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リバース【短編ホラー小説】(1/5)

【あらすじ】

 過去に事故で娘を亡くすという悲劇に見舞われた梨沙。彼女はヴァーチャル空間で仮想の子供と過ごすというセラピーを受けながらも、今の夫である悠人と幸せな生活を送っていた。
 悠人との子供を授かり、出産を間近に控えながら迎えた誕生日に、梨沙はヴァーチャル空間の中で、亡くなったはずの娘の姿を目撃する。その日を皮切りに、梨沙の周りで亡くなった娘の存在を思わせる不可解な出来事が起こり始める。悠人は、梨沙の過去を知る何者かによる仕業ではないかと考え、調査を始めるが・・・・・・。
 死んだ子の怨霊か、何者かの陰謀か。虚構と現実が反転する時、この世に姿を現すものとは。

【本編】

<プロローグ>
 小さな手がゆっくりと積み上げていくブロックを、梨沙はただぼんやりと眺めていた。1つ積むたびに、女の子がこちらに笑みを送る。梨沙も優しく微笑み返し、次に積むブロックを彼女に手渡す。心地よい暖かさのクリーム色の部屋には、梨沙と女の子のただ2人だけ。彼女たちを煩わせるものも、脅かすものも何もない。穏やかな時間だけがゆっくりと流れる。

 何の不安もないこと。それが人間にとっての最大の幸せなんじゃないだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、梨沙は女の子にブロックを手渡し続ける。積み上がったブロックは、土台が2本足の塔のようなものを形作っていた。何を作っているの、と女の子に聞くと、東京タワーだと答える。なるほど、平面的だがそう言われれば見えなくもない。ただ、原色のブロックでカラフルに構成されているのがおかしかった。

 梨沙がまだ追加のブロックを手渡そうかと考えていると、左手首に巻いた端末が振動した。もう1時間経ったのか。優しい時間ほど速く過ぎてしまうのが悲しい。もっとここで過ごしていたい。でも、ここに長居はできない。ここは現実ではないのだから。梨沙は女の子へ微笑んだ後、端末を操作してこの世界からログアウトした。


<6月30日>
 ベッドから起き上がりヘルメット型のデバイスを頭から外すと、寝室に入ってきた夫と目が合った。

「悠人、帰ってきてたんだ」

「うん、さっき。仕事が一段落したから早く帰れた」

悠人が優しく微笑んで、ベッドに腰掛ける。

「また、ダイブしてたの?」

悠人の声に非難の色は感じられない。どちらかというと心配そうな声色だ。

「うん、でもちょっとだけ。1日中休みだと何だか落ち着かなくて」

「気持ちはわかるけど……。 セラピーだって言っても、ほどほどにしておきなよ。大事な時期なんだしね」

 そう言って悠人は私のお腹を優しく撫でた。私は彼の言葉に素直に頷く。悠人の心配はもっともだ。ヴァーチャルへのダイブは心身に負担がかかる。長期の使用が人体にどのような影響を与えるのかは未知数であり、妊婦への使用となるとなおさらだ。依存性の高さも問題視されている。私が以前からヴァーチャルへのダイブを頻繁に使用していることを知っている悠人は、それを心配しているのだろう。

「ねえ、来月はあんまり忙しくないの? ほら、さっき仕事が一段落したって」

 私は話題を変えようと、わざとはしゃいだ風に問いかけた。

「うん。急な仕事がなければ残らずに帰れると思うよ。1番の山場は越えたから」

「じゃあ、私の誕生日も?」

「はい、なるべく早く帰ります」悠人が笑いながらふざけて言う。

「ケーキ、ロウソク付きでね」

 はいはい、と悠人が笑う。幸せだ。悠人と結婚してからはヴァーチャルへダイブする頻度もかなり減った。私はもう、現実でも幸せに生きられる。悠人と2人なら大丈夫だ。3人になっても、きっと大丈夫。

「ご飯、用意するから」

 ウォークインクローゼットへ着替えに入った悠人に声をかけ、私はベッドから立ち上がった。

<7月6日>
 梨沙は河原にいた。砂利の上にバーベキューコンロを設置している。少し離れたところでは、夫がテントを組み立てていた。梨沙の視界の隅では、女の子が楽しそうに歌いながら石を積んで遊んでいる。女の子は、時おり汚れた手を花柄のワンピースで拭っていた。梨沙は女の子に向かって、“あかり、服で拭かないよ”と声をかける。“はぁい”と答える声を聞いて、梨沙はバーベキューコンロに視線を戻す。炭を入れ、着火しようと四苦八苦していると、ふとあかりの声がしないことに気付く。周りを見渡したが姿は見えない。名前を呼ぶ。返答はない。次第に焦りが募る。立ち上がり、あかりがいた方へ向かった。川縁に、水色のサンダルが片足だけ落ちていた。恐怖が込み上げる。同時に、これは夢だと気付いた。これまでに何度も見たことがある夢。記憶の反芻。この後の展開もよく知っている。

 梨沙は薄暗い部屋の入口に立っていた。ここは警察署の中だ。部屋の真ん中にはストレッチャーに乗った黒い袋があった。中央にはジッパーが走っている。この中には、あかりが入っている。部屋には他に何もない。誰もいない。記憶にないからだろう。部屋は異様な静けさだった。梨沙は中央へ歩み寄る。目の前の黒い袋を見下ろす。夢だとわかっていても、何度見た光景だとしても、梨沙は生きた心地がしなかった。生きる意味のすべてが失われてしまったような感覚だった。梨沙の目に涙が溢れ、視界がぼやけていった。


 そこで、梨沙は目を覚ました。下にしていた左側の頬に涙が溜まり、枕を濡らしている。梨沙はゆっくりと体を起こした。久しぶりに見た。かつて毎晩のようにうなされていた夢。忘れることはなくても、最近は見ないようになっていたのに。夢の余韻が喉を締め付け、息が苦しい。気が付くと、ごめんなさい、許してくださいと心中で繰り返していた。夢を見るたびに、“どうしてお母さんだけ幸せになろうとしているの”と、あかりが私を責めているような気がした。そして、許してと願うたびに己のことばかり考えている自分が恥ずかしくなった。それでも、請わずにはいられない。

 暗い部屋で壁にもたれてうなだれていると、ポコポコとお腹に胎動を感じた。梨沙はハッとして我に返った。お腹をさすり、ベッドの隣を見下ろす。そこには、床に敷いた布団で寝息を立てている悠人がいた。そうだ、自分のことばかり考えてはいられない。悠人とお腹の赤ちゃんのことも考えないと。3人の幸せを考えなければ。

 過去は消し去ることができない。この苦しみもなくなることはないのかもしれない。だけど、いつまでもうずくまってはいられない。きちんと向き合わなければ。梨沙は涙を拭い、音を立てて悠人を起こさないよう、静かに横になった。


<7月7日>
 仕事へ出ていく悠人を見送った後、梨沙は自分も出掛ける準備をした。ビニール袋にスポンジやブラシなどを入れ、ライターと一緒にカバンの中に入れる。お菓子もいくらか用意した。天気予報を確認し、折りたたみ傘も準備した。スマートフォンで電車の時間を確認する。できる限り外で待つ時間が少なくて済むように、時間を見計らって家を出た。

 まだ朝の時間だというのに、空は灰色の雲で覆われており、日差しがなく暗かった。だからといって涼しいわけでもなく、湿気がまとわり付いてジメジメと暑かった。駅までの10分程の道のりで、肌がすっかりベタ付いてしまった。駅には乗車予定の電車が既にホームに入っており、待つことなく乗り込むことができた。冷房が効いた車内は、通勤時間も終わり空いている。梨沙は座席の1番端に腰掛け、カバンを膝の上に置いた。

 家の最寄り駅から電車を2度乗り換え、県境を跨ぐ。4、50分ほどで目的の駅に着くことができた。駅に直結しているスーパーで仏花、ロウソク、線香を買い、駅前のロータリーからバスに乗車した。バスは市街地の停留所を経由しつつ街を抜け、次第に山の方へ上っていく。駅では何人かいた乗客も、今では梨沙1人になっていた。

 バスは曲がりくねった山道を進んでいく。梨沙はバスの揺れに身をまかせ、何も考えないように努めていた。今この瞬間に集中し、心を落ち着ける。次第に意識がぼやけ、うつらうつらとまどろんでしまった。

 ピンポン、という音で我に帰る。降車ボタンが赤く光っている。バスの前方のモニターには、次の停留所として梨沙が降りる予定のK市霊園が表示されていた。乗り過ごさずに済んだ、とほっとしてから、誰が降車ボタンを押したのかと気になった。車内には自分だけだったはず。車内を見回したが、やはり梨沙しか乗っていない。寝ぼけながら頭や肩でボタンを押したのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、K市霊園停留所へ着いた。ここへ来るのは、4年振りくらいか。バスを降りた梨沙は霊園の門を抜け、事務所へと向かった。事務所内にある大きなタッチパネルの前に立つ。画面に触れると霊園内の地図が表示された。中央の道を挟んで、両側に同じ大きさの区画がいくつも並んでいる。梨沙は画面を操作して、目的の場所を確認した。自分の娘の墓の場所も覚えていないなんて、ひどい母親だ。これまで、どうしても彼女の死と向き合う強さを持てなかった。逃げることでしか、私は生きて来られなかった。けれど、もうそんなことも言っていられない。

 梨沙は娘の墓がある区画まで来ると入り口に置いてある桶と柄杓を借り、水を入れた。等間隔に並ぶ墓の間を縫い、ゆっくりと歩く。山の上だからか家を出た頃よりは涼しく感じる。空は相変わらずの曇り模様だ。

 前方に、背の低い洋風の墓石が見えた。梨沙は思わず足を止めた。息を吸い、気持ちを落ち着けてから、ゆっくりと歩き出す。墓石の前に来ると、持っていた物を脇に置き、その場にしゃがみ込んだ。目の前の墓石には、“想”の字が刻まれている。これまで、ここに来れば浮かぶであろう記憶、言葉、感情を恐れ続けていた。実際には、それらが思い起こされる余地なんてなかった。ただただ、涙が流れ出た。

 涙を拭い、鼻をすすりながら、梨沙は墓石を磨いた。枯れた花が刺さった花立てを洗い、買ってきた新しい花に替える。ロウソクを点け、線香に火を移し、お菓子を供えた。手を合わせ、目をつぶる。ごめんね、あかり。ごめん。今まで来られなくて。また来るからね。いつかは、今度生まれてくる子も一緒に…

 自分の罪が許されたとは思わない。だからこそ、もっとあかりに会いに来よう。ひとしきり手を合わせてから、梨沙は立ち上がった。顔に水滴を感じた。空を見上げると、暗さを増した雲が川のように流れていた、


<7月15日>
 左手首の端末が振動し、画面に悠人からのメッセージが表示された。

"ごめん、やっぱり今日は残らないと。しばらくは帰れなさそう……。ほんとにごめん"

 梨沙はため息を吐いて窓を見た。まだ18時前だと言うのに外はもう暗く、大粒の雨が激しく窓を叩いている。点けっぱなしのTVでは大雨による警報情報がテロップで流れていた。

 仕方ないよね。悠人は役所勤めだし、避難所が開設されれば閉鎖になるまでは帰れない。市民の安全を守る大切な仕事だ。自分にそう言い聞かせ、悠人へ返信する。

"気にしないで。お仕事気を付けてね。いっそ、私も避難しに行こうか?"

 送ると同時に既読の表示が付き、すぐに返信が来る。

"避難する方が危ないよ。今日中には帰れるように、シフト調整お願いしてみるから。待っててね"

 確かに、この強風雨の中出歩く方が危ない。ここはマンションの6階だし、浸水の心配はない。山手でもないから土砂災害の危険もない。心細いけれど、1人で待つのが最善だ。

"わかった。私のことは気にしないでね。無事に帰って来てね"

 悠人からの"了解"の返信を確認し、端末を切る。天気予報が外れ、思いがけず誕生日の夜を1人で過ごすことになってしまった。ただでさえ大荒れの天気の中で不安なのに、寂しさもあいまって孤独感が強い。気が付くと、無意識にお腹をさすっていた。

 とりあえず夕飯を簡単に済ませ、寝室へと引きこもった。ベッドに腰掛けながら手を伸ばして雨戸を閉め、極力外の音を遮断しようとしたが、こもった風の音とバタバタと戸に当たる雨の音がかえって不穏だった。なるべく落ち着いた雰囲気を演出しようと、リモコンで照明をオレンジの電球色に切り替え、明るさを下げる。サーキュレーターを至近距離で回し、少しでも肌にまとわり付く生温い空気を取り除こうと風を浴びた。

 ネット配信でも観ようか、とタブレット端末で動画の一覧に目を通すも、食指が動くものはない。こういった1人の時間を埋める選択肢として、ヴァーチャルへのダイブが真っ先に思い浮かんでしまう。悠人も良くは思っていないし、自分でもそろそろ卒業しなければと思う。しかしどうしても不安な時、落ち着かない時はダイブしたくなってしまう。

 時間を決めて、少しだけダイブしよう。そう決心し、ヘルメット型のデバイスをベッドの下から取り出す。配線をつなぎ、顔を覆うように頭から装着する。梨沙はお腹を圧迫しないよう、気を付けてベッドに横向きになった。デバイスの電源をオンにすると、真っ暗だった目の前にいくつかのサービスのアイコンが表示された。どれにダイブしようか。梨沙は左下に表示されている、最近利用したサービスの枠を見た。すると、梨沙の目の動きに合わせてチャイルドセラピーのアイコンが大きく表示された。これまで最も長く私を支えてくれたサービス。あかりを亡くし、生きることが死ぬことよりも辛くなりそうだった時期にも、支えとなったのが、ヴァーチャル上で仮想の子どもと過ごすことができるチャイルドセラピーだった。当時プロトタイプだったこのサービスに出会ってから、今でも時々使っている。あかりの身代わりというわけではないが、嘘でも子どもの面倒を見ることで、自分が誰かに必要とされている気になれた。ダイブしている間は、生きていくための言い訳を考えなくて済んだ。私にとってヴァーチャルは避難場所だった。

 梨沙がチャイルドセラピーのアプリケーションを起動しようとしたところで、お腹が内側からポコリと蹴られるのを感じた。そうだ、私は現実の世界でもう一度母親になるのだ。いつまでも虚像に逃げていてはいけない。そう思い直し、チャイルドセラピーをキャンセルする。代わりに、匿名で他人と交流ができるコミュニティ提供サービスに設定し直し、ログインした。

 サービス名が目の前に表示されたかと思うと、一瞬の暗点。次の瞬間には、梨沙はエレベーターのような部屋の中に立っていた。目の前には扉、その右横にはタッチパネルが設置されている。

「ようこそ、リリ様。ご希望のフロアをご選択ください」

 エレベーター内に音声アナウンスが響く。「リリ」というのがこのサービス内での梨沙のニックネームだ。この場所では梨沙のリアルな情報は一切明らかにされない。今、自分の身体だと感じているこのアバターも、サービス内で提供されているパーツを組み合わせて構成したものだ。現実の梨沙とは似ても似つかない。リアルでは肩までの髪も、このヴァーチャルでは腰まで届く長さに設定している。お腹ももちろん大きくはない。

 タッチパネルには、選択できるサービスの種類が表示されている。不特定の者と話ができるもの、特定のアカウントを指名して話すもの、トークテーマごとに形成されたグループに参加するものなど、様々な形態が用意されている。私はタッチパネルを操作し、その中から不特定の者と話をするサービスを選択した。すると、エレベーターのドアが開き、目の前に先が見えないほどの長い廊下が現れた。廊下の両側には奥まで均等にドアが並んでおり、右側の1番手前のドアの上には緑のランプが、その他のドアの上には赤いランプが点っていた。赤ランプは誰かが既に入室済みであり、緑ランプは空室を意味している。

 梨沙はエレベーターを出て、緑ランプが点っているドアを選んだ。赤ランプの部屋に入って既に複数人で話が始まっていたら、スムーズにその輪の中に入れる自信がない。ヴァーチャルといえど、気後れする性格からは完全には抜け出せない。

 部屋に入ると、そこは喫茶店のような薄暗い空間だった。2人がけのソファが低いテーブルを挟んで2台置いてある。奥の壁には一面に草原の映像が映し出されており、ヒーリングミュージックのようなBGMが流れていた。

 梨沙はソファに腰掛け、壁の映像とBGMを切るように声で指示をした。瞬時に、動くもののない静かな部屋へと変わる。無機質な空間であるほど、現実から隔離されたヴァーチャルの世界だという気分がして落ち着きを感じる。

 さて、誰かが入って来るまでどう過ごそうか。梨沙はテーブルの天板に軽く触れた。天板はタッチパネルにもなっており、この部屋で利用できる各種サービスが表示された。その中から書籍サービスを選択し、表示された雑誌の表紙の内から適当に1つ選んでタッチする。選択された雑誌は天板から立体的に浮き上がり、手に取れる冊子としてテーブル上に出現した。それをパラパラとめくり、何に注目するでもなく流し読む。体験としては、現実世界で雑誌を読むのとほとんど変わりないが、煩わされるものが何もないこの空間だからこそ得られる安らぎがあった。

 しばらく雑誌をめくっていると、チャイムのような電子音が鳴った後、"入室希望者1名、待機中"と音声アナウンスが流れた。誰か来たようだ。梨沙は雑誌を置き、1呼吸おいて入室許可を告げた。居住まいを正し、ドアの方を向く。しかし、しばらくしてもドアは開かず誰も入って来ない。おかしいなと思いもう1度入室許可を告げたが、“現在、入室待機者はいません”というアナウンスが流れた。

 入室をキャンセルしたのだろうか。肩透かしだな、と息を吐きソファにもたれた。そしてもう1度テーブル上の雑誌に手を伸ばそうとしたところで、梨沙はピタリと動きを止めた。何か聞こえた気がする。足音? 梨沙はドアの方を見る。ドアには依然として動きがなく、誰の姿も見えない。気のせいか。それはそうだ。そもそもこのヴァーチャルサービス内で足音なんか聞いたことがない。このサービスではそこまで現実どおりに再現されていない。

 気を取り直して雑誌を手に取る。どこまで読んだっけ、とパラパラとページをめくっていると、突然部屋の明かりが消えた。梨沙は驚いてソファから立ち上がり、その場で硬直する。何が起きた? 手に持った雑誌やソファの存在は触覚で感じる。サービスが完全に停止してしまったわけではなさそうだ。

「退室させてください」

 試しに声を上げてみたが反応はない。一時的なサービスの不具合だろうか。どうしよう。突然の事態に動けないでいると、不意に背後でパタパタと足音が聞こえた。梨沙はギクリとして振り向く。暗闇しか見えない。でも、誰かがいる。足音が断続的に聞こえている。子どもが走っているかのような軽い音だ。見えないとわかっているのに、足音がした方を向いてしまう。同時に聞こえる足音は1つだけ。子どもが1人、走り回っているような気配。

 もう1度退室を試みてみたいが、声が出ない。声を上げるのが怖い。でも、いつまでもこうしているわけにもいかない。梨沙は息を殺して、少しずつドアがあるはずの方向へ進んだ。足音のする方には近付かないよう、音がした方向に首を向けながら慎重に後ずさる。ふと、踵に何かが触れた。びくっとしたが、どうやら部屋の端までたどり着いたようだ。後ろ手にドアノブを探す。中々見つからない。まさかこのまま出られないなんてことは……。 梨沙は浅い呼吸を繰り返しながら忙しなく手を動かす。右手に硬い物が触れた。すぐにそれを掴む。見つけた、ドアノブだ。梨沙はドアを開けようと急いでノブを回した。しかし、ドアは施錠されているかのように開かない。ガチャガチャと何度もノブを回し、ドアに身体を押し付けるがびくともしなかった。何なの……? 一体どうなっているの?

 動かないドアを押しながら、ふと部屋が静かなことに気が付いた。足音が止んでいる。聞こえるのは自分の息遣いだけ。どこにいる? ドアを開けるのに夢中で、最後に足音が聞こえた位置は覚えていない。周りを見回す。相変わらず一面の暗闇。いや、何か光って……? 部屋の中央、テーブルの上にオレンジ色の明かりがチラチラと灯った。部屋を照らすにはとても足りず、暗闇の中、テーブルの上で小さく揺れている。ロウソクだ。1本だけ? 土台になっているのは、ケーキ?

 よく見ようと目を凝らしたところで、梨沙はハッと息を飲んだ。ロウソクがあるテーブルの向こう、暗がりの中に誰かが立っている。小さな女の子? 顔は暗くて見えない。花柄のワンピースを着ていることがロウソクの火で確認できる。緑地に白の花柄だ。あのワンピースの柄は、まさか……。鼓動が早まる。息が思うように吸えない。梨沙はドアに背中をくっつけたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。ぴしゃり、と床についた手が水に触れる。いつの間にか床が濡れている。顔を上げると、女の子のワンピースもずぶ濡れになっており、ポタポタと水を滴らせている。

「あかり……?」

 声に出しながら、そんなはずはないと自身で否定する。あかりは死んだのだ。こんなところに、いるはずがない。

 部屋の中にオルゴールのような音楽が流れ始めた。ハッピーバースデーの歌だ。女の子は、こちらを向いたままじっと立っている。

「許して……」

 女の子はじっと動かない。ただこちらを向いて立っている。顔が見えないので、どのような表情をしているのかはわからない。やがて、オルゴールが鳴り止んだ。同時に、突然ロウソクの火が消える。真っ暗闇に包まれた瞬間、梨沙のお腹を濡れた冷たい手が掴んだ。


 梨沙は悲鳴とともに飛び起きた。勢いで頭に装着していたデバイスが外れる。動悸が激しく、息が苦しい。梨沙は周りを見た。見慣れたマンションの部屋だった。寝室のベッドの上にいる。現実だ。お腹を確認する。特に異常はない。あれは何だったの? あれは、あかり? そんなはずは……。

 突然、寝室の扉が開いた。驚いてそちらを見ると、悠人が顔を出した。

「ただいま。ごめん、おどかした?」

 梨沙は答えられず、泣きそうな顔で悠人を見つめることしかできない。

「どうした?」

 悠人がこちらへ来てベッドに腰掛けた。心配そうな顔をしている。

「ちょっと、怖いことがあって。 いや、よくわからないんだけど……」

 梨沙は震える声で何とか答えた。

「怖い夢でも見た?」

 夢? あれは夢だったのだろうか。それにしてはリアルだった。ヴァーチャルの中なのにリアルというのもおかしいが、お腹に触れられた感触がしっかりと残っていた。しかし、確かに夢としか思えないような体験だった。

「そう、夢だったのかも」

 梨沙は無理に笑顔を作りながら、自分に言い聞かせるように言った。


 その夜、梨沙はまた同じ夢を見ていた。河原。水色のサンダル。警察の安置所。部屋の真ん中には、やはりストレッチャーに乗った黒い袋があった。これは夢なのだと自分に言い聞かせるも、こみ上げる感情は制御できない。梨沙は目を閉じた。大丈夫、じきに目が覚める。

 突然、カサッという音がした。梨沙は驚いて目を開ける。確かに、目の前の黒い袋から音がした。

「あかり……?」

 震える手で袋のジッパーの引き手をつまむ。少しずつ、ゆっくりと下ろしていく。拳大ほど口が開いたが、中は不自然に暗く見えない。もう少し開こうと手に力を入れた。瞬間、袋の中から伸びた手が梨沙の手首を掴んだ。

 ハッと息を呑み、梨沙は目を覚ました。暗い寝室。ベッドから体を起こす。さっきまでの夢の余韻で、動悸は高まったままだった。前に見たのと同じ夢だったが、最後の展開は初めて見るものだった。きっと、ヴァーチャルでの体験が影響しているのだろう。不安が胸の内で膨らむ。深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとする。大丈夫、ここは現実だ。辛い時間はもう過ぎ去ったはずだ。

 ベッドの隣の悠人に目をやる。悠人には相談できない。悠人と結婚する前に娘がいたことや、彼女を事故で亡くしたこと、それが原因で元夫と別れたことは悠人に話している。悠人はそれでも私と一緒になることを選んでくれた。話せばきっと力になってくれるだろう。けれども、やはり前の夫との子どもの話を悠人にするのは気が引ける。悠人だって良い気持ちがするわけがない。やっぱり相談はできない。

 心細さに泣きそうになる。1度水でも飲んで落ち着こうと、梨沙は立ち上がるためにベッドに手をついた。その時、左手首にヒリつくような痛みを感じた。寝室を出て扉を閉じ、ダイニングで明かりを点ける。左手首に巻いていた端末を外すと、強く握られたかのような赤い跡が浮き上がっていた。


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