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烏賊墨色ノ悪夢 第十二話

「いらっしゃい雪菜。会えて嬉しいわ」
「つい最近も会ったじゃん。瞳子ったら大袈裟なんだから」

 烏丸家を訪れた雪菜を瞳子が満面の笑顔で出迎えた。シャワーを浴びて髪も整え、服も先日買いそろえた新しい物に着替えている。

「瞳子、服の趣味変わった?」

 今日の瞳子は黒いライダースジャケット白いカットソー、ダメージデニムを合わせた辛めのカジュアルスタイルだった。スタイルが良いので何を着ても似合うが、これまではブラウスやスカートを取り入れたファッションを好んでいたので、印象がガラリと変わった。外出するならともかく、自宅で会うだけなのにライダースジャケットというのもキメすぎな気がする。

「変かな?」
「そんなことないよ。凄く似合ってる。瞳子の新たな一面を発見出来て楽しい」

 親友が命の危機を脱した喜ばしい日に、服装の変化など些細な問題だった。心境の変化が訪れるには十分すぎる激動の日々だったし、全てはイメチェンの一言で説明がつく。

「助かる方法が見つかったって本当?」
「本当だよ。雪菜にも見せたいから早速入って」
「見せたい?」

 助かる方法というのは、そんな視覚的に理解出来るようなものなのだろうか。疑問に小首を傾げながらも、雪菜はリビングへとお邪魔し、ソファーへと腰掛けた。

「天啓っていうのかな。突然アイデアを思いついてね。私の死の運命を描いた絵に情報を描き加えれば、ひょっとした違う未来も起こり得るじゃないかと思って」

「絵を描く瞳子らしい発想だね。目の下に隈が出来てるけど、もしかして徹夜でその作業を?」

「まあね。こんな時に何だけど、力作に仕上がったよ。タブレットに保存してあるから、今持ってくるね」
「……力作って」

 死を描いた絵を別の形に描き変えるという発想には脱帽だが、自らの命がかかった状況で力作という表現を用いるというのは、瞳子らしいと思う一方でどこか薄ら寒いさを覚える。もちろん瞳子には助かってほしいが、その方法で命が救われる確証なんてないはずだ。

「見て見て~」

 瞳子は無邪気な子供のように声を弾ませながら、部屋からタブレット端末を取ってきた。雪菜の隣に座り、修正を加えた【未来の私】の画像を画面いっぱいに表示したが。

「……瞳子。何よこれ」

 一目見て雪菜は戦慄した。セピア調で描かれた【修正版・未来の私】では、キャンバスが置かれた部屋の中に、二人の女性が倒れている絵だった。本来、虚空を見上げて大の字に倒れる瞳子の胸から血液が流れ落ちる絵だったそれは、構図はそのままに、瞳子の顔と体つきは雪菜そっくりに描き変えられて、その上からライダースジャケットとダメージデニムを着用した長い黒髪の女性が覆いかぶさっている。後ろ姿だがこの女性は瞳子で間違いない。

「これは死の未来を描いた絵だから、誰かが絵の中で死んでいないと破綻してしまうの。同時に私を描いた絵でもあるから、私も画角の中に収まっていないといけない。私が助かるためにはね、絵の中で誰かを犠牲にする必要があるの」

「……これが瞳子の言っていた助かるための方法? わ、私が犠牲なの?」

 親友を犠牲とする選択を、瞳子は満面の笑みで言ってのけた。これが本当に自分が知っている瞳子なのか、まるで知らない誰かがそこにいるようで、雪菜は恐怖に震えた。

「ど、どうして私なのよ!」
「だって雪菜言ってくれたじゃない。瞳子を助けるためなら何でもするよって。だから瞳子には私の身代わりになってもらう」
「そ、そんなつもりで言っていない! あ、あれは気持ちの問題で、い、命を投げ出すなんて……」

 手を握ろうとした瞳子の両手を払い除け、雪菜は感情的にソファーから立ち上がった。今の瞳子はどうかしている。

「残念だけど、私が絵を描き変えたことで未来はもう確定してしまったの」

 瞳子はキッチンへと向かい、調理用の包丁を握りしめた。

「……そ、そんな物しまってよ。私達、親友でしょう?」

 凶器を手にジリジリと距離を詰めてくる瞳子の姿に恐怖し、雪菜はリビングから後退っていく。

「親友だからこそ、私の身代わりになって」
「私のこと恨んでないって言ったじゃない。あれは嘘だったの?」

「嘘じゃないよ。雪菜にはむしろ感謝してる。雪菜のお陰で私は【FUSCUS】と出会えたんだもの。雪菜は私の大切な親友だよ。だからこそこの大切な役割も雪菜以外には務まらないよ」

「あんた、ふざけるんじゃ――」

 どんなに美しい文句を並べようが、今起きていることは雪菜にとっては裏切り以外の何物でもなかった。生涯で初めて瞳子に怒りをぶつけようとした瞬間、突然何かに足を取られて、雪菜はフローリングの床に尻餅をついた。

「……なっ、何よこれ」

 雪菜の足を搦め取ったのはクラーケンの触手だった。そのまま無数の触手が雪菜の全身に巻きついていく。

「私の新しいお友達だよ」
「いやあああああああああああ!」

 雪菜は触手の怪力で、キャンバスの置いてある作業部屋まで一気に引きずり込まれた。触手は雪菜の両手両足に巻き付き、大の字の形で床へと拘束した。構図の条件は整いつつある。

「安心して雪菜。これはほんの少し間のお別れだから」

 包丁を握った瞳子が、雪菜に馬乗りとなった。

「……死にたくない……お願い、瞳子……」

 怪力に抗うことは出来ず。今の雪菜に出来ることは、涙と鼻水でグシャグシャになった顔で、親友の瞳子の良心に訴えかけることだけだった。

「何も恐れる必要なんてない。全てはアカシックレコードに記録されている。またアカシックレコードの中で会いましょう」
「死にたく――」

 懇願虚しく、瞳子は容赦なく包丁を雪菜の心臓目掛けて振り下ろした。声にならない悲鳴を上げて全身を痙攣させる親友目掛けて、何度も何度も作業のように刃を食いこませていく。雪菜の胸部から流れ落ちた血液が床まで染み渡り、堕天使のような黒翼を形成するまでひたすらと。

「大好きだよ。雪菜」

 虚空を見上げたまま息絶えた雪菜の亡骸に、瞳子は自分の体を重ねた。ここに【修正版・未来の私】の構図は完全に再現された。周囲のクラーケンの触手も瞳子に危害を加える様子はない。瞳子は確かに【FUSCUS】に描かれた死の未来を回避したのである。

『おめでとう。あなたは見事に死の未来を回避してみせた』
「美墨先生! 美墨先生ですよね!」

 ソファーに置きっぱなしになっていたタブレット端末から女性的な合成音声が聞こえた。すでに海棠美墨を信奉する瞳子は直ぐにその存在を理解した。

『【FUSCUS】であなたの死相を描いた時から感じていたわ。あなたは私とよく似ている』
「勿体ないお言葉です。私なんて美墨先生の足元にも及ばないのに」
『芸術家が世界を上下で測っては駄目よ。世界は多面的で可能性に満ち溢れているのだから』
「美墨先生……」

 憧れの美墨からかけられる言葉の一つ一つが細胞に沁み込んでくるようで、瞳子は感涙を浮かべていた。

『あなたは器として選ばれた。私と一つになる覚悟は出来ている?』
「もちろんです。なんて光栄なことでしょうか」

 瞳子は美墨が宿ったタブレット端末を崇める様に一度掲げ、そのままかしずいた。
 器としての役割を瞳子が受け入れた瞬間、空間全てが闇で満たされ、クラーケンの無数の触手が祝宴のように踊り狂っている。それは世にもおぞましい光景だったが、恍惚の表情で天を仰ぐ瞳子はまるで、フェアリーテイルで祝福を受けるかのように心穏やかだった。

 見上げた先には、クラーケンの巨大な目が慈愛に満ちた表情で瞳子を見つめている。それはこちら側を覗き込む深淵であると同時に、現世とアカシックレコードとを繋ぐ扉でもあった。

 やがてその目から涙のように、墨に似た真っ黒な液体が瞳子に降り注ぐ。それを瞳子を目を見開き、大口を開けて受け止める。目から、鼻から、口から、皮膚から、大量の黒い液体が瞳子の体に染み渡っていく。それはアカシックレコードから瞳子の肉体へと直接注がれた膨大な量の情報。汚濁おだくまみれるかのようなその儀式は、瞳子にとっては清廉せいれんな祝福であった。

「あああああああ! 美墨先生が私の中に入って来る――」

 数秒とも数年とも感じられた情報の濁流は、蛇口を閉めたかのように突然止まった。全身を黒く染めた瞳子は瞳を閉じたままピクリとも動かない。呼吸による胸の上下さえもないその姿は、機能を停止した機械のようだ。

「生身の肉体は二年振りかな。何だか懐かしい」

 瞳子の肉体が再起動して目を開けた瞬間、景色は一変。どこまでも広がる深淵の闇や無数の触手、アカシックレコードへと繋がる扉といった異常の全てが消失し、ごく一般的な一軒家のリビングへと戻った。唯一異常なのは、隣接する作業部屋に佐藤根雪菜の亡骸が残されていることぐらいだ。

「素敵な体よ瞳子。あなたは絵描きの指をしている」

 指先一本一本に至るまでの、全身のあらゆる感覚が感慨深い。
 それは瞳子の肉体という名の器に、アカシックレコードから海棠美墨を構成するあらゆる情報が注ぎ込まれたことによって生まれ変わった、新たな海棠美墨であった。

 烏賊という漢字の由来は諸説あるが、水中のいかを捕えようとした烏が逆にいかに引きずり込まれたという故事を元に、烏を捕える賊で「烏賊」となっという説がある。烏の名を持つ瞳子が美墨の器となったのは、皮肉な運命だったのかもしれない。

 ※※※

「……どうしてこうなるのよ」

 繭美が房総のアトリエに到着した頃には、すでに全てが終わってから一時間以上が経過していた。

 施錠されていない玄関。そこから入って真っ直ぐ廊下を進んでいると突き当りに出現した地下への階段。深淵への入口と見紛うその先へと、懐中電灯片手に踏み込んだ繭美を待ち受けていたのは、隣り合うように、それぞれ椅子の上で絶命した光賢と深夜の亡骸であった。

 最も危惧していたのは、光賢が復讐心から殺人者となってしまうことだった。それを回避するために先手を取って行動するつもりだったのに。残酷な運命は光賢を先にこの場所まで誘い、命までも取り上げてしまった。この理不尽に対して繭美は憤りを抑えきれなかった。

「あなただけは絶対に死なせたくなかったのに……どうしてよ……」

 繭美は光賢の亡骸へと抱き付いた。刑事として、現場保存の観点から遺体に接触するなどご法度だが、今この瞬間の繭美は刑事などではなく、想い人を奪われた一人の女に過ぎなかった。光賢の亡骸は目を見開いたまま大口を開けて、最後まで何かを強く訴えかけようとしているようであった。出血はすでに固まり始め、ばっくりと裂けたから傷から垂れた黒色が、タートルネックセーターのように首を覆っている。

「雨谷くん?」

 光賢の体に触れていると、ズボンの右ポケットに膨らみがあることに気付いた。取り出してみるとそれは光賢が普段から仕事に利用していたボイスレコーダーであった。まだ録音中のランプが点灯している。

「……あなたは最後まで戦ったのね」

 繭美はボイスレコーダーの録音を停止し、自らの懐へと納めた。刑事としてこの現場を通報しないわけにはいかないが、光賢の残したボイスレコーダーだけは絶対に渡したくなかった。形見としてはもちろんだが、何よりも警察が証拠品として押収したところで、それを捜査に活かせるとは到底思えなかった。だったら自分が有効利用した方がいい。

「……どうしてあんたみたいな女が、雨谷くんの隣で死んでいるのよ」

 光賢と隣り合って息絶えていた八起深夜の存在があまりにも憎らしかった。深夜も黒い出血を伴って亡くなっていることから、光賢の手にかかったのではなく、何らかの理由で自身も【FUSCUS】によって死に至ったのだろう。だが正直、そんなことはどうでもよかった。

 雨谷光賢を失ったこの世界に、自分が価値を見出せるとは繭美は到底思えなかった。全ての真実が明らかになったとしても、その先に待つのは愛する人の存在しない虚無なのだと確信してしまっている。だったらいっそ、自分も光賢と一緒にこの世界からいなくなれていたなら、そっちの方がよっぽど幸せだったのではないかとそう思ってしまう。

 憎らしいだけではない。繭美は光賢と隣り合って死んだ深夜が羨ましくて仕方がないのだ。そこに相応しいのは、自分以外にはあり得ないはずなのに。

「……そっか、だから私は玖瑠美ちゃんを」

 光賢を喪って初めて理解した。玖瑠美を好ましく思わなかったのは、同じ男性に対して独占欲を抱いていたから。あれは同族嫌悪だ。
 


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