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烏賊墨色ノ悪夢 第十話

 11月10日。

「くそっ! 八起深夜はいったいどこにいる」

 進展しない状況に苛立ち、光賢は都内のコンビニの駐車場に止めた車の運転席で、飲み干したペットボトルを感情的に握り潰した。直前まで生前の海棠美墨と交流があったという画廊の主人から話しを聞いていたのだが、八起深夜の所在に関する有力な情報を得ることは出来なかった。

 ここ数日は、一向に足取りの追えない八起深夜に代わり、彼女のパートナーだった海棠美墨に焦点を当てて調べてきた。

 近年、デジタルアートの分野は目覚ましい成長を遂げている。データを複製や改ざんから防ぐNFT(非代替製トークン)の登場により、作品に唯一無二の価値が保証されるようになったためだ。

 これによってITの分野とアートの分野との距離が縮まり、光賢も業界の人脈を辿ることで、ある程度は海棠美墨に関する情報を得ることには成功していた。

 しかし、晩年は関係者とも距離を置いていたようで、体調を崩す前に利用していた住所やアトリエはすでに引き払われて、現在は無関係の第三者の手に渡っている。晩年をどこで過ごしていたのかは、今日に至るまで判明していない。

 刑事としての立場で繭美も情報を集めてくれているが、今のところは海棠美墨がどこで亡くなったのかも分からないとのこと。手詰まりな状況に光賢は焦燥感を強めている。

 この後は海棠美墨の出身校を訪ねて、勤務を続けている彼女の恩師に話しを聞く予定になっているが、有力な情報はやはり望み薄だろう。

「小栗峰行? そういえば連絡先は交換したんだったか」

 車を発進させようかと思った直前、光賢のスマホに峰行から電話がかかってきた。彼と連絡を取るのは初めてで、連絡先は交換したことさえも忘れていた。

「はい。雨谷」
『小栗です。少しお時間よろしいですか?』
「君から連絡を貰うのは初めてだな。予定が控えているから手短に頼む」

『あれから僕なりに八起深夜と海棠美墨について調べてみたんですが、海棠美墨の自宅兼アトリエと思われる場所についての情報提供を受けましてね。小栗さんにもお伝えしておこうかと。僕は今、名古屋の自宅で直ぐには動けませんから』

「どうせ墨田区の物件だろう。あそこならとっくに引き払われて今は別の――」
「いいえ。今回僕が知ったのは千葉の房総にある海辺の屋敷ですよ。海棠美墨の目撃証言があったのは2年と半年前ですから、亡くなる直前までそこにいたんじゃないですかね」
「何だと?」

 光賢の声は興奮気味に裏返った。光賢が把握している海棠美墨の最新の所在は、三年年と少し前まで生活していた墨田区の物件だけだった。

「お前どこからそんな情報を」

「登録者数50万人越えの動画クリエイターを舐めないでください。詳細は伏せましたけど、一声情報提供を求めればこんなものです。ちなみにその屋敷、今でも人が住んでいる気配があるみたいですよ」

「八起深夜か?」
『流石にそこまでは僕も分かりかねますが、海棠美墨の関係者であることは間違いないでしょう』
「俺のスマホに住所を送ってくれ」
『今から向かうつもりですか? 虎落さんに相談は? 刑事さんも一緒の方がいいですって』
「俺から連絡しておくから心配するな。この通話が終わったら住所を送れ。いいな?」
『分かりました。気をつけてくださいね』

 通話を終えると、峰行は言われた通りに、直ぐにメッセージアプリで光賢に件の住所を送ってくれた。

「玖瑠美。絶対にお前の仇を取ってやるからな」

 車をコンビニの駐車場から発車させる直前、光賢は覚悟の据わった目でダッシュボードをそっと撫でた。いつでも仇敵と対峙出来るに常に準備はしてある。

 ※※※

「言われた通りにしましたよっと」

 光賢に海棠美墨の住所を送った直後。峰行は上機嫌に【MEDIA NOX】宛てにメールを送信した。

『ご指示通り、雨谷光賢にアトリエの住所を教えました。直にそちらに到着することでしょう。約束通り、そちら側の持っている情報を頂けますか?』

 ものの数秒で【MEDIA NOX】から返信が届いた。

『クリオネさん様。ご協力に感謝申し上げます。お約束通り、これまでの我々の活動を記したファイルをあなた様へ進呈いたします』

 峰行は添付ファイルをクリックした。

「これは凄い……関係者から知らない内部情報がびっしりだ。これで動画がもっと充実する! 大ヒット間違いなしだ!」

 歓喜の声を上げて、峰行は自室で一人孤独に飛び跳ねた。

 ※※※

「完成したー!」

 光賢が房総へ向かっている頃。瞳子は自室の机で【未来の私】の画像への描き加えを完成させていた。昨日の午後から、侵食も忘れて丸一日以上も作業に没頭していた。目には隈が目立つし、行き詰まる度に掻き乱した髪もボサボサだったが、表情だけはとても活き活きとしている。

 死の運命を自らの手で描き変えたという実感と同時に、何よりも一つの素晴らしい芸術作品を生み出したという達成感で胸が満ち溢れていた。早くこの絵をお披露目したくて仕方がない。

「もしもし雪菜。急なんだけど今日うちに来れない? 雪菜に見せたいものがあって」

 命の危機から脱した。そのことを真っ先に伝える相手は親友の雪菜であるべきだ。瞳子は早速雪菜に電話をかけた。

『一時間もすれば行けると思う。見せたい物って?』
「詳しくは会ってから話すけど、助かる方法が見つかったの」
『本当に! 良かった……瞳子に何かあったらと思うと夜も寝られなくて……なるべく早く行くから待っててね!』

 電話越しの雪菜は半泣きだった。瞳子が助かる。これ程嬉しいことはない。

「うん。また後でね。心配してくれてありがとう、雪菜」

 瞳子は通話を終えると同時に大きく伸びをした。丸一日机に向かっていたため、体のあちこちが凝り固まってる。

「髪もボサボサだし、待っている間にお風呂でも入ろうっと」

 今のまま親友を出迎えるわけにはいかない。瞳子は疲労を感じさせない軽い足取りで脱衣所へと向かっていく。

「ふふふっ。あなたも何だか嬉しそうね」

 脱衣所で部屋着を脱いで下着姿となった瞳子は鏡に映る自分に微笑みかけた。否、微笑みかけた相手は自分ではない。その後ろの深淵からこちらを覗き込んでいる目に対してだ。作業中、幾度となく黒い画面に出現する目と見つめ合うことで分かった。この眼は決して恐れるような存在ではないのだと。

 深淵から触手が伸びてきて瞳子の肌を撫でる。鏡越しにしかその姿は確認出来ないが、肌には確かに何かに触れられた感覚が残されている。

「もうすぐだよ。もうすぐで全てが終わり、そして始まるから」

 深淵の目とアイコンタクトを交わすと、瞳子は下着を脱いで浴室へと入っていった。

 ※※※

 鈍山警察署での勤務を終えた繭美は、車を取りに一度自宅へと戻っていた。動きやすいように服装も、スーツからパーカーとストレッチの利いたデニムへと着替えている。今から房総のアトリエへ向かえば夜までには到着出来るはずだ。

「雨谷くんから?」

 車に乗り込んだタイミングで光賢から電話がかかって来た。最近は日に何度も調査の進展を尋ねてくるので、今回もそういう電話だろうと少しゆったりと構えていた。

「もしもし雨谷くん。悪いけど目ぼしい情報は」
『八起深夜の居場所を突き止めたよ。あいつは今も、海棠美墨が息を引き取った房総のアトリエで暮らしている。虎落にも伝えておこうと思って』

 青天の霹靂へきれきだった。光賢には決して伝えなかった情報をどうして知っているのか。

「それは収穫だね。これから会えない? アトリエに向かうなら二人で一緒に向かいましょう」

 繭美は動揺を押し留め、冷静に、一緒に行動する方向に話を誘導する。どうやって光賢がアトリエの住所を知ったかは分からないが、知っただけならまだいくらでも対処出来る。刑事であり親友である繭美が一緒ならば、光賢だっていきなり早まった真似はしないはずだ。

『悪いがそれは無理だ』
「どういう意味よそれ?」

 ※※※

「もう到着して。八起深夜と対面したところだ」

 房総にある海辺のアトリエに到着した光賢は八起深夜に通され、応接室のソファーに腰掛けていた。その右手にはナイフが握られている。テーブルを挟んで向かい合う深夜は、白いブラウスに濃紺のデニムを着用しており、長い脚を組んで椅子に座っていた。光賢に微笑みかけながらコーヒーを楽しむ姿に緊迫感は皆無で、さながら優雅な休日のようである。

『どうして私に相談もなくそんな真似を』
「虎落はきっと俺を止めるだろ。お前は正義の人だからな。また迷惑をかけるが、後のことは頼んだぞ」
『ふざけないでよ雨谷く――』

 光賢は繭美との通話を一方的に切り、スマホの電源も落とした。都内にいる繭美が今から房総にあるアトリエに急行しても二時間近くはかかる。その頃には全てに決着がついているはずだ。

「待たせて悪かったな」
「気にしないで。それよりも、冷めないうちにあなたもどう? もちろんナイフは握ったままでもけっこうよ」

 コーヒーカップは来客である光賢の分も用意されていた。深夜は純粋なおもてなしとして光賢にコーヒーを勧めている。

「せっかくだが遠慮しておく。敵に出された物においそれと手は出せない」
「私がこの世界で三番目に好きなものはコーヒーなのよ。毒なんて盛ったらコーヒーへの侮辱よ」

 そう言って深夜は、光賢のコーヒーに口をつけてみせた。深夜の様子に異常はない。毒が盛られていないのは事実のようだが、そうでなくとも妹の仇から出されたコーヒーを飲む気が起きるはずもなかった。

「三番目ね。一番目と二番目は?」
「一番は美墨。二番目は研究」

 海棠美墨の名前が出た途端。光賢はピクリと眉根を寄せた。

「弁明の機会ぐらいは与えてやる。一体何が起きているのか教えてもらおうか?」

 最愛の妹がなぜ死ななくてはいけなかった。どういった経緯で死んだのか。遺族として真相を知りたいと思う気持ちが、ギリギリのところで光賢の復讐心を抑え込んでいた。一線はまだ踏み越えてはいない。

「あなたはジャーナリストだったわね。取材だと思って、質問には何でも答えさせてもらうわ」

 光賢の復讐心は当然察しているはずだが、深夜はそれこそ取材でも受けるかのような余裕を見せている。

「取材というのなら、録音させてもらうぞ?」
「ご自由に」

 光賢は取材用のボイスレコーダーを取り出し、録音を開始した。

「そもそも【FUSCUS】とは何だ。どうして海棠美墨の作風に酷似している?」

「【FUSCUS】は単なる画像生成AIじゃない。それはほんの一面に過ぎないの。【FUSCUS】とは亡くなった美墨の人格や作風、人生の全てをプログラミングすることで生まれた、電脳世界に転生した海棠美墨そのものなのよ」

「転生とは大きく出たな。所詮それは海棠美墨の模造品だろう。例え電子の世界であろうとも、死んだ人間を蘇らせるなんて不可能だ」

「電脳世界でなら、私は創造神にだってなれる」
「……世迷言を」

「可愛い反応。あなたも本心では可能性を捨てきれないんでしょう。八起深夜ならやりかねないとね」

 図星だった。ITジャーナリストとして八起深夜の過去の功績を知っているからこそ、彼女に神話を想像してしまう自分が少なからず存在している。

「からかってごめんなさい。創造神はおごりが過ぎたわ。【FUSCUS】を開発したのは確かに私だけど、流石の私でも自分一人でゼロから【FUSCUS】創造することは出来なかった。開発に漕ぎつけたきっかけは天啓てんけいとしか言いようがない」

「天啓か。電脳の申し子とは思えないな発言だな」
「かつての私もそう思っていたわ。だけどね……天啓としてか言いようのない劇的な変化が起きたのよ」

 天啓という言葉を言い淀む深夜の姿は、ある意味で人間らしかった。彼女はその言葉が嫌いなのだ。あらゆるプログラムに精通し、ソースコードを何よりも信じる彼女にとって、降ってわいた天啓による進化は己に対する敗北。決して許容できるものではない。

「順を追って説明しましょう。【FUSCUS】の開発計画は美墨が生きている頃に始まった。きっかけは美墨に病気が見つかったことよ。発見時にはすでに手の施しようがない状態で、美墨は余命一年を宣告された……美墨は死に怯えていたわ」

「若く、あまりにも突然の出来事だ。それも当然だな」

「美墨を知ったような口を利かないで。美墨が死を恐れた理由は肉体的な恐怖じゃない。大好きな絵を続けられなくなることが彼女にとっては一番の恐怖だった。あの子はどこまでも芸術家なの」

「例え肉体が失われたとしても、それでも絵を描き続けるためにAIの開発に?」

「最初にそれを望んだのは美墨だった。ベッドの中で彼女は私に言ったの。約束を守ってって。出会ったばかりの頃に美墨に約束したのよ。『美墨がずっと絵を描き続けられるように私が支える』とね。私は美墨の願いを叶えてあげたかったの」

「死にゆく人間をAIとして生かすなんて狂気の沙汰だ」

「愛する者を思えば何だって出来る。亡くなった妹のためにナイフを持ち出したあなたに私の狂気を否定する権利があるの?」

「玖瑠美を殺したお前が何を言う!」

 憤怒ふんどに駆られ、光賢は左手で深夜のブラウスの胸ぐらを掴み上げ、ナイフを握る右手に力を込めた。

「今この場で私を刺し殺すのは簡単よ。だけどその瞬間あなたは、何があなたの妹を殺したのかを知る機会を永遠に喪失する。私を殺すなら全てを知ってからでも遅くはないでしょう」

「お前が殺したんだだろう!」
「否定はしない。それがあなたの選択ならお好きにどうぞ」

 追い詰めているのは光賢の方のはずなのに、深夜の覚悟の据わった瞳から視線を逸らすことが出来なかった。正義は自分の中にあるはずなのに、感情だけで刃を振り下ろせない。

「……続けろ」

 光賢は一時的に矛を収めた。深夜を絶対に許すことは出来ないが、彼女のいうように裁きを与えるのは全てを知った後でも遅くはない。

「乱暴さんね」

 深夜は乱れたブラウスの前を整えていくが、掴まれた時にボタンが二つ千切れてしまい、胸元が露わになっていた。

第十一話

第一話


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