リバース【短編ホラー小説】(2/5)
<7月19日>
梨沙はダイニングテーブルの上に並んだ朝食を見つめていた。思い出したかのようにそれを口に運んだと思えば、また動きを止める。ここ数日、繰り返し同じ夢を見ていた。眠るのが怖く、夜遅くまで起きるようになっていたが、気が付けばまた黒い遺体袋の前に立っている。回数を重ねるごとに夢は現実感を増していた。そして目を覚ますたびに、罪の意識と恐怖が喉を締め付け、不安が心臓を揺らす。梨沙は日に日に自分が消耗しているのを感じていた。
「梨沙、大丈夫? 体調良くないんじゃない?」
テーブルを挟んで座っている悠人が心配そうに声をかけてきた。
「ううん、大丈夫……」
我ながら愛想が悪いなと思いながらも、低い声で1言返すのが精一杯だった。
「でも、最近ずっとそんな感じじゃん。聞いても何も言ってくれないし、心配だよ」
「ほんとに、何でもない」
ぶっきらぼうな私の言葉に、悠人がふぅっと息を吐く。
「俺、何かした? 何で話してくれないの? 一緒に住んでるのに、俺、どうしようもないじゃん」
「ごめん……」
悠人を困らせたくはないが、やはり夢のことは話せなかった。話さないなら悠人の前では普通に振る舞うべきだと思うが、それも今の自分には難しい。“何かあったらいつでも言ってね”と言い残して、悠人は席を立った。梨沙は、洗面所へ向かう悠人の背中を見つめることしかできなかった。
◆
悠人が仕事に出掛けた後、梨沙は部屋に干しっぱなしにしていた洗濯物を畳んでいた。単純作業に集中していると余計なことを考えずに済み、いくらか気持ちが楽だった。外は今日も雨降り模様だ。洗濯物は乾かないし、じめじめとして気が滅入ってしまう。早く梅雨が明けてくれないものか。
黙々と洗濯物を片付けていると、梨沙はふと雨音以外の物音に気付いた。パタパタという足音。咄嗟に周りを見る。誰の姿もない。部屋には自分1人だけだ。しかし耳を澄ますとやはり子どもの走るような足音が聞こえる。梨沙の脳裏に誕生日の出来事がよぎった。嫌な汗が滲む。ここは現実だ。ヴァーチャルでも夢の世界でもない。あんなこと、起こるはずがない。そう考えながらも、次第に動悸が激しくなる。
じっと身構えていると、足音が1つの方向からしかしないことに気が付いた。足音は止んだり鳴ったりを繰り返しているが、ヴァーチャルで体験した時のように、方々から聞こえるという感じではない。梨沙がいるリビングと引き戸を挟んだ向こう側、ダイニングの方からだ。しばらく耳を澄ましていると、ピタリと足音が止んだ。梨沙は息をひそめて、足音がしていた方向を見つめた。部屋はじっとりと暑く、額から汗が流れた。
梨沙はゆっくりと立ち上がり、ダイニングの方へ向かった。見たところ誰もいない。念のため、ダイニングテーブルの下やキッチンカウンターの中も覗いてみたが、もちろん誰もいない。当たり前だが、ではあの足音は? 幻聴? 私がおかしくなってしまったのだろうか。それとも、あかりの……。
リビングに戻ろうとしたところで、キッチンカウンターのダイニング側に備え付けられた棚の上で、何か光っているのが目に入った。スマートスピーカーの電源が入っている。朝から一度も使っていないはずだが……。まさか、足音はここから鳴っていたのだろうか? だとしたら、一体なぜ……?
突然、チャイム音が響いた。梨沙はびくりと体を震わせた。スピーカーではない。来客を知らせるチャイムだ。驚かせないでよ、とため息を吐きながらドアホンに向かい応答する。宅急便だ。既にドアの前まで来ている。オートロックマンションなので、既に何軒か回った後なのだろう。荷物を受け取り、宅配業者のタブレット型端末にサインをした。
受け取った荷物の品名は「靴」と書かれている。差出人の記載はない。悠人がネット通販ででも購入したのだろうか。しかし、悠人の靴にしては箱が小さいような気がする。もしかして私に? いや、私の物にしても箱が小ぶり過ぎる気がする。梨沙は気になって段ボール箱を開けた。中から更に1回り小さい白い箱が出てきた。知らないブランド名が筆記体で書かれている。箱を開いて中を確認した途端、梨沙は短い悲鳴を上げてそれを落としてしまった。どうしてこんな物が……。落とした箱の中からは、小さな水色のサンダルが転がり出ていた。
◆
悠人はエレベーターの6階のボタンを押した。階数が表示されている液晶には、現在の時刻も表示されていた。まだ19時前だ。比較的早く帰ってこられたというのに、悠人の気は重かった。最近、梨沙の様子がおかしい。1人でふさぎ込んで、まともに会話をしてくれない。俺が何か気に障ることをしたのかと聞いても、そうじゃないと言う。雰囲気を明るくしようと懸命に話題を考えて話しかけても、二言三言話しただけで梨沙はまた黙り込んでしまう。ずっと1人で考え事をしているような様子だ。目の前の俺のことなんてどうでもいいみたいに。悠人は、梨沙のことが心配な一方で、己の殻に閉じこもる梨沙にいら立ちも感じていた。
出会った頃もそんな風だったな、と悠人は思い返す。あの頃は俺も学生で余裕があったし、梨沙を励まし続けることも苦じゃなかった。でも今は仕事もあり、生まれてくる赤ちゃんのこともある。やらなければならないことも、考えなければならないこともたくさんある。自分にも余裕がない中で梨沙を気にかけ続けることに、少し疲れてしまった。
エレベーターのアナウンスが6階への到着を告げた。こんな頼りないことではだめだ、と気を取り直し、悠人は自宅の扉へ向かった。2人で幸せな家庭を築くために、今は自分が頑張る時だ。扉の前で1度深呼吸し、笑顔を作ってからドアを開けた。
「ただいま!」
努めて明るく出した声に、応えはなかった。いつもなら梨沙が出迎えに出てくるはずだった。
「梨沙?」
中に向かって呼びかけながら靴を脱ぐ。やはり返答はない。何かあったのか? 突如として不安に駆られ、悠人は急いで廊下を進み、突き当りのドアを開けてダイニングへと入った。すると、右手にある開け放した引き戸の向こう、リビングに座っている梨沙の背中が見えた。とりあえず梨沙の身に危険があるわけではなさそうだ。少しほっとして、悠人は梨沙の方へ近付いた。
「梨沙? どうしたの?」
返答はない。悠人は梨沙の前に回り込んだ。梨沙はうつろな表情で目の前に置いた物を見つめていた。
「悠人、これ」
梨沙が自分の前に置いた水色の小さなサンダルを指さした。
「サンダル?」
「悠人が注文したの?」
「え? いや、覚えは……」
「なんでこんなことするの?」
悠人が言い終わる前に梨沙が問いかけた。その声は涙混じりだった。
「梨沙?」
「悠人まで私を責めるの? 私を許してくれないの⁉」。
「ちょっと……。梨沙、何を怒ってるんだよ!」
「怒ってない! 怖いのよ……」
梨沙が嗚咽を漏らして泣き始めた。悠人には梨沙の泣いている理由がわからなかったが、梨沙が相当参っていることはわかった。悠人は梨沙の横にしゃがみ、震えている彼女の体をそっと抱きしめた。
「大丈夫、落ち着いて。大丈夫……」
声をかけながら悠人は考えた。梨沙が泣いているのは、ここ数日様子がおかしかったことと無関係ではないだろう。そして梨沙の口振りから察するに、おそらく過去に子どもを亡くしたことと関係があるのではないか。梨沙は、子どもを亡くしたことでずっと自分を責めている。出会ったばかりの頃は、死ぬことも考えてしまうと口にしていた。それから3年ほど経ち、今では自責の念を口に出すことはほとんどなくなったが、その思いは依然として梨沙の中に強く残っているのだろう。
梨沙が子どもを亡くした時の話は詳しく知らない。梨沙は自分から話さないし、俺も聞かなかった。過去の辛い記憶をわざわざ掘り返すことはない。これからの未来に向けて、梨沙を支えていければそれでいいと考えていた。しかし、今の梨沙の様子ではそうも言っていられないのかもしれない。梨沙にとって、子どもを亡くしたことはきっとまだ過ぎ去ってはいないのだ。悠人は、梨沙を抱く腕に力を込めた。
梨沙が落ち着いてきたところで、悠人は有り物でご飯を作り、梨沙と2人で夕食を済ませた。梨沙は食欲がないと言ったが、作った料理はあらかた食べてくれた。体調は悪くないようで少し安心できた。悠人が洗い物を済ませる間、梨沙はダイニングテーブルに座ったまま、じっと考え事をしているようだった。梨沙にも気持ちと考えを整理する時間が必要だろうと考え、悠人はあえて梨沙に話しかけなかった。
洗った食器を拭いて水切り籠に移し終え、悠人はダイニングテーブルに戻った。梨沙は黙って俯いているが、落ち着きはしたように見える。そろそろ、梨沙にさっきのことを尋ねても大丈夫だろうか。悠人がどう切り出したものかなと考えていると、梨沙の方から口を開いた。
「さっきは、急に、ごめん…」
「いや、もう大丈夫?」
「うん。いや、どうかな。大丈夫だと思う、けど……」
話を進めていいのか迷ったが、悠人は切り出すことにした。
「なんであんなに泣いていたのか、教えてくれる? 怖いって言ってたよね。あのサンダルが原因?」
「それだけじゃないけど……。ねえ、ほんとに悠人が注文したんじゃないの?」
「俺じゃないよ。梨沙じゃないの?」
悠人の問いかけに梨沙が頷く。
「それ、何か亡くなった子に関係が?」
そこで梨沙が少し間を置いた。何かを話すことをためらっているように見える。悠人は梨沙を焦らせてはいけないと思い、黙っていた。しばらくして、梨沙が小さな声でつぶやいた。
「あのサンダル。あの子が……あかりが死んだ時に履いてたのにすごく似ていて……」
それから梨沙は少しずつ、ここ数日に起こったことを話し始めた。誕生日に起きたヴァーチャルでのこと、繰り返し見る夢のこと、家の中の足音と、タイミングを計ったように届いたサンダルのこと。そして最後に梨沙はこう言った。
「ねえ。霊とかって、いると思う?」
もちろん、あかりちゃんの、ということだろう。確かに、起こったことを考えると梨沙がそう考えてしまっても無理はないのかもしれない。しかし、霊というのはにわかには信じられない。ヴァーチャルでのことは、梨沙が精神的に不安定になって幻覚を見てしまっただけかもしれない。サンダルのことだって、誰が送ったのかはわからないが、ただの偶然で片付けることもできる。しかし、それで済ませてしまうには梨沙があまりにも憔悴している。悠人自身も納得する説明ができず、不気味さを感じていた。何か明確な答えがないと、梨沙はいつまでも安心できないだろう。しかし、悠人にはうまい説明が思いつかなかった。
「最初に、ヴァーチャルでのことがあってからおかしなことが続くようになったんだよね?」
「うん」
「霊とかはわからないけど、もしヴァーチャルに関係があることなんだったら、教授に相談してみるって言うのはどう?」
「北条先生?」
「そう、どうかな?」
梨沙はすぐに答えなかった。こんなことを相談するなんて、気が進まないのだろう。悠人は迷っている様子の梨沙の手を握った。
「教授ならちゃんと話を聞いてくれると思うよ。最近はあんまり連絡してないんだよね?もうすぐ生まれる赤ちゃんの近況報告も兼ねてさ。教授も、梨沙と話せたら喜ぶよ」
「そう、かな。そうね。そうしてみようかな」
今日はもう遅いので、明日悠人から北条に連絡を取ることになった。これで少しでも安心できる材料が得られればいいのだが。
<7月14日>
悠人はタブレット型の端末を立ち上げ、オンライン会議用のアプリケーションを起動させた。北条に連絡を取ったところ、とりあえず1度オンラインで話をしようということになった。今日がその約束の日だった。梨沙は洗面所で化粧をしている。北条と直接話をすることに緊張しているようだった。悠人も、北条とは1年以上顔を合わせていない。多少の緊張は感じるが、どちらかというと懐かしさの方が強かった。
悠人は学生時代、北条の授業の手伝いをしていた。北条はヴァーチャルを活用した心理療法に関する研究を行っている。もっとも、悠人は北条に学問を師事しているわけではなく、単なる学内アルバイトとして事務的な手伝いをしていただけなので、その分野には明るくない。
梨沙と出会ったのは、このアルバイトがきっかけだった。梨沙は北条が開発に携わっていたヴァーチャルセラピーの被験者だった。北条の研究室で度々顔を合わせ、次第に話をするようになっていった。北条は、梨沙の回復がセラピーの効果なのか、悠人と過ごしている影響なのかわからないと冗談めかして文句を言っていたが、2人が仲良くしていることを喜んでくれていた。2人が会う機会を積極的に作ろうとしていたようにさえ感じる。結婚を報告した時は、自分が2人のキューピッドだと言わんばかりだった。
悠人が回想に耽っていると、梨沙が洗面所から戻ってきた。
「準備できたの? もう時間?」
梨沙が緊張した面持ちで聞いた。
「タブレットは準備完了。まだ約束の時間までは少しあるよ」
「うまく話せるかな……」
「ゆっくりでも、教授ならちゃんと聞いてくれるよ」
「変なこと相談して、また私、悪くなったって思われちゃうかな? せっかく治ってたのにって。がっかりさせてしまうかもしれない」
「大丈夫だよ、そんなこと気にしなくても」
梨沙は悠人が大学を出てからも、北条が完成させたチャイルドセラピーを利用しながら定期的に北条に自分の状態を報告していた。1年ほど前に、もう心配はないだろうと報告は打ち切りになり、梨沙の治療は完了という形になった。それからも梨沙は個人的にチャイルドセラピーの利用を継続しているが、北条とはやり取りしていなかった。久々の連絡がこのような形となり、梨沙としては申し訳ないような気持ちなのだろう。
「ちょっと早いけど、そろそろアクセスしようか」
梨沙が頷いたのを確認し、悠人はタブレット端末を操作して事前に北条と打ち合わせておいたミーティングルームを呼び出した。すると、既に相手が待機しており、画面に北条の姿がバストアップで映し出された。背景は研究室とは別の場所に見える。どうも車の座席に座っているようだ。
「お、鳴海くん。久しぶりだねぇ。元気そうじゃないの」
「ご無沙汰しております。教授もお変わりないようで」
北条がニコリと笑って頷く。オールバックの長髪を後ろで束ねた見慣れた髪型に、短く刈り込んだ顎ひげ。相変わらず、ぱっと見ただけでは大学の教授だとは思えない風貌だった。もう50歳近くになるはずだが、見た感じは年齢よりもずっと若い。
「市井くんも、久しぶり」
「ご無沙汰してます、先生」
結婚する前からの付き合いのため、北条は今でも梨沙のことを旧姓で呼んでいた。
「ちょっと出先なもんで、車の中からで失礼させてもらうよ。この後も少し予定があってね。さて、まずは2人の近況でも、と言いたいところだけど、先に本題を片付けちゃおっか。気になってそれどころじゃないでしょ」
北条に促され、悠人は梨沙の身に起こった話をかいつまんで説明した。梨沙がそれに補足的に情報を付け加えていく。北条は、時々相槌を打ちながらも口を挟むことなく最後まで話を聞いた。
「うーん、なんとも不気味な話だね」
北条は顎ひげをさすりながら少し上の方を見た。これは北条が次にどう話を進めるべきか迷っている時に見せる仕草だ。しばらく考えたのちに、北条が切り出した。
「市井君は、どう感じているの? 今回のようなことが起こって、どう思った?」
「私は、その、あかりが私を恨んでいるのじゃないかって。なんというか……」
そこで梨沙が言葉を止めた。北条は黙って梨沙が続けるのを待っている。
「なんというか、霊のようなものの仕業なんじゃないかって」
「霊、か。霊はどうしてこんなことをしていると思う?」
「私が、新しい子と幸せになろうとしているから。あかりを死なせておいて……」
梨沙の声が震えた。泣き出しそうなのを我慢しているようだ。
「今回の件で市井君は、後ろめたさを感じているということかな。罪悪感というか」
「そう、ですね。罪悪感はあります。でも、それ以上に恐怖も……」
「何が怖い?」
「あかりが、お腹の子に何かするんじゃないかって。もしまた、失ってしまったら……」
梨沙の目から涙がこぼれ出た。悠人は梨沙の背中をさする。
「梨沙、大丈夫? 少し休憩しようか?」
悠人の問いかけに、梨沙が首を横に振って答える。
「大丈夫。すみません、先生。続けてください」
北条は梨沙の様子を確認するようにじっとこちらを見つめてから口を開いた。
「分かった、続けよう。市井君は、最近ヴァーチャルへダイブした? 誕生日の出来事があってから、サービスを利用した?」
「いえ、利用していません。怖くて。チャイルドセラピーも、ずっと利用はさせてもらっているんですが、このところは……」
「そうか……」
北条がまた顎ひげに手をやった。梨沙は不安げに画面を見つめている。
「あの、教授。今回のことはヴァーチャルでの体験から始まっています。ヴァーチャルの専門家として、何かお気付きのことはありませんか」
悠人の問いかけに、北条がううんと唸る。
「申し訳ないんだけど、民間企業が提供しているサービスのことについては明るくなくてね。正直、僕にも何が起こったのかはあまりわからない」
「教授も、霊の仕業だと思いますか」
「僕は、もともと霊は信じていないからねえ。僕が専門家として言えるのは、市井君にはケアが必要だということ」
北条の言葉に、梨沙が顔を上げる。
「私、以前の状態に逆戻りになってしまったのでしょうか」
「いや、そういうわけではないよ。今回起こったことへのリアクションとして、今は一時的に不安定な状態になっているだけだと思う。それに、市井君はお腹の子に脅威が及ぶことが怖いと言った。これは、市井君が母として子どものことやその将来のことを考えている証拠だ。君は前向きになれているよ」
「そうなんでしょうか」
「そうだよ。でも、恐怖は強いストレスだからね。対処が必要だ」
「どうすれば……」
「1番良いのは、気にしないことなんだけどね。誕生日の出来事はあくまでヴァーチャルの中の話だ。現実に危害は加えられていない。夢はその影響を受けてしまっただけだろうしね」
梨沙は今一つ納得できない様子だ。しかし北条は気にせず続ける。
「手首のあざだっけ? 市井君はウェアラブルデバイスを着けているんだよね? それが原因でかぶれて赤みが出るのはよくあることだし、場合によっては低温やけどになることもあるらしい。確かに色々なことが連続して起きていて不可解に感じる。けれども、1つ1つに説明を付けようと思えばできないこともない。気にしすぎて不安定になってしまうのが1番怖いよ。」
悠人は、教授にしては少し強引な話運びだなと感じた。こちらの相談内容も相談内容なので、これくらいしか言えることがないということなのだろうが。
「2人とも、そう言われてもって顔だね。どうだろう、まずはヴァーチャルに対する恐怖を払拭するために、1度大学の方へ来てみない?」
「先生のところに、ですか?」
「うん。こっちならスタンドアローンのヴァーチャル空間へダイブもできるし、やっぱり直接話もしたいしね。僕としては、1度ヴァーチャルへダイブしている間の市井君の状態を詳しくデータで確認してみたい。客観的な数値から何かわかることもあるかもしれないしね」
最終的に8月の頭に大学へ訪問させてもらうこととなり、北条との面談は終了した。細かい日時はまた調整しようということになった。梨沙は緊張が解けて疲れを感じたのか、少し横になると言って寝室へ入っていった。
悠人がタブレット端末を片付けていると、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。確認すると北条から、さっきの件で少し話ができないか、とメッセージが届いていた。できるだけ梨沙に聞かれないように、とのことだ。
悠人は、仕事の電話に出ると寝室の梨沙に声をかけてから外へ出た。エレベーターで下に降りてマンションから出ると、途端にねっとりとした熱気に包まれた。もう正午も近く、厳しい日差しが降り注いでいた。日傘を持ってくればよかったと後悔しながら、悠人はマンションのすぐ目の前にある小さな公園に入り、ベンチに座った。スマートフォンを取り出し、北条の電話番号をコールする。呼び出し音が1コールも鳴り終わらない間に、北条が応答した。
「もしもし、鳴海君? いや、すまんね。うるさくない? 聞こえる?」
外にいるのか、車の走る音や蝉の声などが北条の声の後ろに聞こえた。
「大丈夫です。それで、さっきの件でのお話というのは……」
「うん。ちょっと気になることがあってね。変に市井君にストレスを与えてしまってもいけないと思って、さっきは言わなかったんだが」
「なんでしょう?」
「鳴海君はさっき、僕に霊の仕業だと思うかと聞いたよね。これ、鳴海君はどう考えてるの?」
悠人は、やはりそこに関する話なんだなと思った。オンラインでの面談で北条はこの話題についてあまり触れず、少し強引に話題を転換させていたように感じていたからだ。
「俺も霊というのはちょっと信じられません。自分が体験したことではないからかもしれませんが……」
「霊じゃないとしたら、なんだと思う?」
「最初は、梨沙が幻覚か何かを見ただけなんじゃないかと思ったんですが……」
「家に荷物が届いたっていうのがね。気持ち悪いよね」
「ええ……」
「届いたタイミングも荷物の中身も、やっぱり作為的な感じがするしね。鳴海君、僕は、今回のことは人間の仕業なんじゃないかと感じるんだよね」
北条の言葉に、悠人はドキっとした。悠人もその可能性を考えてはいたのだが、できれば教授には否定してほしかった。霊よりも、実在する何者かによる行為だと言われる方が悠人にとっては余程恐ろしく感じた。
「正直、俺もそう感じています。でも、ヴァーチャルでのこととか、実際そんなことをするのは可能なんでしょうか? それに、何のためにこんなことをするのか……」
「好意的でないことは確かだよね。可能か不可能かについて言えば、可能ではあると思う。ハッキング技術が必要だし、もちろん犯罪だからリスクもあるけどね。専門家を雇ったりしないと、個人ではなかなか難しいんじゃないかな」
「そこまでして、誰が、何のために……」
「何のためかはわからないけど、誰がっていうのは絞れる気がするよね」
「梨沙の近しい人、ということですか?」
「そう。市井君の誕生日だったり、あかりちゃんのことを知っている人。それも、ヴァーチャルに出てきたあかりちゃんの服装やサンダルが忠実に再現されていることから考えるに、当時の事故の詳細まで知っている人」
悠人の手に汗が滲んだ。スマートフォンを握る手に力が入る。
「例えば、あかりちゃんのお父さんとか……」
「僕も真っ先にそれが思い浮かんだよ。でも単なる憶測だ。曖昧なことを言って市井君の不安をあおってはいけないと思って、こうして君にだけ話している」
「警察に相談すべきでしょうか」
「今のところ、実害と言えるのはスマートスピーカーのハッキング疑惑だけだろう? ヴァーチャルでのことについては、もしハッキングされていたのならサービスを提供している運営会社が被害者になるだろうし。今の状況で、警察がどれくらい動いてくれるか……」
「そう、ですね」
「今はとにかく、市井君のケアを最優先にしよう。もし彼女が、もう1度子どもを産むことを恐れるようになってしまったら最悪だ。僕も協力する」
「ありがとうございます」
それから大学訪問について2、3確認を行い、悠人は電話を切った。ベンチから立ち上がり、正面のマンションを見上げる。梨沙を1人にしたことが急に不安になり、悠人は急いで公園を後にした。
◆
来客を告げるチャイムで、梨沙は目を覚ました。悠人が出てくれるかなと思いそのままベッドに横になっていたが、再びチャイムが鳴った。そういえば電話に出るとか言ってたんだっけ、と悠人の言葉を思い出し、梨沙はベッドの上で体を起こした。立ち上がるのが億劫だなと感じたが、3回目のチャイムが鳴ったので仕方なく寝室を出る。誕生日の出来事も初めは来客のチャイムからだったなと思い、ぞくりとした。しかしあれはヴァーチャルでの話だ。先生も気にしすぎる必要はないと言っていたじゃないか。4回目のチャイムが鳴り、梨沙は慌ててダイニングの壁に据えられたドアホンの方へと向かった。もしかして悠人が鍵を忘れて出ていってしまったのかもしれない。
応答しようとドアホンの画面を確認し、梨沙は思わず悲鳴を上げた。画面には、ドアの前に立っているあかりの姿が映し出されていた。うつむいているため顔は髪の毛で隠れており、髪からは水が滴っている。花柄のワンピースも濡れて体に張り付いていた。
梨沙はどうしていいかわからず、その場から動けなかった。突然のことに思考がまとまらない。これは現実なのだろうか。この少女は、本当にあかりなの? 梨沙は廊下の先に見える玄関扉の方をちらりと見た。梨沙の呼吸が浅くなり、動悸が激しくなっていく。気が付くと、梨沙はゆっくりと応答ボタンの方に手を伸ばしていた。ボタンに触れ、あと少し指に力を込めれば通話が開始されるというところで梨沙は動きを止めた。私は、何を話そうとしているのだろう。梨沙は自分の感情がわからなかった。最も強く感じているのは恐怖。そして、お腹の子を守らなければという危機感。しかし同時に、画面に映る少女に対して哀れみも抱いていた。水で垂れ下がった髪が、青白い腕が痛ましかった。もし本当にあかりなのだとしたら、彼女に恐怖を感じている自分は最低なんじゃないだろうか。梨沙の目から涙が流れた。この涙は、一体何に対する涙なのか。
一定時間応答がなかったため、ドアホンの画面に表示されていた映像が消えた。黒い液晶には、涙で濡れた梨沙の顔が映っていた。突然、ガチャリと鍵が開く音がした。梨沙は驚いて廊下の先に見える玄関扉を見つめた。鼓動が速さを増し、体が硬直する。ドアが勢いよく開く。その先に姿を現したのは悠人だった。悠人と目が合う。急激に体から力が抜け、梨沙はその場に座り込んだ。
「梨沙! 大丈夫?」
悠人が慌てて靴を脱いで駆けつけてきた。悠人に応えなければと思ったが、声が出なかった。代わりに涙がこぼれた。
「何かあった?」
悠人が心配そうに、そっと梨沙の肩に手を置いた。
「今、そこに……」
何とか声を絞り出したが、そのあとは言葉にならなかった。
梨沙はティッシュで鼻をかみ、涙を拭いた。悠人から水の入ったグラスを受け取り、ゆっくりと飲み干す。グラスをダイニングテーブルに置き、大きく深呼吸をした。
「大丈夫? 落ち着いた?」
梨沙は悠人の問いに頷いて答えた。
「何があったか、教えてくれる?」
「うん。さっき、1人で寝てる時にチャイムが鳴って。それで出ようと思ってドアホンのところに行ったら、画面に、あかりが映ってた」
「あかりちゃんが?」
「ほんとに、悠人が帰ってくる少し前まで、ドアの前にいたの」
「帰る時には誰ともすれ違わなかったけど……」
「ほんとにいたのよ! ずぶ濡れで、ドアの前に立ってた」
「でも、ドアの前は全然濡れてなかった」
「確かに、見たのよ……」
あれは幻覚だったのだろうか。それとも、私にしか見えない、あかりの魂だとでも言うのだろうか。
「そうだ。ドアホンの録画」
そうつぶやいて、悠人が椅子から立ち上がった。ドアホンのところへ向かう悠人を追って梨沙も立ち上がる。そうか、ドアホンには録画機能がある。もし本当にあかりがチャイムを鳴らしていたのなら、直近の録画にその姿が映っているはずだ。悠人がタッチパネルを操作するのを後ろから覗きこむ。
「最後の録画は、ついさっきだ」
振り向いた悠人と顔を見合わせる。悠人も緊張しているようだった。悠人がドアホンに向き直り、再生ボタンをタッチする。悠人が体を少し横へずらしてくれたので、梨沙は悠人の右に並び、2人で画面を見た。映し出されていたのは、無人の廊下だった。ドアの前には誰も立っていない。
「そんな……」
ついさっき、この目ではっきりと見たはずなのに。自分の記憶と目の前の事実との食い違いに、梨沙は急激に現実感が薄れていくように感じた。まるで悪い夢の中にいるようだ。自分の精神がおかしくなってしまったのではないかと不安になる。梨沙は助けを求めるように悠人を見た。悠人は繰り返し録画を再生し、画面を確認している。
「録画が残っているということは、チャイムが鳴らされたのは事実なんだよな」
悠人の言葉に、梨沙は少し気を取り直した。確かにそうだ。姿は録画に残っていなくとも、誰かがチャイムを鳴らしたというのは現実に起こったことだ。
「やっぱり、あかりが私を恨んで会いに来てるんだと思う」
梨沙の言葉に悠人が振り向いた。梨沙は悠人の目を見て続ける。
「私、この間あかりのお墓に行ったの。ずっと行けてなかったけど、ちゃんとしなきゃと思って。あかりに謝って、それでお腹の子のこと報告したの。許してねって。でも、あかりは許してくれなかったんだ」
「梨沙、違うよ」
「ううん。そうなのよ。あかりが私を……」
「梨沙!」
悠人が梨沙の両肩を掴んだ。梨沙は驚いて悠人の顔を見た。こんなに険しい表情をしているのは見たことがなかった。
「梨沙、これは人間の仕業だよ。誰かが梨沙を追い詰めようとしているんだ。あかりちゃんじゃない」
「こんなことが人間にできるの? それにこんなことをして何になるっていうのよ」
「それは、はっきりとはわからないけど……」
「あかりがやっているとしか思えない。あかりの、霊が……」
「霊が靴を送ってくるか? わざわざチャイムを鳴らして訪ねてくるっていうのかよ。梨沙は、どうしてそんなにあかりちゃんのせいにしたいんだ」
悠人の言葉に、梨沙は咄嗟に言葉が出なかった。否定しようとして、できなかった。私があかりのせいにしたい? 私は、あかりであってほしいと思っているだろうか? そうなのかもしれない。初めはあかりの姿がただ怖いだけだったのに、この心境の変化は何なのだろう。しかし、自分の感情を別にしても、梨沙にはやはりあかりの仕業だとしか思えなかった。
「だって、他にこんなことする人、いる? そもそもあかりの事故のことだって……」
言いながら、悠人の顔を見てハッとした。悠人は、梨沙の言葉に何か言いたげな表情でじっとこちらを見ている。悠人は、誰の仕業なのか心当たりがあるのだ。そしてそれが今、梨沙にもわかった。
「悠人は、もしかして……」
「俺は、あかりちゃんのお父さんが怪しいと思ってる」
悠人の言いたいことはわかる。あかりの事故のことを詳しく知っている人は限られている。しかも、今回のことが誰かの仕業だとしたら、その人はあかりが亡くなる当日に履いていたサンダルのことも知っているのだ。
「でも今更なんであの人が……」
「どこかで梨沙の妊娠を知って、妬んでいるとか?」
梨沙は身震いした。あの人が、私を? 梨沙の脳裏に、かつての記憶がフラッシュバックする。罵声と怒号。振り下ろされる拳。あの人は、あかりを失った怒りと悲しみをすべて私にぶつけた。またあの日々が始まるの? 考えるだけでも恐ろしかった。
「もし、もし本当にあの人だったら、どうすればいいの?」
「そのときは警察に相談しよう。今はまだわからないことばかりだから、もっと確証がいると思うけど」
「確証って言っても……」
「その人とは連絡は取ってないんだよね? 今、どこにいるのか知らない?」
「やめてよ! あの人に会うつもり?」
「だって、このままにしておけないだろう」
「あの人、何するかわからない。危ないよ。それに、居場所なんて……」
「はっきりわからなくても、住んでいそうなところとか、働いてる場所とか」
「前に住んでいたところは別れた時に引き払ったし、あの人フリーランスだから、どこにいるかなんて……」
「実家とかは?」
「知らない。行ったことないもの。ねえ、もうやめてよ。きっと関係ないよ、あの人」
「それを確かめるためにも、連絡を取らないと」
悠人は真剣なまなざしでじっと梨沙を見つめた。悠人は言い出すと聞かないところがある。こうなってしまっては、悠人は意地でも連絡を取ろうとするだろう。
「でも、本当に知らないのよ。あの人のことなんて、もう何も……」
言いながら、梨沙はある可能性を思いつき、あっと声を漏らした。
「どうした?」
悠人がこちらに身を乗り出した。梨沙は言おうかどうか一瞬迷ったものの、悠人の視線に負けて口を開いた。
「あのね、もうすぐあかりの命日なの……」
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