話題には直ぐ乗ってくるはずだ。

「元気も元気だが、いよいよ反抗期突入かな。ちょっと前まではお父さんお父さんって俺にベッタリだったのに。最近は何だか素っ気ないし、すっかりスマホが恋人だし」

 丸まった背中と苦笑顔には哀愁が漂っている。今この瞬間、曲木は敏腕刑事でかなく、悩める一人の父親だった。

「お年頃ってやつですかね。イラストが趣味なんでしたっけ?」
「そうなんだけど、最近はどちらかというと画像生成って奴に夢中みたいだ。ほら、キーワードを入れるとAIが絵を描いてくれるってやつ」

 心臓を鷲掴みされような気がして、繭美は飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。

「お、おい。大丈夫か?」
「先輩。娘さんが使っている画像生成AIって、まさか【FUSCUS】じゃないでしょうね? セピア調のイラストじゃなかったですか?」
「きゅ、急にどうしたんだよ」
「大事なことなんです」

 血相を変えて詰め寄る繭美の尋常じゃない迫力に、経験豊富な刑事の曲木も思わずたじろんだ。

「違うと思う。カラフルなアニメ調のイラストだったし、俺もあまり詳しくはないが、確かテレビとかでも話題になった、有名な画像生成AIだったと思うぞ」
「そうですか。それなら良かった」

 繭美は安堵してコーヒーを飲み直した。背中には嫌な汗をかいている。

「その【FUSCUS】とかいう画像生成AIがどうかしたのか?」

「驚かせてすみません。友人のジャーナリストが以前、その【FUSCUS】にウイルス感染などの危険性があるって言っていたのを思い出してつい。危ないので【FUSCUS】だけは絶対に使わせないように注意しておいてください」

「あ、ああ。分かったよ」

 繭美の迫力に圧倒されたまま、曲木は頷いた。
 ウイルス感染という表現はあながち間違いではない。それはコンピューター的な意味ではなく、使用者の命に直結するという意味でだが。

 【FUSCUS】は今もインターネット上に存在し続ている。マイナーでアクセス数が多くないとしても、画像生成AIが市民権を得て、大勢の人々の注目を集めている現代においては、偶発的に新たに【FUSCUS】による被害者が出る可能性は排除しきれない。今回のやり取りで繭美はその危険性を改めて認識した。

 ※※※

「……もう、あまり猶予はないか」

 鈍山警察署での勤務を終えて自宅に戻った繭美は、シャワーを浴びながら頭の中を整理していた。これまでの経緯から、被害者が自らの死の瞬間を見てから死に至るまでの日数に規則性は無く、瞳子の身にもいつ危険が及んでもおかしくはない。
 
 曲木とのやり取りで、市井しせいの人々にも被害が拡大する危険性を実感した。もっと情報が出揃ってから行動を開始するつもりだったが、それは結局のところ、当事者ではない繭美の危機感の欠如に他ならなかった。

 瞳子が一連の事件と海棠美墨の関係性を指摘したことで、調査は一気に進展した。消息のつかめない八起深夜よりも、故人という形で記録に残っている海棠美墨の方が情報を集めやすかったからだ。

 2年前に病死した海棠美墨は、千葉県の房総ぼうそうにあるアトリエで亡くなっていたため、事件性を確認するため形式的に警察の捜査が入っていた。警察関係者のコネで当時の記録を入手し、アトリエの住所や家主として八起深夜が事情を聞かれていた旨を知ることが出来た。

 そこからさらに独自に調査を重ねた結果、このアトリエは今でも変わらず残されており、名義も八起深夜のままであることも判明している。二人がパートナー関係にあったことは明白で、アトリエは二人にとって愛の巣。最後の時を過ごした思い出の場所でもある。

 今も八起深夜がこのアトリエで生活していると考えるのは早計かもしれないが、亡くなったパートナーの画風を再現した画像生成AIを生み出した女だ。感情でその場所に留まっている可能性は十分に考えられると繭美を思った。訪問してみる価値はある。これは刑事の勘というよりも女の勘だった。

 八起深夜と接触したところで、何が出来るのかは分からない。AIが描いた絵の通りに人間が死ぬなんていう超常現象を法律で裁くことは出来ないし、警察官として八起深夜を逮捕することは難しい。仮に自供があったとしてもそれは変わらないだろう。

 一番現実的なのは八起深夜を説得し、画像生成AI【FUSCUS】を消させることだろうが、説得に応じなかった場合は、脅してでもそうさせる。ないしは物理的にサーバー等を破壊するしかない。八起深夜を法律で裁けない以上、それらの行動全ての責任が繭美に降り掛かる。懲戒処分は免れないだろうが、守りたい人を守るためならその覚悟は出来ている。

 海棠美墨のアトリエの住所は誰にも教えるつもりはない。明日の仕事終わりに一人で向かうつもりだ。光賢の手を汚させないためにも、彼よりも早く八起深夜に接触しなくてはいけない。

「雨谷くんのことは絶対に私が守るから」

 曇った浴室の鏡を手で拭う。反射する繭美の顔は浴室であることを加味してもかなり火照っていた。一人きりの時に光賢のことを考えているといつもこうだ。こんな状況下で女の顔をしている自分に繭美は嫌悪した。嫌悪したからといってこの感情に蓋が出来るわけではない。そんな自分をさらに嫌悪する。

「馬鹿みたい……」

 繭美は邪念を打ち消すように、シャワーの水圧を強めた。

 ※※※

土岐田ときたくん。来週末に予定していた廃墟でのロケだけど、あれはキャンセルすることにしたから」
『随分急ですね。使用許可や人員も揃えて、後は本番を迎えるだけだったのに。ミネさん自身が力を入れていた企画でしょうあれ。勿体なくないですか?』

 名古屋の自宅へと戻っていた峰行は、動画の撮影スタッフの土岐田に電話で、直近の撮影の中止を伝えていた。土岐田の言うように時間もお金もかけて準備を進めてきた企画だ。今からキャンセルとなれば一部の費用負担だけが残り、何の実入りもない。初期から峰行を支えてきた土岐田からすれば、彼らしくない選択というのが率直な感想だった。

「今追いかけているネタを優先したいんだ。ロケで拘束される時間が惜しい」
『確か、亡くなった【庭鰐】さんから引き継いだネタでしたっけ?』
「ああ。彼は友人として僕に最高の贈り物を残してくれたよ」

 電話越しの土岐田は反応に困る。【庭鰐】こと二輪和仁と峰行は学生時代の友人だと聞いていた。てっきり弔いのために真相究明を優先したいという話かと思ったが、その口振りは感傷的ではなく、むしろ舞い込んで来たビジネスチャンスを喜んでいるように思える。

『その、【鰐庭】さんのためですよね?』

「もちろんだよ。彼が命懸けで残した大きなネタだ。動画がバズってこそ彼も報われるというものだろう。詳細は改めて報告するけど、今回追っているネタは本当に凄いんだ。発表したら間違いなくこれまでの比じゃない再生数を叩き出すに違いない。これからもっと忙しくなるから、土岐田くんも覚悟しておいてくれ」

『わ、分かりました』

 内心でドン引きしながら、土岐田の方から通話を切った。表面上は友人の二輪を思うような言葉で装飾していたが、テンションが上がってきたのか、徐々に本音が透けて見えた。二輪のことはきっかけでしかなく、今の峰行は大きなネタと、それがもたらす反響で頭が一杯なのだ。

 準備していた廃墟ロケをキャンセルするのはらしくないと思っていたが、前言撤回だ。峰行はより大きな影響力と利益をもたらす可能性のある方向にシフトしただけ。それは実に峰行らしい判断だ。人として思うところがないわけではないが、土岐田とて峰行に使われている身。彼の指示に従い動画製作を手伝うまでだ。

「土岐田くん。何だか様子がおかしかったな」

 通話を終えた峰行は、感情の機微には気づいても、そのきっかけにまでは理解が及んでいなかった。

「和仁。君の死は決して無駄にしないからね」

 峰行が影響力のある動画投稿者ということもあり、繭美からも一連の出来事は動画などで発信しないようにと念を押されていたが、こんな面白いネタを放っておけるはずがない。

 全ての真相が明らかになった暁には、事の経緯や顛末をまとめた動画を投稿する予定だ。スペシャルサンクスとして和仁の名前も出す。登録者が頭打ちとなり限界を感じていた和仁の名前も、これで一躍有名となることだろう。これこそが友人に対する最高の供養になると峰行は信じて疑っていない。

 峰行はこれまでの経緯をレポートとしてまとめようとパソコンを立ち上げた。淡々と事実だけを述べてもエンターテイメント足り得ないので、要所要所で動画を盛り上げる演出も考えておかなくてはいけない。

「けっこう来てるな」

 不在の間にメールボックスにはいくつかメールが溜まっていた。スクロールして差し出し人と件名を流し見していくと、あるメールを見て峰行のスクロールがピタリと止まった。

「……MEDIA NOX」

 昨日の深夜に届いてたメールの差出人は【FUSCUS】の開発者と同じ【MEDIA NOX】という名前であった。さらに件名は「【FUSCUS】についての大事なお話し」となっている。

 峰行が現在【FUSCUS】について調べていることはアナウンスしておらず、詳細を知っているのは調査で知り合った光賢、繭美、瞳子の三人だけ。スタッフの土岐田ですら詳細までは知らない。

 第三者が悪戯でメールを寄越した可能性は限りなく低く、これは【FUSCUS】の開発者本人からのコンタクトと見て間違いないだろう。きっと自宅を発つ前にあ【FUSCUS】に入力したキーワードが、開発者の目に止まったのだ。

 流石の峰行も勢いそのままにメールを開封することはしなかった。人間を死に至らしめる画像生成AIを開発したような相手だ。メール一通にも何が仕込まれているか分からない。コンピューターウイルスで済めばまだマシだが、肉体的な死をもたらす仕掛けが同封されていても何ら不思議ではない。

「最高の展開じゃないか」

 躊躇したのはほんの一瞬で、峰行は送られてきた動画を開封した。このメールを機に、開発者と目される八起深夜ともやり取りが出来るかもしれない。真相に誰よりも早く近づけるかもしれない。峰行はリスク管理よりも好奇心に従順だった。

 いざ開封してみれば、怪しいファイルの添付やリンクも貼られておらず、丁寧な文面が連なっているだけのシンプルなメールだった。流石に緊張していたのだろう。峰行の額には汗が溜まっている。

『クリオネさん様。この度はご連絡を誠にありがとうございます。

 クリオネさん様のお人柄を評価し、当方としてましてはクリオネさん様からのあらゆるご質問にお応えする用意がございます。

 その上で当方からもクリオネさん様に対して一つのご提案が――』

 メールの文面に目を通した峰行は不敵な笑みを浮かべ、すぐさま【MEDIA NOX】へとメールの返信を書き始めた。

 ※※※

「……見えにくいな」

 自室の机で海棠美墨の画集を見ていた瞳子は、視界が悪くなる感覚に眩暈を覚えて目を伏せた。意識が遠のくとは感覚が異なる。まるで視界を物理的に塗り潰されているかのように感じた。

 日に日に体に覚える違和感は主張を強めている。少し前には耳に違和感があった。単なる耳鳴りというよりも、水泳の授業で水中にいる時のような感覚に近いだろうか。水音に似ているからか、時々安らぎを感じることもあるのだから不思議だ。

 これらの症状は亡くなる直前の段や、繭美から聞いたこれまでの被害者たちの様子と似通っている。【FUSCUS】の描いた死の未来がいよいよ近づいてきているのだと、瞳子は肌感覚で理解していた。

 目を閉じていると、唯一の肉親である父親の顔が浮かんだ。日本に一人で残した娘に生活費だけを渡して放任し、自身は異国の地で独身貴族のような奔放な生活を送る父。年齢の割に若く見える容姿と、枯れずに旺盛な性欲もそれに拍車をかけている。あの男は実の娘が命の危機に瀕してるとは夢にも思わず、今頃は恋人とのセックスにでも明け暮れているかもしれない。娘が死んだ時ぐらいは流石に帰国してくれるだろうか? そんな疑問を抱いてしまう程に烏丸家の親子関係は荒んでいる。

 目から違和感が消えた気がして、ゆっくりと目を空ける。視界は明るく、クリアにこの世界を捉えている。俯いていた顔を何気なく上げると。

「えっ?」

 起動前の真っ黒なPCモニターから覗く、大きな不気味な目と視線が交わる。瞳子はあまりの衝撃に身動ぎ、太腿の上に載せていた画集を落としてしまった。黒いモニターは何も反射せず、そのまま深淵に繋がっているのかのようだ。深淵には奥行きが感じられ、目の周りでは触手のような物が蠢いている。生前の段が言っていた「怪物」という言葉の意味を、瞳子は目に見えて理解した。

 恐怖に悲鳴を上げる間もなく、今度は激しい耳鳴りが襲い掛かり、瞳子は苦悶の表情を浮かべる。このまま脳を破壊されてしまうかもしれない。恐怖に体が硬直した。

『助かりたい?』
「えっ?」

 耳鳴りは次第に、澄んだ女性の声へと変化した。

『描き足して。あなたにはそれが出来る』

 その言葉を最後に女性の声は耳から去り、PC画面を支配していた恐ろしい怪物もいつの間にか姿を消していた。黒い画面が困惑気味に目を見開いている瞳子の姿を反射している。

「美墨先生?」

 海棠美墨とは一度も会ったことがないし、音声メディアへの出演はなく、肉声も残されていない。それなのに今の声は海棠美墨だという確信が瞳子にはあった。

 パソコンを立ち上げ、直ぐに画像ファイルの【未来の私】を開く。虚空を見上げ、胸から血を流し大の字で倒れる、セピア調で描かれた瞳子の死相。このような危機的状況にあっても、その絵はとても美しく感じられた。この絵に自分のような若輩者が筆を描き足すなど、烏滸おこがましいと思ってしまう。

 だがそれ以上に、内から湧き上がる創作意欲を瞳子は抑えきれなかった。あの声を聞いてから、今までにないぐらい思考がクリアになっている。自分はこの世の全てを理解しているという、全能感さえも備わっている気がした。筆を執るなら今しかない。これまでの自分を超える最高傑作が生みだせる。

 瞳子はパソコンと保存されていた【未来の私】の画像を、イラスト用の描画ツールへと取り込んだ。本当はキャンバスに伸び伸びと描画したいが、デジタルデータに描き加えるならばこれが最適だ。

「絵を描くのって、やっぱり楽しいな」

 命の危機など微塵も感じさせず、瞳子は純粋に創作活動を楽しんでいた。鼻歌交じりにペンタブレットを動かしていき、【FUSCUS】が描いた【未来の私】に独自の解釈を描き加え、新たな芸術作品へと仕上げていく。


第十話

第一話


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