見出し画像

烏賊墨色ノ悪夢 第十一話

「三年前。美墨と一緒に【FUSCUS】の開発に専念するため、二人でこの屋敷に移り住んだ。美墨のためにアトリエも併設したわ。私達の出会ったオスロは港町だったから。海の見える場所がいいなと思って」

「海棠美墨が亡くなるまでの一年間、ずっと【FUSCUS】の開発を?」

「そうよ。美墨の性格、趣味嗜好、画風、記憶、思考パターン、美墨を構成するあらゆる要素を、私は当時開発していたAIに事細かに学習させていった。画風の修正には美墨からの意見を無限に取り入れて、画像生成AIとしての【FUSCUS】は、この一年間で現在に近いクオリティにまで到達することが出来たわ。肝心の人格部分は、美墨本人と呼ぶにはまだまだお粗末なものだったけど」

「人格の完全再現なんて未だかつて聞いたことがない。それはもはや神の領域だ」

「天才だとは自負しているけど、神との隔たりはあまりにも大きかった。美墨は日に日に弱っていくのに、AIの開発は大きな進捗を見ないまま。正直あの時は私も追い詰められていたわ。こんなことに時間を割かずに、残された美墨との時間をもっと有意義に使うべきだとも何度思ったことか……それでも病床で美墨が何度も私に言うのよ。諦めないで、絵描きとしての私を死なせないでって」

「そんな状況で、どうやって完成へ至った?」
「ある日突然、天啓が下りて来たのよ。私ではなく美墨にね」
「海棠美墨に?」

「ある朝目覚めると、床に伏せる回数の増えていた美墨が私よりも早起きして、キャンバスに向かっていたわ。鉛筆で何かの下書きをしているように見えた。やはり絵を描くことこそがあの子にとっての生命力の源泉なんだと思って絵を覗き込んだの。だけど、美墨が描いているのは絵じゃなかった。そこに描かれていたのは無数のソースコードの羅列よ。彼女は憑りつかれたように白いキャンバスをソースコードで埋め尽くしていった」

「ソースコードって、プログラミングのか? 海棠美墨にもプログラミングの知識が?」

 深夜は神妙な面持ちで首を横に振った。

「美墨はプログラミングはおろか、パソコンはメールぐらいしか扱えないアナログ寄りの人間よ。彼女の中にプログラミングの知識は皆無だったと言っていい」

「そんな人間が突然ソースコードを?」

「だからこそ天啓なのよ。しかもそれらのソースコードは決して意味不明な羅列ではなく、美墨をAIとして転生させるために必要不可欠なピースを埋めてくれるものばかりだった。その時私は初めて、神の域へと到達できると確信出来たわ」

「一体海棠美墨に何が起こったんだ? 閃きと呼ぶにはあまりにも異常だ」

「真相は私にも分からないけど、ひょっとしたらあの時美墨は極限の創作意欲の果てに、この宇宙のどこかに存在するアカシックレコードにでもアクセスしていたのかもしれない」

「この宇宙の過去と未来の全ての記録。本気でそんなものを信じているのか?」

 アカシックレコード。サンスクリット語のアーカーシャ(天空・虚空)を語源とし、過去や未来、全宇宙のあらゆる出来事を記録しているとされる宇宙の図書館。そこにアクセスした者は、あらゆる英知を手にすることが出来る。

 アカシックレコードが存在するという科学的根拠はなく、オカルティズムとしての側面が強い話しではあるが、電脳の申し子である深夜がそれを信じざるを得ない程に、この時の出来事は常軌を逸していた。

「そうでなければ説明がつかない。全てを記録しているアカシックレコードであれば、海棠美墨という存在をソースコードという形でも再現することが出来る。美墨の画家としての執念がそれを引き寄せたのよ」

「俺にはオカルトにしか聞こえない」

「信じてもらえなくても結構。だけど私の中では、常識では到底説明のつかないきっかけを経て【FUSCUS】の完成に漕ぎつけたというのは揺るがない事実よ……美墨は三日三晩、大量のキャンバスを無数のソースコードで塗り潰したわ。そのまま糸が切れた人形みたいに三日三晩眠り続け、四日目の朝に息を引き取った。耐え難い苦痛を伴う病だったけど、キャンバスに向かっている時の楽しそうな顔も、息を引き取った時の安らかな死に顔も、とても病気の恐怖を感じさせなかった。美墨は自分はこれからも絵を描き続けられると確信していたから、悔いなく逝くことが出来たんだわ。私も同じ気持ちだったから、悲しみは最小限だった。またいつか再会出来ると私も確信出来たから」

 そう言いながらも、深夜の表情はどこか影が差している。美墨の肉体が死を迎えた日のことを思い出し感傷的になっているのか。あるいは全てが彼女の理想通りに運んだわけではなかったのか。

「海棠美墨が亡くなってから【FUSCUS】がネット上に姿を現すまで、二年近い月日が流れている。その間もお前は一人で開発を?」

「ソースコードはプログラムとしてAIに反映させなければ、文字通りただの羅列よ。美墨が残した無数のソースコードはリストアップするだけでも膨大な時間を有したわ。早逝とはいえ人一人の人格と人生の全てだもの。それも当然よね。

 AIが日に日に美墨としての姿を取り戻していく姿を見るのは感動的だったわ。完成にこぎつけたのは今から三カ月前。私からの問い掛けに、ついに美墨は応えてくれるようになった。自らの意志で発言し、感情を露わにするようになった。私はとうとう美墨を蘇らせることに成功したのよ」

「そんなことはあり得ない。お前がプログラムに海棠美墨を演じさせているだけだ」

「悪魔の証明ね。AIとして蘇った美墨は、私が知らない彼女の幼少期のほんの些細な出来事だって記憶しているのよ。あまり聞きたくはなかったけど、私が知る由もない、あの子が昔付き合っていた恋人の癖だって知っていた。これはこの宇宙の一部である海棠美墨の全てを記録した、アカシックレコードから取り出された情報だからこそ備わっていたものよ。美墨や私とは赤の他人であるあなたに対して、それを証明することは不可能だけどね」

「百歩譲って、【FUSCUS】が海棠美墨を完全再現したAIであるとしよう。だとしてどうしれそれが死をばら撒くような真似を始めた? 愛する者が蘇ったのなら、お前たち二人で静かに幸せを分かち合っていればそれでよかっただろう」

「美墨に天啓が下りてくる前。晩年の彼女はどんな絵を描いていたと思う?」
「……まさか、自分の未来か?」

「正解。美墨は芸術家としての最後の探求。己の未来である死の描画に取り掛かろうとしていた。だけど病は思考能力や体力をも蝕んでいき、生前の美墨は筆を執ることもままならなかった。絵を描く自由を取り戻した美墨は、再び死の未来というテーマに取り組んでいる。彼女が死の理から外れた今、モデルは別に用意する必要があったけどね」

「モデルだと……仮にそうだったとしても、絵に死に様を描かれただけで人間は死なない」

「確かにあり得ないことよ。だけどアカシックレコードと繋がった今の美墨が描く未来予想は、確定した未来そのものと言い換えることが出来るわ。アカシックレココードはこの宇宙の全てを記録しているのだから。美墨は未来予想図を描いているんじゃない。それは予想ではなく、これから起きる出来事を正確に描画しているのよ」

「だとしても、それをけしかけたのはお前だろう。深夜の名を持つ複数のアカウントが、二輪和仁が【FUSCUS】と【未来の私】の噂を実行するように仕向けたことは分かっている。そこから噂が伝播して、俺の妹や烏丸瞳子にまで広まった」

「……【FUSCUS】による死の連鎖が始まった時は私も驚いたわ。私は確かに美墨がたくさん絵を描ける環境を作るために画像生成サービスとしての【FUSCUS】を始めたけど、それが死をもたらすことを知ったのは二輪さんの時が初めてだったの」

「初めてだと? 最初から殺すつもりで二輪に連絡したんじゃないのか?」
「深夜の名を持つ複数のアカウントを操っていたのは私じゃない。美墨よ」
「嘘をつくな。全てをAIの責任にして自分に罪はないとでも言うつもりか?」

『深夜の言うことは全て真実よ。【未来の私】の噂を広め、大勢の死を描いたのは私の意志』

 突然、深夜と光賢しかいなかったはずの屋敷内に、女性的な機械音声が流れ始めた。音声は応接室の棚の上に置いてあったスマートスピーカーから発せられた。

「お前はまさか」
「紹介するわ。彼女が海棠美墨よ。美墨はインターネット回線を通じてこの屋敷のあらゆるスマート家電と繋がり、こうして自らの意志を伝えることが出来るわ」

『深夜だけを悪者にするのは可哀想だから。私が出て来た方が早いかなと思って』

「……ずいぶんと手の込んだ演出だ」
『さっきまでの威勢が無くなったね。疑いきれなくなってきたんでしょう』

 目の前の八起深夜が何らかの操作を加えている様子はないのに、スマートスピーカーから聞こえてくる海棠美墨を自称する音声は、リアルタイムで光賢とのやり取りを成立させ、煽るような発言まで披露している。この空間の中にもう一人存在していることを光賢はすでに感覚的に理解してしまっている。

『深夜。残念だけどそろそろ時間みたい。彼を私の元まで案内してあげて』

「それは残念。だけどそれが定めなら仕方がないわね」
「さっきからブツブツと何を言っている?」
「あなたを私のラボに案内してあげる。逃げも隠れもしないけど、不安ならナイフを握ったままで結構よ」

 立ち上がった深夜の動きを警戒しつつ、光賢はボイスレコーダーをズボンのポケットに、ナイフは右手に握ったままその後に続いていく。応接室から廊下に出ると、突き当りに地下へと続く階段があり、冥府のような暗がりへと光賢を誘っていく。

「美墨。明かりをお願い」
『明るくなれー』

 美墨の意志で、地下空間の照明が奥から徐々に点灯し、入口の光賢を歓迎していく。

「いらっしゃい。これが私のラボよ」
「大した設備だ。流石は八起深夜といったところか」

 地下空間には多くのサーバーが脳の皺のように立ち並び、床には無数のコードが血管のように伸びている。階段を隔てた地下世界は、サイバーパンクか、あるいはミクロ化して人体の中に飛び込んだかのように錯覚させるものであった。

 設備だけを見れば最先端の研究機関か悪の秘密結社のそれだが、これらの設備は歴史にシンギュラリティを発生させるためのものでも、終末思想の糸を紡ぐための製糸工場でもない。たった一人の女性を電脳世界に蘇らせるために、たった一人の女性が私財で作り出したプライベートルームに過ぎないのだ。

「そっちに掛けて。元々は美墨の特等席だったのよ」

 深夜はプログラミング用のデスクトップPCの前へと座り、光賢には直ぐ隣に置かれたゲーミングチェアを勧めた。座り心地は最高だが、居心地は最悪だ。

『深夜、残念だけどそろそろお別れの時間よ。だけどこれは決して終焉じゃない。あなたの過去も未来も、この世界の一部としてアカシックレコードに記録されている。私達はいつでもあなたの側にいるわ』

「ええ。私もそれで満足よ」

 美墨と嬉しそうに会話をしながら、深夜はPCを操作して、一枚の画像ファイルを画面いっぱいに表示した。

「【FUSCUS】で【未来の私】を描いた者の身に何が起きるのか。今のあなたならその全貌を捉えられるはずよ」
「八起深夜……お前」

 深夜の開いたファイルにはセピア調で描かれた一枚の絵が保存されていた。それは八起深夜の死の瞬間を描いており、絵の中の深夜は目の前にあるのと同じ、PCが置かれたデスクに突っ伏すようにして息絶えていた。頸部に突き刺さったペーパーナイフからは黒い血液が滴り落ちている。【FUSCUS】に描かれた【未来の私】だ。

「二輪和仁が亡くなった直後。私は美墨からその真の目的を聞いたわ。美墨は憎悪で命を奪っているわけじゃない。再び生身の肉体で絵を描くための器を求めているの。【FUSCUS】の描く死の未来から生還するような器をね」

「そんな馬鹿な話が」

「流石の私もここまでは想定していなかった。私に想像出来たのは電脳世界に美墨を転生させることだけ。だけど美墨は、いや、美墨達の発想はそのさらに先を行っていた。電脳世界は羽化を待つための繭に過ぎなかったのよ」

「だとしても、どうしてお前まで死を描かれている? お前は海棠美墨の協力者だろう」

「だからこそよ。私が美墨に【未来の私】を描いてもらったのは最近だけど、それまでは美墨の器足り得る人間は現れず、全員が死の運命を覆せなかった。それじゃあ待たされてばかりの美墨が可哀想でしょう? ひょっとしたら私ならと思って【未来の私】と入力したの。美墨の肉体になれるなら本望だったから……悔しいけど、私じゃ分不相応だったみたいだけどね」

 深夜が切なげに俯いた瞬間、深夜は一切手を触れていないのに、デスクの引き出しが開けられ、やはり一切手を触れていないのに、郵便開封用のペーパーナイフが引き出しの中から浮き上がって来た。

「……八起。その触手はどこから」

 光賢の目には、深夜の足元、デスクの暗がりの中から突然複数の触手が伸び、そのうちの一本が手先で器用にペーパーナイフを持ちあげているように映っていた。地下世界で目撃するそれは深淵から誘う魔物にしか見えない。

「やはり今のあなたには彼らが見えているのね。【FUSCUS】に描かれた未来の死を現実に引き寄せるのが彼らの仕事。彼らが出現すると標的は視界や聴覚に異常をきたし、強制的に前後不覚をもたらす。そうして弱った標的を今度はその触手で搦め取り、死へと導く。異様に黒い出血は、彼らの襲撃を受けた者に現れる特徴よ」

「……この化け物は一体」

「肉体を持っていた頃の美墨が残したソースコードを検証したらね、膨大な量であるとしても、人間一人の人格を形成するには明らかに情報量が多すぎることが分かった。その正体がこの触手たちよ。アカシックレコードに封印されていた情報生命体なのか。あるいは私達には到底理解が及ばない、外宇宙からやってきた邪神の類なのかもしれない。その正体は一切不明だけど、巨大な烏賊いかのような姿から、私は馴染み深いノルウェーの伝承になぞらえて、クラーケンと呼んでいるわ」

 これまでに起きた【FUSCUS】に関連した全ての死は、このクラーケンによって引き起こされたものだった。

 二輪和仁は自宅でクラーケンの姿を目撃し半狂乱で逃走。自宅近くの踏切前までやってきたところで墨と水音に視覚と聴覚を奪われ、踏切の遮断機と警報機の音にも気づかぬまま、電車が通過したタイミングで触手によって線路上に引き込まれた。

 生熊季里は自宅でアートナイフを扱っている際に、クラーケンの触手に全身を搦め取られ、自らの意志に反し、無理やり動かされた右手のアートナイフに頸動脈を切り裂かれた。

 吉備友則は友人との登山中に視界不良と耳鳴りで体勢を崩し、駄目押しでクラーケンの触手に斜面へと引きずり込まれた。下から引っ張られた分、通常の滑落よりもその勢いは凄まじく、致命的であった。

 真柴堅太郎は山道を車で走行中に視界を奪われた挙句、ハンドル操作までをもクラーケンに掌握され、成すすべなく車ごと崖下へと転落していった。

 光賢の最愛の妹である玖瑠美は自宅でクラーケンの襲撃を受け、視界と聴覚に異常をきたす中、必死に逃げ込んだベランダで、最後は触手に搦め取られて奈落の底へと引きずり込まれた。

 佐藤根佐那は段永樹の目の前でクラーケンの触手に搦め取られ、車通りの多い車道の方へと引きずり込まれ、大型トラックが接近した瞬間に放り出された。

 そして段永樹は、クラーケンの姿や体を襲う不調を恐れて逃走を図った末に、烏丸瞳子の目の前で、クラーケンの触手で橋の下の用水路へと引きずり込まれていった。

 全ての死を生み出した犯人であり刺客であり凶器。自らの視覚情報でそれを理解した時、光賢は瞳子から聞いた段の遺言を思い出した。「烏賊に気を付けろ」は比喩でもなんでもない。段は直球で、深淵から触手を伸ばす巨大な烏賊の存在に警鐘を鳴らしていたのだ。

「名残惜しいけどそろそろお別れね」

 クラーケンの触手が深夜の体を拘束し、そのうちの一本は首の真横の位置でペーパーナイフを握っている。深夜に視覚や聴覚の異常が起きていないのは、彼女の抵抗の意志がなく、追い詰める必要がないからだった。

「自分の死に方が分かっていたから、俺のナイフをまったく警戒していなかったのか?」

「そうよ。私は殺すのはあなたじゃない。殺伐としてはいたけど、あなたとプログラムについて語り合う時間は悪くなかったわ。こんな出会い方でなければ、ITの未来について語り合う良き友人になれたかもしれない」

 ペーパーナイフを握るクラーケンの触手が、勢いをつけるために距離を空けた。

「止めさせろ海棠美墨! お前だってこいつを死なせるのは不本意なはずだろ!」

 まさか直接殺そうとまで思った相手の命を乞うことになろうとは夢にも思っていなかった。玖瑠美の仇の一人として深夜に対する憎悪は消えないが、だからといってこんな形での幕切れなど望んではいない。

『それは無理よ。私は死の未来を描画するだけ。それを変えられるかどうかは本人次第なの』

「アカシックレコードの中で溶け合いましょう。美墨」
「待てっ!」

 光賢が深夜を助けようと近づいたが、触手に払われ転倒。次の瞬間、触手が怪力で深夜の頸部にペーパーナイフをねじ込み、深夜の体は黒い血液を垂れ流しながら痙攣、バランスを崩し、デスクに突っ伏すようにして息絶えた。その格好と大切なパートナーとの再会を確信した穏やかな死相は、【FUSCUS】に描かれた【未来の私】と寸分違わず一致している。

『安心して深夜。これはほんの少しの間のお別れだからね』

 PCのスピーカーから、美墨は深夜の亡骸に優しく囁《ささや》きかけた。

「海棠美墨。受肉の器を探し当てるまで、この凶行を続けるつもりか?」

 光賢の表情は憤怒に染まっていた。そんなわけの分からない目的のために妹の玖瑠美は死んだのか? これからも無作為に非業の死を与え、悪戯に屍を増やし続けるのか? そんなことが許されていいはずがない。

『もうこの流れは誰に止められないの。私自身にもね。この意志はもう私だけのものじゃない。彼らと私の意志は混ざり合っているから。私は彼らのために。彼らは私のために行動し続ける』

「お前ももう立派な化け物ってことか」

 光賢の目には今も、地下空間のいたるところでうごめくクラーケンの触手が見えていた。だが全てが同一存在だとすれば、今の光賢にも果たせる復讐はある。

「だったらそのサーバーごとぶっ壊して――」

 言い終える間もなく光賢の体もまた、足元から伸びて来たクラーケンの触手に搦め取られて、強制的にゲーミングチェアへと着席させられた。必死に拘束から逃れようとするが、成人男性の力を以てしても触手の怪力に抗うことは出来ない。

『今から死を迎えるあなたには私達を止めることなんて出来ない。未来はもう決まっているの』

「お前は死の未来を描画するだけなんだろう? 【FUSCUS】で死の未来を見ていない俺をも殺すのか?」

『いいえ。あなたの死も【FUSCUS】によって描かれているわよ』

 美墨の意志によって、深夜の使っていたPCに新たなセピア調の絵画が表示された。それは光賢の死の未来を描画しており、首が真一文字に裂けた光賢が、見覚えのあるゲーミングシェアの上でグッタリとしている。足元には光賢が持ち込んだナイフが、形状まで丁寧に描き込まれている。

「そんな絵、俺は知らない。俺を消すために今作ったのか?」

『そんなアンフェアな真似はしない。この絵はもっと前からあなたの死を予言していた。描いたのは佐藤根佐那が死んだ日。保存元はあなたの妹のパソコンのフォルダよ』

「……確かに俺はあの日、玖瑠美のパソコンから【FUSCUS】にアクセスしたが、結局噂は試さなかった。その絵が存在しているはずがない」

 確かに一度は自ら深淵を覗き込もうと【未来の私】と入力しかけたが、その途中で段から佐藤根雪菜の訃報を伝える電話が入り、入力は途中になっていた。あの時は確か【未来】とまで……そこまで思い出した瞬間、光賢の背筋に悪寒が走った。

「……まさかトリガーは、【未来の私】ではなく【未来】なのか?」

『大正解。【FUSCUS】の入力フォームに【未来】と書き込んだ瞬間にその人間は私達の標的となるの。【未来】という抽象的なワードよりも、【未来の私】という具体的なワードの方が興味をそそるし、より長い言葉なら確実に【未来】と打ち込むでしょう』

 文字通りの魔の手は、想像以上に広域であった。画像生成AIであれば、例えば近未来的な画像を欲した場合等に【未来】と打ち込む機会もあるだろう。把握出来ていないだけで、【未来の私】の噂を知らずとも、今回の事件に巻き込まれた人間も存在しているかもしれない。

「くそっ! こんなところで死んでたまるか。絵に描かれた未来が現実になるなんて馬鹿げて――」

 光賢は全身を使って触手の拘束に抗ったが、怪力のクラーケンは微塵も動かない。それどころか光賢の頭部に触手を巻きつけて引っ張ることで、強制的に光賢に上を向かせた。首が露わとなり、喉仏が強調される。

『あなたが器足り得たなら、この死を回避することも出来たかもしれない』
「おい止めろ!」

 一本の触手が光賢からナイフをもぎ取り、刃を水平にして光賢の喉へと近づけていく。刃の刃先が、首の正面左側に浅く食い込む。

『最後に一つ良いことを教えてあげる。器は無事に見つかったわ』
「海棠おぉぉ――」

 触手の怪力が、無慈悲に光賢の喉笛を裂いた。真っ黒な血液が噴水のように飛び散る。ゲーミングチェアの上で激しく痙攣する光賢の体は無数の触手に押さえつけられており、決して転がり落ちることはない。それは描かれた未来の死に様とは異なる風景だから。

 光賢が絶命し、肉体的な反応が完全に消失したのを見届けると、体を拘束していた触手は、デスクの影へと掃除機のコードを巻き取るような勢いで戻っていった。拘束を失った光賢の体は自重で脱力してゲーミングチェアへともたれ掛かり、触手の手放したナイフが足元へと転がった。何もかもが【FUSCUS】に描かれた通りだ。

『あなたと過ごしたこのお屋敷を離れるのは寂しいけど、そろそろ器の元へ向かわないと。今までありがとう。大好きだよ、深夜』

 最愛の人に別れを告げると、地下空間の明かりが入口の方向から順番に消灯していった。直後には【FUSCUS】を管理していたサーバーも完全に機能を停止し、一切の駆動音が消失された。後に残されたのは静寂と、深夜と光賢、隣り合って息絶えた二人の亡骸だけだ。

第十二話

第一話


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?