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烏賊墨色ノ悪夢 第八話

 烏丸瞳子は空を飛び、世界を俯瞰する。
 
 水面に反射した瞳子は一羽のからすの姿をしていた。飛び方なんて誰にも教わったことはないのに、二枚の翼でどこまでも飛んでいける。重力のかせから解き放たれた体は、これまでにない自由を謳歌出来る。自分は人だった頃よりも小さくなっているのに、眼下に広がる街並みは人間だった頃よりも小さい。人間がどれほど矮小わいしょうな生き物なのかを、鳥の目線が教えてくれた。

 野を越え、森を越え、山を越え、墓を越え、住宅地を越え、繁華街を越え、しがらみを越え、かつて瞳子だった烏は雄大な海洋へと飛び出した。母なる海を俯瞰する体験は、胸躍る冒険気分を味あわせてくれる。

 しばらく海洋を飛び続けると、空腹感で体の動きが鈍くなってきたのを感じた。そろそろ食事を摂らないと力尽きて墜落してしまう。

 烏の瞳に水面に輝く銀色の反射が見えた。水面近くを一匹の烏賊いかが漂っていたのだ。烏賊は遥か上空から刺客に気付いた様子はない。好機を逃すまいと瞳子は水面目掛けて急降下し、着水した瞬間、激しい水飛沫が上がった。

 勝者は烏賊だった。烏賊を捕食すべく飛び込んだ瞳子は烏賊墨いかすみの目くらましで前後不覚となり、その隙に全身を触手に搦め取られてしまったのだ。一度空から見放されてしまえば、烏が海の寵愛を受ける烏賊に敵うはずもない。必死の抵抗も虚しく触手の力で水中へと引き込まれていく。呼吸も出来ずに苦しむ瞳子の瞳に最後に映った光景は、眼球目掛けて迫る烏賊の凶悪なとんびであった。

 ※※※

 11月4日早朝。

「……最初は素敵な夢だったのに」

 目を覚ました瞳子は背中にビッショリと汗をかいていた。自分が鳥になって世界を巡るだけならメルヘンだったのに、終盤の展開は最悪だった。烏賊に襲われる夢を見てしまうのはやはり、段の遺言が深層心理に影響を及ぼしているのかもしれない。

 部屋のカーテンを開けると眩い朝日が差し込み、近くの電柱の上では、烏が鳴くこともせずに辺りをキョロキョロとしていた。

「君は海を目指して引きずり込まれるんじゃないぞ」

 瞳子の言葉が聞こえたとは思えないが、言い終えると同時に烏は羽ばたき、どこかへと飛び去ってしまった。

「……水の夢を見たからって。耳鳴りとか勘弁してよ」

 目覚めからどうにも耳の聞こえが悪いような気がした。まるで水中にでもいるかのような。これも夢の悪影響なのだろうか? 

「何か描いてみようかな」

 悪夢と耳鳴りの最悪な寝覚めだったが、意外にも頭の中はクリアに感じられた。不思議と燻っていた創作意欲までもが刺激され、瞳子は寝間着姿のまま絵画用のキャンバスを用意する。身震いを覚える悪夢もまた、芸術活動においては一種の肥やしなのかもしれない。今なら新しい何かを生み出せるような気がした。

 ※※※

 11月7日午後。

「何だか久しぶりな気がするね。雪菜」
「そうだね」

 佐那の葬儀から五日後。雪菜は午後から瞳子の自宅を訪れていた。テーブルを挟んで向かい合うが、この一週間は色々なことが起こり過ぎて、お互いに笑顔が少しぎこちない。ソファーで肩を並べた方がもしかしたら気楽だったかもしれない。

 雪菜の中ではまだ姉の死の混乱は冷めやってはいないが、それと同じぐらい親友の瞳子のことが気がかりだった。通夜の会場で瞳子に何かを伝えようとしていた段永樹がその直後に不審死を遂げた。

 人づて聞いた亡くなる直前の錯乱した様子は、佐那の死を彷彿とさせるものだった。偶然の一致とは考えづらい。段の後を追いかけて行った瞳子もそれ以来、どこかこれまでと様子が異なる。喪に服していたためこれまではゆっくり話しをする機会を持てなかったが、自分の知らないところで何が起きているのか、家族を喪った当事者の一人として、雪菜も知っておきたかった。

「ねえ瞳子。今いったい何が起きているの? 段さんの死も、お姉ちゃんの死と何か関りがあるの?」
「常識では説明のつかない出来事が起きているの。知らないままの方がいいかもよ」

 妙に落ち着いた様子で、瞳子はオレンジジュースをコップに注ぎ、雪菜の前へと置いた。

「そんな突き放すような言い方しないで。私は瞳子が心配なの」
「聞いたら後悔するかもよ?」
「何も知らないまま瞳子にもしものことがあったら、それこそ後悔する」

 是が非でも引かない覚悟を堅持する眼差しを前にしても、瞳子の中には迷いがあった。事情を打ち明ければ瞳子の気持ちの負担は軽くなるが、同時につり合いが取れない程の重い十字架を雪菜が背負うことになってしまう。

 瞳子が【FUSCUS】と関わり【未来の私】の噂を試すきっかけを作ったのは雪菜なのだから。

「……私は雪菜を恨んでなんかいないからね」

 そう前置きしたうえで、瞳子は重い口を開いた。

「……ごめんなさい。ごめんなさい――」

 瞳子から全ての事情を打ち明けられた雪菜は泣きじゃくり、ひたすら謝罪と後悔の念を口にし続けた。

 決して不謹慎な冗談など言わない瞳子の言葉だからこそ、どんな非現実的な話しでも事実として受け止めることが出来た。それだけに辛い。

 姉が亡くなって間もなく、その姉と同じ死の危機が親友へと迫り、そのきっかけを作ったのは他ならぬ自分だった。その現実に耐えられるほど雪菜の心は強くない。それが分かっているからこそ、瞳子も出来ればこの話しはしたくなかった。

「お願いだから泣かないで」

 幼子をあやす母親のような優しい口調で、瞳子は雪菜の背中を優しく擦った。

「雪菜のせいなんかじゃない。こんなことが起きるなんて誰にも予想出来ないもの。雪菜が私のことを思ってあのAIを紹介してくれたことは分かっているよ。大事なことだからもう一度言うね。私は雪菜を恨んでなんかいないよ」

 敬愛する海棠美墨が亡くなって以来、瞳子の中で絵に対する情熱が燻ってしまったことに、友人として近くで瞳子を見てきた雪菜も心を痛めていた。

 瞳子の唯一の肉親である父親は瞳子に関心がなく、瞳子の一番の理解者は間違いなく雪菜だった。そんな中で姉の佐那の紹介で知った【FUSCUS】という画像生成AI。その作風が海棠美墨とそっくりだったため、また瞳子が情熱を取り戻すきっかけになればと思い、あの日雪菜は瞳子に【FUSCUS】を紹介したのだ。

 その思いを理解しているからこそ、瞳子は雪菜には感謝こそしても恨んだりはしない。雪菜は大切な親友だ。

「私、瞳子を救うためなら何だってするから」
「ありがとう。気持ちは凄く嬉しいよ」
「口先だけじゃないよ。本当に何だってするから!」

 腕を掴む雪菜の力が強くて瞳子は顔を顰める。瞳子に必死に縋る雪菜の姿は贖罪のようでもあり、親友に対する依存のようにも見える。罪悪感と同時に、姉に続いて親友までも失う恐怖に感情が熱暴走を起こしている。瞳子に万が一のことがあれば間違いなく雪菜も壊れる。瞳子に尽くすことはある意味で、自己防衛本能の発露でもあるのだ。

「その言葉はちゃんと覚えておくから、今は落ち着いて。心強い大人が何人も動いてくれているからきっと大丈夫。今は成り行きを見守ろう。ねっ?」

 情報交換を行ってから四日が経つ。生存確認を兼ねて毎日、繭美から連絡が来るだけで、今のところ調査に大きな進展はないが、不安にさせるだけなので、そのことは雪菜には伝えなかった。

「……うん。取り乱してごめん」

 ようやく少し気持ちが落ち着いたのか、雪菜は息を整えてからオレンジジュースを口にしたが、器官に入ってむせてしまったようで、慌てて瞳子が背中を擦った。

「大丈夫?」
「……ごめんなさい」

 そして雪菜はまた謝る。これではどちらが命の危機に瀕して追い詰められているのか分からない。

「……あれ、キャンバスが出てる」

 咳が落ち着いた雪菜がふと視線を横に向けると、リビングに隣接する雪菜の作業部屋に、絵を描くためのキャンバスが出ているのが見えた。上からは布が掛けられている。最近は絵を描くにしても、息抜きにデジタルなペンタブレットでサッと描くだけだったので、キャンバスが出ているのは久しぶりに見た。

「こんな時に、それともこんな時だからなのかな。何だか無性に大きなキャンバスに絵が描きたくなって、久しぶりに引っ張り出したんだ」

 照れ臭そうに後ろで手を組みながら、瞳子はキャンバスの隣に立った。瞳子は絵を愛し絵に愛されている。こういう状況だからこそ、絵を描くことが清涼剤にもなるのだろう。理由はどうあれ、瞳子とキャンバスの並びを久しぶりに見られたことが雪菜は嬉しかった。

「どんな絵を描いたの?」
「最近ちょっと印象的な夢を見たから、その光景を絵に起こしてみたんだ」
「せっかくだから見せてよ」
「久しぶりだから恥ずかしいな」

 口ではそううそぶきながらも、本心では瞳子もお披露目の機会を欲していたのだろう。本気で隠しておきたいなら、リビングと作業場を衝立でわかてばいい。

「瞳子の絵を一番始めに鑑賞できるのが、親友の特権でしょう」
「もう。雪菜には敵わないな」

 頬に手を当てながら、瞳子はキャンバスに掛けてあった布を下ろした。
 出来なんて関係ない。瞳子の久しぶりの新作を拍手で迎えようと雪菜は心に決めていたのだが、絵の全貌が露わになった瞬間、迫力に圧倒されて拍手の寸前で手が止まってしまった。それは決して肯定的な意味ではない。この絵に賛辞を送ってよいべきか。本能が疑問符を投げかけたのだ。

 その絵は海面での烏と烏賊の攻防を俯瞰し、セピア調で描いていた。否、それは攻防とさえも呼べない。現実は全身を触手に搦め取られ、今まさに水中に没しようとしている烏の今わの際だ。必死の抵抗で舞い散った黒い羽と、走馬灯でも見ているかのような烏の悲痛な眼差し。見ただけで烏の断末魔が聞こえてきそう絶望感がその絵には宿っている。

 対する烏賊の描写は情緒的ではなく、まるで舞台装置のように淡々と烏を搦め取ってる。その姿は死の運命の化身のようだ。描写からしてその大きさは、ごく一般的な烏賊であるはずなのに、死そのものである烏賊の存在感は、海の魔物クラーケンのように深く、絶望的だ。

 この絵は日常の何気ない一ページを描き取るような、これまでの瞳子の作風とは明らかに一線を画す。自然の営みに対する表現としては不適切かもしれないが、絵の圧倒的躍動感故に、猟奇的なものを見てしまったかのような焦りを感じる。その絵を支配するのは温もりではなく、狂気の一言に尽きる。

「……凄い迫力だね」

 ようやく絞り出せた言葉は、そんな月並みな感想だった。

「そうでしょ。我ながら力作なんだ。三日でこれを描き切るなんて我ながら凄い集中力。何だか一皮剥けた気がするよ」

 爽やかな笑顔と、隣接するおどろおどろしい絵との温度差が何だか気持ち悪かった。

「この光景を夢に見たの?」

 絵のインパクトもさることながら、夢に見た光景をここまで写実的に描いたという事実もまた驚きだった。参考になるのは脳内の、それも夢という曖昧な記憶のみなのだから。

「うん。夢の中で私は烏だったから、もっと間近で烏賊を見ていたんだけど、その光景をさらに俯瞰したらこんな感じかなって」
「それじゃあ、この海に引きずり込まれる烏は」
「私ってことになるね」

 さも当然の如く言ってのけるが、雪菜にはその神経が理解出来なかった。夢に見た光景を絵に起こしただけならまだ理解が及ぶが、烏が瞳子自身だとすれば、それはまるで凶兆ではないか。どうしてその事実を、こんなにも晴れやかな笑顔で語れるのだろう。

「だけどやっぱり美墨先生には及ばないな。先生ならもっと真に迫った表現を追及するはず」

 瞳子がどれほど海棠美墨を尊敬しているかは知っている。だから言葉には出さなかったけど、この状況でどうして海棠美墨への憧れを見失わないのだろう。自らに死をもたらす原因の一端を、海棠美墨が担っているのかもしれないのに。

「瞳子。どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「良い絵が描けたら気分が良くなるのは当然でしょう」

 瞳子が本当に死の運命に焦りを感じているのかさえも雪菜には分からなくなってきた。今の瞳子は自分の知っている瞳子とは何かが違うような気がする。

「瞳子……」

 雪菜は両手を強く握り込んだ。瞳子の狂気を目の当たりにしても決意は揺らぎない。瞳子を救うためなら何だってする。瞳子にはこれからも、大好きな絵を描き続けて欲しいから。


第九話

第一話


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