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水溜まりを跳ねる子(ショートストーリー)

 ざあざあ雨が降っていた。

「先生、みなさん、さようなら!」

と、一斉に頭をさげた瞬間、一番に玄関に飛び出す。
 赤い通園バッグは斜め掛け、お気に入りの赤い雨靴をはき(お天気の日にだってはきたい)、黄色の傘をさして、幼稚園を駆け足で出る。お迎えはいない。

 五歳と二ヶ月のキクちゃんはにこにこ微笑みながら、傘をくるくるまわして、家とは違う道を歩く。お母さんのいる岡崎病院をめざして。

 重い扉を開くと、病院特有のいやなにおいがして、キクちゃんは顔をゆがめる。嫌いだけれど、注射しにきたわけじゃないから怖くないの、と聞くキクちゃんは思う。

 傘をおいて、赤の女の子用スリッパに履き替え、階段をよいしょよいしょと上がり、右に曲がって病室のドアを開けると、お母さんが、

「キクちゃん、来たの」

と、ベッドから起き上がった。真っ白なシーツがまぶしかった。
 
 お母さんの隣には、生まれてまもない小さな弟が眠っていた。髪の毛が真っ黒で、眠りながら何かごにょごにょ言っているのがおもしろかった。キクちゃんは飽きずに、じっと見ていた。

「キクちゃんは生まれたとき、つるつるだったけど、弟は髪の毛がふさふさで真っ黒ね」

 お母さんは笑いながら、また同じことを言った。
 
 弟の寝顔をお母さんと見ながら、幼稚園であったこと、おばあちゃんと昨日一緒の布団の中でベストテンを見たことを話した。おばあちゃんの料理は、とてもおいしいことも話した。

 それでもやっぱりおうちが一番いいのだけれど。
 お母さんと一緒がいいのだけれど。
 言いたかったけれど、言えなかった。
 言葉のかたまりは、ごくんと思い切って飲み込んだ。

 しばらくして弟が泣き出し、お母さんが抱き上げ、キクちゃんに、

「もうそろそろ五時だから、帰らないと」

と、うながした。

 うん、わかった。
 さっきまでなかった寂しい気持ちが、胸の中にいっぱいにじわっと広がって苦しくなった。

 また明日ね、お母さん。
 お母さんは笑顔でキクちゃんを見送った。

 階段を降りるとき、小さなスリッパがぱたぱたいった。キクちゃんは泣き出しそうになった。
 あわてて雨靴に履き替え、傘を持って外に出たとたん、涙がぼろぼろ流れてくる。

 お母さん、さびしいよぉ。

 キクちゃんは泣き声をこらえたけれど、大粒の涙はあとからあとからこぼれるのだった。

 
 泣きながら歩いていると、前から親子連れが歩いてきた。キクちゃんは泣き顔を見られまいと、傘を深くさし、顔をかくした。
 すれ違うとき、母親が、

「ほら!あのお姉ちゃんみたいにちゃんと傘をさしなさい!」

と、小さな子供に注意した。

 違うのに、ちゃんと傘をさしているわけじゃないのに。泣き顔を見られたくなかっただけなのに。
 キクちゃんは知らない人にほめられて、妙な気持ちになったけれど、びっくりして涙は少し引っ込んだ。

 おばあちゃんのおうちに着くまでには、泣きやまないと。おばあちゃんが困ってしまうかもしれない。

 キクちゃんはときどき、水溜まりに入って、わざとしばらく跳ねて寄り道をした。


 病室を出るとき、もう一度ばいばいを言おうとして振り返ったら、お母さんはもうキクちゃんを見ていなかった。胸に抱いた弟を見ていた。さらに寂しくなって、お母さんはもうキクちゃんだけのお母さんではないのだと、病室のドアをそっと閉めた。


 水溜まりでしばらく遊んでから、キクちゃんはいいことを思いついた。

 雨にぬれて帰れば、おばあちゃんに泣いたことがばれないんじゃないかと。

 キクちゃんは傘から顔を出し、雨にうたれながらおばあちゃんのうちに帰った。

 おばあちゃんの「こら!キクちゃん!」と叱る声を思い浮かべて、少しだけ笑った。




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