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一人旅の醍醐味

※「旅」をテーマに課題として書いた作品です。


 結局、あの女性は何者だったんだろう……。今でも時々、街灯に照らされた彼女の横顔を思い出すことがある。

 二十三歳の時、京都を旅した。寺社仏閣やカフェをめぐる一泊二日の一人旅だ。二日目の夜、ここで最後と決めた喫茶店に入った。古材風の木を用いたシックな雰囲気の店だ。私はカウンター近くのテーブル席を選んだ。お客さんは女性が一人いるだけ…。
 しばらくすると、マスターに話しかけられた。「旅行ですか?」「あ、はい」「一人旅?」「そうです」東京から来たこと、一人旅は初めてだということを話す。

「私も関東出身」

 店内に唯一いた女性客が、不意にそう言った。マスターと話し始めるのを見て、常連客なのかな、と思った。私より少し年上に見える。二十代半ばか、後半くらい……。

 三人の会話は30分くらい続いた。マスターが中心になり、このあたりのカフェについて話す。「私、そろそろお暇しますね」席を立とうとすると「じゃあ私も」女性客も腰を浮かせた。

 店を出て、何となく話しかけた。「常連さんなんですか?」「ううん、初めて」意外だった。マスターと彼女は昔から知っている仲のように話していたからだ。ちょっと変わった人…と考えていると、女性が言った。
「よかったら、少し話しません?」

 いったい、なぜ、その誘いに乗ってしまったのか、今以てわからない。女性は先導して暗くなった京都の夜の街を歩き始めた。

 淡々と話す人だった。話題は京都の喫茶店や最近の観光客の傾向など、とりとめのないことだったと思う。自分の個人情報は一切口にせず、私のプライベートも聞いてこない。掴みどころのない人だと感じた。話しぶりも、服装も、容姿も、一度街に溶け込んだらもう探し出せなくなるような、あっさりとした不思議な風情の女性なのだった。

 北大路周辺のカフェから京都御所の脇を抜け、東西線沿いに三条方面を目指して一時間ほどひたすら歩いた。正直、どこを歩いているのかよくわかっていなかった。夜の京都は、昼の凛とした佇まいが消え、どこか煩雑な雰囲気を醸し出していた。やがてスナックやショーパブが立ち並ぶ通りに出たあたりで、さすがに危機感を抱き始めた。女衒、という言葉が脳裏をよぎる。

「夕飯、ここでもいい?」
 と指さされたのは、夜に働く人が利用するであろうお蕎麦屋さんだった。変なお店ではなさそうだけど…と思いつつ、その背についていった。
 女性は平和な風情でにしん蕎麦を食べ、私はざる蕎麦と女将さんがサービスしてくれたお漬物を食べた。そろそろ宿に帰る、と言うと、女性はうんわかった、と特に気を害した風もなく言い、三条駅まで送ってくれた。「明日帰るの?」と訊かれ「うん。時間は決まってないけど」と答える。

「じゃあ、明日、もし気が向いたら京都駅のバス乗り場で会わない?」
「気が向いたら?」
「うん。約束するのはちょっとね。もしお互い気が向いたら、明日も会おう」

 頷いたけれど、次の日、バス乗り場には行かず新幹線に乗った。女性に再会したら今度こそとんでもないことが起きるような気がして、怖くなったのだ。

 女性が何者だったのか、なぜ私に声をかけたのか、彼女と再会していたらどうなっていたのか、今となっては謎のままだ。一つだけ言えることは……一人旅では度々こういった出来事が起こる。夜の尾道、弘前の珈琲オタク、福島の温泉で出会ったおばあちゃん、一人旅でなければ話すことのなかった人たち。まちは色んな顔を持っていて、住人越しでしか見せてくれない顔が存在する。旅行なんて全然好きじゃない私のような人間もつい旅に出てしまうのは、そこに住む人たちがあまりにも魅力的で、刺激的だからなのかもしれない。


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