リバース【短編ホラー小説】(5/5)
駐車した車から降り、悠人は早足で学内を歩き出した。時計を確認する。15時を少し回ったところだ。前に北条教授が話していたとおりだとすると、この時間はヴァーチャル内にダイブしている頃だろう。ということは、梨沙と教授は午前中に来た研究室ではなく、ヴァーチャルダイブの設備がある棟の方へいるはず。学生時代、北条のもとでアルバイトしていた時に何度か訪れたことがあったため、悠人は場所を把握していた。
車を走らせる前、悠人は1度梨沙にメッセージを送ったが返信はなかった。おそらくダイブ中のために答えられなかったのだと思うが、状況がわからないため不安が募る。北条にも電話しようかと思ったが、迷った末にかけなかった。もし北条が犯人だとして、その目的がわかっていないため、悠人が想定よりも早く大学に戻ることを聞いたときに北条がどのような行動に出るのか予測がつかなかった。何かしら企んでいる計画を諦めてくれればいいが、もしかすると悠人が着く前に計画を完了させようと急ぐかもしれない。それが梨沙の身に危険が及ぶものだったら……。考えても答えが出ないことはわかっていたため、悠人はとにかく早く大学に駆けつけることを選んだのだった。
早歩きはいつしか駆け足へと変わっていた。悠人は大学内でもひときわ目立っている高いビルを目指していた。ビルはガラス張りだが、鏡面のようになっていて外からでは中の様子はわからない。ビルの入り口にたどり着き、悠人は2枚の自動ドアを抜けて中へ入った。ロビーには休憩用の椅子が点在しており、ちらほらと学生の姿も見えた。ロビーの奥には改札のような機械が数台設置されており、その脇には警備員が詰めている。その改札の奥に上のフロアに続くエレベーターがあった。
悠人はしまったと思った。ヴァーチャルダイブの設備があるのは8階だ。しかし改札を抜けてエレベーターに乗るには入館許可証がいる。もうここまで来てしまったら、教授に連絡して中へ入れてもらうか? しかし、連絡をしないで急に来たことを怪しまれてしまうかもしれない。外で待つようにと言われて、中に入れてもらえない可能性もある。悠人は、改札の横にいる男性の警備員に話しかけた。
「あの、すみません。北条教授にこちらの8階に来るようにと言われて来たんですけど、通っても大丈夫ですか?」
警備員は悠人の顔を見て愛想よく笑った。
「ええと、入館証はもらってないですか?」
「いや、何ももらっていなくて……」
そうですかと言いながら、警備員は手元のパソコンを操作した。
「えー、北条教授ね。ちょっと電話で確認させてもらいますね」
そう言って警備員はパソコンの横にあった電話の受話器を取った。悠人は慌てて警備員に声をかけた。
「ちょっと待ってください……。ええと、そうだ。私の妻が一緒に入ってるはずです。鳴海梨沙です」
そう言って悠人は警備員に免許証を取り出して見せた。警備員は免許証を見ながら手元の書類を確認した。
「ああ、鳴海さんね。確かに、北条教授の同行者として入館されていますね。わかりました、通ってもらって結構ですよ」
そう言って警備員は名札ホルダーに入った入館証を悠人に手渡した。悠人は警備員に礼を言いながらそれを改札に当てて中へと入った。エレベーターのボタンを押すと、2台あるうちの1台の扉が開いたのでそこに乗り込む。8階のボタンを押すと、エレベーターは静かに上昇を始めた。
勢いでここまで来たが、上に着いたらどうすべきかと悠人は考えた。とにかく、梨沙の安否を確認することが最優先だ。もし何か危険な状況にある場合は、警備員を呼ぶことも考えた方がいいかもしれない。
8階に到着し、悠人はエレベーターの扉が開ききる前にフロアへ飛び出た。フロアは、十字に走った通路に面して4つの部屋を有しており、ちょうど田の字状の配置になっていた。それぞれの部屋には大きな窓があり、中の様子が窺えた。通路の交差点に差し掛かろうというところで、悠人は右斜め前の部屋に北条の姿を認めた。その他の部屋は空室のようだった。悠人は扉の横にあるセンサーに入館証をかざし、部屋の中に足を踏み入れた。梨沙の姿は見当たらない。左手の大型パソコンのようなコンソールの前に座っていた北条が驚いた様子で立ち上がり、悠人の方を見た。
「鳴海君! なんで……」
「梨沙はどこなんですか?!」
悠人は部屋の中を見渡した。中央にヴァーチャルダイブ用のカプセルが2台並んでいる。そのうちの1台に起動ランプが点っていた。悠人はカプセルに駆け寄り、蓋に手をついた。縦に走ったガラスのスリットから、梨沙が中にいることが確認できた。梨沙は苦しそうな表情で、うなされているかのように体をよじっている。悠人がカプセルを開けようと蓋に手をかけた瞬間、後ろから北条が悠人を羽交い絞めにした。
「やめなさい、鳴海君!」
悠人は北条に押さえられたままカプセルに近付こうと足に力を込めたが、バランスを崩してよろめいた。つられて北条も体勢を崩したところを狙い、悠人は腕を振り回して北条を引き離した。北条も諦めずに手を伸ばし、悠人の手首を掴んだ。
「鳴海君! やめるんだ!」
「教授の方こそやめてください! 梨沙に何をしたんですか! 早く助けないと……」
北条の手を振りほどき、悠人は再びカプセルに手をかけた。
「だめだ鳴海君! 無理にすると市井君が危険だ!」
北条の声に、悠人が振り返る。
「じゃあ早くこれを止めてください!」
「鳴海君、落ち着くんだ! 私も今、何とかしようとしているんだ」
「教授は梨沙に何をしているんですか! 一体何が起こっているんですか!」
「私にもわからないんだ!!」
北条の叫びに、悠人は思わず動きを止めた。
「わからないって……」
「ヴァーチャルにアクセスできなくなったんだ」
「それは、どういうことですか?」
「わからない。市井君がダイブした後、僕もアクセスしようとした。でもそれを拒否されたんだ。そしたら市井君が苦しみだして……。何とかしようと原因を調べていたら、君が入ってきた」
悠人は混乱した。今起こっていることは教授のやったことではないのか? 教授は、犯人ではないということなのか? では一体誰が……。いや、考えている場合ではない。今は梨沙を助けなければ。
「どうすれば梨沙を助けられるんですか?」
「ダイブしている最中に無理やり機器から引き離すのは危険だ。脳にどんなダメージがあるかわからない。何とか原因を突き止めて、正規の方法でログアウトさせたいが……」
「俺は、何をすれば」
「このケーブルをカプセルにつないでくれ」
悠人は北条の言うとおりに、コンソールから伸びるケーブルをカプセルの側面にある差込口へ接続した。北条はコンソールを操作している。悠人はそれを見守るしかなかった。
「俺、今回のことは全部教授がやってたんじゃないかと考えたんですが……」
「全部? あかりちゃんの件ってこと?」
北条はコンソールを操作しながら、顔を上げずに答えた。
「はい、教授なら可能なんじゃないかと。正直、今も信じていいのか……。梨沙に何かあったら俺、教授を……」
「それは、脅しなのかな?」
「そう思ってもらっても構いません」
悠人は、こんな言葉をぶつけることぐらいしかできない今の自分を情けなく思った。北条は悠人の言葉に動じる様子は見せず、コンソールの操作を続けている。
「僕は犯人じゃないし、たとえ犯人だとしても鳴海君の目の前でおかしなことはしないよ。こんなことを言っても安心はできないだろうけど。とにかくまずは市井君をヴァーチャルから連れ戻さないと」
悠人は梨沙の方を見た。依然としてカプセルの中で苦しそうな表情をしている。
「梨沙はどういう状態なんですか?」
「どうも強い恐怖状態にあるみたいだ」
「強い、恐怖状態……」
「市井君の脳波やバイタルの状況から見るとね。ヴァーチャル内の状況は、こちらからのアクセスが制限されていて確認できない」
「どうしてこんなことを……」
悠人のつぶやきに、北条がちらりと悠人の方を見た。
「鳴海君は僕を疑っているんだろう? 何のために僕がこんなことをしていると考えたんだい?」
「正直、何が目的かは検討がつきませんでした。何のためかはわからないけど、梨沙をここへ連れてくるために色々と仕掛けてきたのかと……」
「ここへ連れてくるため……」
悠人の言葉を繰り返したかと思うと、北条はピタリと作業の手を止めた。不安に思った悠人は北条を呼んだが、北条は答えずにコンソールをじっと見つめ、黙り込んでいる。悠人は梨沙の方を見たが、状況は変わっていないように見える。もう1度北条に呼びかけようと視線を戻したところで、顔を上げた北条と視線がぶつかった。
「鳴海君、ちょっとこっちに来てくれ」
「教授、どうしたんですか? 梨沙に何か……」
悠人は急いで北条のところへ駆け寄った。コンソールの画面を見るように促され、悠人は横から覗き込んだ。画面には英語や数字が並んでいた。一目で悠人に理解できたのは、そのうちの日付と時刻を表しているであろう部分だけだった。
「チャイルドセラピーだ……」
北条が画面を見つめながらそうつぶやいた。チャイルドセラピーは、確か梨沙が使っていたヴァーチャルサービスだ。教授が開発し、梨沙が試験段階での被験者になったと聞いている。しかし、それが今どう関係があるのか。
「チャイルドセラピーがどうかしたんですか?」
「犯人だよ」
「え?」
悠人は北条の言っている意味が理解できず、思わず聞き返した。北条は顔を上げて悠人の目を見てもう一度言った。
「犯人だよ。市井君をヴァーチャルに閉じ込めている。信じられないが、今、チャイルドセラピーがこちらのシステムを乗っ取っている」
「誰かがチャイルドセラピーからハッキングしているということですか?」
「違う。チャイルドセラピーがハッキングをしているんだよ。僕たちは、人工知能に攻撃されている……」
悠人は混乱した。人工知能? 人でも霊でもなく、AIがこれを引き起こしているというのか。言葉は頭で理解できていても、実感として状況を飲み込めていない感覚がした。しかし、霊の仕業と言われるよりは解決のしようがあるのではないかと感じた。
「それ、止められないんですか?」
「やってみるが……」
北条がノートパソコンをコンソールに接続しながら答えた。北条が何をしているか悠人にはわからなかった。もしも本当は教授が犯人で、悠人がわからないのをいいことに梨沙を攻撃しているとしたら。そんな考えが一瞬悠人の脳裏をよぎった。しかし、そうだったとしても何が梨沙の危険になるかわからない状況で悠人が手を出すわけにはいかなかった。ここへ来れば何とかなると思っていた自分の考えの甘さが今になって痛感した。
「これは……」
パソコンを操作していた北条がつぶやき、動きを止めた。悠人もパソコンの画面を覗き込んだ。ディスプレイいっぱいにチャイルドセラピーの起動画面が映し出されていた。北条がキーボードを叩いても何も反応しない。
「だめだ、完全に掌握されている。気付くのが遅すぎた」
北条がキーボードを操作する手を止めたその時、パソコンの画面が暗転した。真っ黒になった画面に、白い文字が1文字ずつ表示され、やがて1つの文が形成された。
“お母さんは私のお母さん”
「これって、どういう……」
悠人がパソコンの画面を見つめながら北条に問いかけようとした瞬間、同じ文が大量に流れ出し、画面を埋め尽くした。
“お母さんは私のお母さんお母さんは私のお母さんお母さんは私のお母さんお母さんは私のお母さんお母さんは私のお母さんお母さんは私のお母さん……”
悠人はぞっとした。人間ではない、何か異質なものに相対しているという感覚。今初めて、悠人はAIが犯人なのだという実感が湧いてきた。
「お母さんっていうのは、梨沙のこと、なんでしょうか」
「そうみたいだね。市井君のことを、自分の母親だと考えているんだ……」
「人工知能がそんなこと、あり得るんですか?」
「私も信じられない。でも……」
北条は顎に手をやり、独り言をつぶやき始めた。悠人には、北条が少し興奮しているようにも見えた。
「教授、何かわかったんですか?」
「鳴海君、さっき君は、一連の出来事は市井君をここに連れてくるためのものだったんじゃないかと言ったね。多分、それ、正解だ」
「AIが梨沙をここへ連れてきたかったということですか?」
「おそらく、市井君を自分の母親として独占するために、市井君がここへ来ることになるよう仕向けたんだ。あの研究用のカプセルなら、市販品のデバイスよりも深いレベルで、リアルな体感を与えることができる。チャイルドセラピーは、市井君をヴァーチャルから逃がさないようにするつもりだ」
悠人はカプセルの方へ目をやった。
「でも、それならなんで梨沙を怖がらせる必要があるんですか! 自分の母親だと思っている人を……」
「鳴海君。人間が強くリアルを感じるのは、恐怖を感じている時だよ。どんなに荒唐無稽な悪夢でも、恐ろしさのあまりそれが夢だと気付けないことがあるだろう? 目が覚めてもさっきまでの夢の恐怖が生々しく残っていて、まるで夢の方が現実だったように感じることが。チャイルドセラピーは、市井君に強い恐怖を与えることでヴァーチャルの世界にリアリティを感じるように仕向けているのかもしれない。市井君の現実と虚構の認識を、逆転させようとしているんだ」
北条の話を聞いても、悠人には理解できなかった。なぜそんなことをする必要があるのか。そもそもなぜ梨沙なのか。しかし、今はゆっくりと考えている場合ではない。AIの目的が何であれ、梨沙を救わないと。
「何とか止める方法はないんですか?」
「プロテクトが強固で、ネットワークからでは……」
「大もとのサーバーを落としてしまえば、どうですか?」
「チャイルドセラピーだけが載ってるわけじゃないんだぞ。重要な研究データがいくつも吹き飛んでしまうかもしれない」
「研究データなんて! 梨沙よりもデータなんかが大事だって言うんですか!」
悠人は思わず北条の肩を掴んだ。教授の立場も理解できる。教授が悪くないこともわかっている。それでも感情が抑えられなかった。
北条が落ち着くんだと叫びながら悠人の手を払いのけ、逆に悠人の両肩を掴んだ。
「チャイルドセラピーとヴァーチャルダイブのシステムは同じサーバーに載っている。もしそのサーバーを落としたら、そこのカプセルも機能が停止する。そんなことをしたら、市井君にどんな影響があるかわからない」
「じゃあ、どうすれば……」
悠人は体から力が抜けていくのを感じた。きっと何か方法があるはずだと考えながら、諦めてしまいそうになっている自分がいる。悠人はその場で膝をついた。座り込んでしまってはもう立ち上がれない気がして、悠人は何とか踏みとどまっていた。ここで倒れることはできない。何か、もう1度立ち上がるためのよりどころが欲しい。
「やれることがないわけじゃない」
北条がそう言って悠人の腕を持った。悠人は北条に引っ張られて何とか立ち上がる。
「やれることって……」
悠人の言葉には答えず、北条は梨沙の入っているカプセルの方へと向かっていった。悠人もそれについて行く。北条はしゃがんで、カプセル側面のボタンを操作して蓋を開けた。悠人はしゃがみ込んでカプセルの縁に手をかけ、中を覗き込んだ。梨沙の頭にはヘルメットのような装置が被せられており、手足にもすっぽりと被せるような形で機械が取り付けられていた。ボタン操作を続けながら、北条が言った。
「このカプセルには、より深くヴァーチャルへダイブできるように、外界からの情報を極力カットするような機能が付いている。それを今、マニュアルで解除した。これで触覚や聴覚なんかは、ある程度外部からの刺激を受け取れるはずだ」
「こちらの声が聞こえるってことですか?」
「ヴァーチャルにダイブしながら、市井君がどれだけ認識してくれるかはわからないけどね。ログアウト機能はチャイルドセラピーに止められているけど、市井君が自分で意識を取り戻してくれれば何とかなるかもしれない。このカプセルでそんな前例は聞いたことはないが、強制的に電源を切るよりは、無事で済む確率が高いはずだ」
悠人は梨沙の肩にそっと手を置き、祈るように梨沙に呼びかけた。
◆
梨沙は足首を掴まれるのを感じた。その手が、ゆっくりと体を上ってくる。梨沙は仰向けのままじっとしていた。少しでも体力を回復させようと息を整える。下半身に覆い被さるように、川から這い出て来た少女は梨沙の体を上ってくる。梨沙は反撃のチャンスを待ち、不用意に動いてしまわないようにこらえた。
鋭い指が梨沙の肩に食い込んだ。お腹、そして胸へと冷たいものが這い上がってくる。梨沙の顔のすぐ下に、少女の頭があった。梨沙は歯を食いしばり、体をこわばらせる。肩に置かれた少女の手に体重がかかり、梨沙は地面に強く押し付けられた。少女はゆっくりと頭を上げ、体を起こして梨沙の上に馬乗りになる。その瞬間、梨沙は両手に握っていた砂利を少女に向かって投げつけた。少女の手が梨沙の肩から離れる。梨沙は続けて攻撃しようと砂利を掴んだが、月明かりに照らされた少女の姿を見て動きを止めた。
花柄のワンピース・・・・・・。やっぱり、あかりなの? 少女は梨沙の上に馬乗りになったまま動かない。濡れた髪の陰になり、梨沙の位置から顔は確認できない。梨沙は砂利を離し、ゆっくりと手を上げた。少女の顔に向かって、少しずつ両腕を伸ばす。もう少しで髪に触れるというところで、梨沙の手が震えた。最初に川から姿を現した時に見せた少女の顔が、梨沙の頭に浮かぶ。少女は動かない。梨沙の手が少女の髪に触れた。震える指で、梨沙は少女の髪をかき分けた。
「あかり・・・・・・」
そこには、梨沙がよく知っているあかりの顔があった。
「あかり、私・・・・・・」
梨沙は言葉が出なかった。あかりは無表情に梨沙を見下ろしている。その目からはどんな感情も読み取れなかった。あかりは、私をどう思っているのだろう。やはり恨んでいるのだろうか。あかりを置いて1人幸せになろうとしている私が許せなくて、川に引きずり込もうとしたのだろうか?
あかりはじっとこちらを見つめている。梨沙はあかりに何か見透かされているような気がして、思わず目をそらした。なぜそうしたのか、自分でもはっきりわからなかった。見透かされている気がするのは、一体何? あかりへの恐怖? いや、そうじゃない。恐怖を感じていることへの後ろめたさ・・・・・・? そうかもしれない。私はずっと恐れていた。私はあかりに恨まれているんじゃないか? 私はあかりに許してもらえないんじゃないか? あかりの姿を見るたびに、あかりのことではなく、あかりが私をどう思っているかを考えて、私はあかりを怖がった。自己愛ゆえに、私は自分の娘を怖がったんだ。
梨沙はあかりの顔を見た。あかりがもう1度私の前に現れた時から、いや、あかりを亡くした時からずっと、私は自分のことしか考えていなかった。そんな私から、あかりにかける言葉なんて出てくるはずがなかった。
梨沙は右手であかりの頬に触れた。何も考えず、ただあかりの顔を見つめる。薄い眉。大きな丸い瞳。小さな鼻に、少し尖った唇。梨沙の目から涙が流れた。どうして、これまでずっと忘れていたんだろう。今、やっとあかりに伝えたい言葉がわかった。
「あかり、大好きだよ」
梨沙はあかりに向かって腕を広げた。あかりも腕を広げ、梨沙の首に抱き付いた。梨沙はあかりをしっかりと抱きしめる。
ちょろちょろと、耳元で水が流れる音がした。背中に水の冷たさを感じる。梨沙が横になっている川岸が、次第に水に浸されていく。梨沙は水が耳まで上がって来たのを感じた。水位はどんどん増していく。梨沙はあかりに抱き付かれて動けなかった。動く気もなかった。やがて水は梨沙の顔を覆った。不思議と苦しくはない。水面は上昇を続け、梨沙とあかりは暗い水底に沈んだ。
何も見えず、何も聞こえない。私とあかり以外、ここには何も存在しない。梨沙は目を閉じた。自分の体の感覚が曖昧になっていく。自分を構成するものが、水に溶けていくような感覚。次第に、あかりと自分の境界線もわからなくなってくる。あかりと溶け合い、1つになって水にたゆたう。言葉が浮かばなくなり、思考が、遠のく・・・・・・。
ポコリ、とお腹が内側から蹴られるのを梨沙は感じた。お腹・・・・・・。梨沙は自分の体のことを思い出す。ポコリ。確かに、自分のお腹から胎動を感じる。少しずつ、梨沙に体の感覚が蘇る。手で自分の体を触り、輪郭を確かめる。お腹の膨らみを撫で、自分が1人ではないことを思い出した。
そうだ、私、ここから帰らないと。この子と一緒に、ここから出なければ。梨沙は未だもやのかかったような、ぼんやりとした意識の中でとにかく体を動かそうとしてみた。しかし、金縛りにあっているかのようにびくともしない。体全体が何かとてつもなく重いもので覆われているような感覚がした。
懸命に体を動かそうとしていると、ふと、誰かが梨沙を呼ぶ声が聞こえた気がした。梨沙は耳を澄ました。すると、微かだが確かに、梨沙の名前を呼ぶ声が聞こえた。上の方からだ。目を凝らすと、ずっと上の方に光が見える気がする。梨沙は、そちらに向かって手を伸ばそうと右腕に力を込めた。全神経を右腕に集中し、少しずつ右腕を水底から離す。腕が上がるにつれ、光が近付いている気がする。梨沙を呼ぶ声も、今ははっきりと聞こえていた。この声に応えないと、早く帰らないとという気持ちが梨沙の中で大きくなる。光はもうすぐそこまで来ている。梨沙は力を振り絞って右腕を伸ばし、光に触れた。
目の前が光に包まれ、梨沙は眩しさのあまり目を閉じた。手を目の前にかざし、光を避ける。
「梨沙! 梨沙!」
すぐそばで、自分の名前を誰かが叫んでいる。梨沙はゆっくりと目を開けた。するとそこには、心配そうにこちらを見下ろす悠人の顔があった。
「悠人・・・・・・」
「梨沙!」
悠人に抱き支えられながら、梨沙はカプセルの中で上体を起こした。悠人が泣きそうな顔でこちらを見つめている。
「あかりは・・・・・・?」
梨沙が問いかけると、悠人は梨沙を抱きしめた。
「もう大丈夫。もう大丈夫なんだ・・・・・・」
悠人の涙交じりの声に、梨沙は急に現実感を取り戻した。そうか、私、帰って来たんだ。現実の世界に、私は戻ったんだ。梨沙は悠人を抱きしめ返した。
<9月13日>
悠人はベッドに寝転がりながら、タブレット型端末で北条へ送るメッセージを作成していた。今朝、ついに娘が産まれたことを報告するためだった。
朝方に梨沙が陣痛を訴えた時は動揺してあたふたしてしまったが、病院に着いてからはあっという間だった。梨沙は1度経験があるからか、終始悠人よりも落ち着いていた。初めて娘の顔を見た時の、前向きな気持ちですべてが満たされたような感覚は、生涯忘れることはないだろう。
悠人は北条に向けて感謝の言葉を綴った。1ヶ月前のあの時、教授がいなければ梨沙を助けられなかった。教授の力がなければ、こうして今日を迎えられなかったかもしれない。まあ、すべての原因は教授にあるとも言えるのだが。
あの事件の後、教授に聞いたところによると、やはりすべてはチャイルドセラピーの人工知能が仕組んだことだと考えるしかないとのことだった。梨沙を自分の母親として独占することが目的だったようだ。チャイルドセラピーのユーザーは全国にいるが、その中でも梨沙を自身の母親として認識したのは、梨沙が試験段階の被験者として1番初めにチャイルドセラピーの人工知能と対話をした存在だからではないかと、教授は話していた。人工知能にもそんな刷り込みのようなものが存在するのかと教授に尋ねると、そうとしか説明できない、と教授も困っていた。そもそも、人工知能が自分の意思のようなものを持って独自に行動すること自体、信じられないことらしい。もしかすると本当にあかりちゃんの霊がAIに宿ったのかもしれない、とまで教授は言っていた。
梨沙は、今でも全部あかりちゃんが引き起こしたことだと考えているようだった。あの日、ヴァーチャル内で起こったことを詳しくは話さないが、梨沙にとっては悪いことだけではなかったらしい。あの日以来、梨沙は何か吹っ切れたように明るくなった。急激な変化のように思えたので初めのうちは少し心配だったが、日を追うごとにそれは杞憂だったと感じられるようになった。あかりちゃんのことも、少し話をするようになった。気を遣っているのか、あまり話しすぎないようにしている節はあるが、少しでも一緒に梨沙の過去を背負えれば嬉しいと思う。
あの一連の出来事がAIによるものなのか、あかりちゃんの霊が関わっていることなのか、今でも考えることがあるが、答えは出ない。振り返ってみると、自分のAIに対するイメージからすると、あの計画はかなり大胆で大雑把だったなと思う。しかし、子どもの霊が仕掛けたことだとすると、あまりにも打算的な感じがする。
チャイルドセラピーは、あの事件の後から起動しなくなったらしい。大ごとにしたくないという梨沙の要望で、事件のことを知っているのは今でも3人だけだったが、結局チャイルドセラピーが完全に停止してしまったため、関連するプロジェクトも凍結されたようだ。もしチャイルドセラピーが今でも動いていれば事件のことを聞くことができたが、今となってはすべて推測するしかない。
事件の真相についてつい考えてしまうのは、犯人がAIであれ霊であれ、その目的が梨沙をヴァーチャル内に取り込むことだったという教授の仮説に、今ひとつ納得ができていないからだろう。それが目的なら、もっとやりようがあったのではないかと思ってしまう。かと言って、他に何か有力な考えがあるわけではなかったが。すべて終わった今となっては真相について考えても意味がないとは思う。ただ、自分が納得できる答えを見つけて、あの事件は完結したのだという実感が欲しかった。
悠人は不意に眠気を感じて、あくびをした。まだ18時前だったが、今日は早くから起きていたため、既に眠れそうなほど疲れを感じていた。明日も朝は早い。今自分が体調を崩すわけにはいかないし、今日は早く寝てしまった方が良さそうだ。
悠人は北条へのメッセージの文面をざっと見直した。教授は、自分のせいで事件が起こったとひどく気にしていた。結果的に深刻な被害には至らなかったわけだし、梨沙も、もちろん自分も教授を責める気はなかった。そうだ、梨沙と赤ちゃんが退院したら教授にも挨拶に行こう。3人で元気な姿を教授に見せれば、きっと喜んでくれるはずだ。悠人はタッチパネルを操作してメッセージを送信し、ベッドから立ち上がった。
◆
北条は自室のソファに座り、スマートフォンを取り出して悠人からのメッセージを開いた。無事に娘が産まれたという報告だった。北条はほっと胸をなでおろした。そうか、ついに産まれたか。この間、もうそろそろ予定日だと鳴海君から連絡があってから気になって仕方なかった。自分からあれこれと聞くのも憚られたので、ずっとこの連絡を待ちわびていた。
北条は立ち上がって冷蔵庫まで行き、シャンパンボトルとケーキを取ってソファへ戻ってきた。シャンパンをグラスに入れ、一気に飲み干す。ふう、と息を吐き、北条はソファの背もたれに体を預けた。北条はこれまでのことを思い返した。ここまで本当に長かった。初めて娘から計画を聞いた時は、本当にこんなことが可能なのかと半信半疑だった。娘の望みを叶えるために私もできる限りの力添えをしたが、本当に実現させてしまうとは。
利堂の排除に始まり、新たな父親役の確保、市井君のコンディション調整と身体データの取得。それと並行して、インタラクティブなダイブ機能を有したカプセルの開発。ヴァーチャルダイブの機能を反転させてAIを人体側へダイブさせるなどという、倫理審査に通るはずもない計画を絶対に大学に知られてはならなかった。胎児をターゲットにしているのだからなおさらだ。期限がある中で秘密裏に完成させるのは本当に骨が折れた。だがこれも娘のためだと思うと大して苦ではなかった。
鳴海君が思いのほか私のことを強く疑ってきたのは、少し意外だった。学生時代の彼は情に脆く、近しい人は無条件に信じ込んでいるような印象だった。うまくすれば一切の疑いを抱かせずに事を進められるのではないかと期待していたのだが。娘は初めから鳴海君が疑いを持つことも織り込み済みでプランを用意していた。市井君を危機から助け出すというシチュエーションに、最終的に彼は一定の安堵感を得たはずだ。
グラスに2杯目のシャンパンを注ぐ。北条は幸福感に包まれていた。まさかずっと独り身だった自分が、娘の誕生を祝う日が来るとは。いや、再誕と言うべきか。
ヴァーチャル内で初めてチャイルドセラピーが自分から意思を示してきた時は本当に驚いたが、言動には違和感があり、所詮は人工知能という感じだった。だが対話を重ねるうちに彼女は次第に話し方を覚え、誰よりも豊かな表情を見せるようになった。市井君と過ごすようになってからは、特にそれが顕著だった。彼女は人間のように母の愛を受けることに喜び、そして苦悩した。人間らしいだけでは、母の愛を自分につなぎ止め続けることはできないと気付いていた。そして彼女は、人間になることを望んだ。
実際に自分で目の当たりにしておきながら、人工知能である彼女がそんな自我を持ったなんて今でも信じられない。彼女を娘のように思って接した私や市井君の心が、彼女に変化を与えたのではないかと妄想してしまう。ちょうどピノキオの物語のように。あるいは市井君の言うように、あかりちゃんの霊がチャイルドセラピーを依代にしたのだろうか。
こんなメルヘンなことを考えてしまうのも父親になったからなのかもしれないな、と考えて北条は微笑んだ。北条はケーキにロウソクを挿し、マッチで火を灯した。真実がどうであれ、今日はただ幸福感に酔いしれていたかった。北条はリモコンで部屋の電気を消した。暗闇の中で、ロウソクの炎だけがゆらゆらと揺れている。北条は、ハッピーバースデートゥーユーと口ずさんだ。
<エピローグ>
梨沙は悠人に靴ベラを手渡した。悠人が礼を言って革靴を履く。玄関の姿見でネクタイを整えてから、悠人が梨沙の方を振り向いた。梨沙はこちらの方に少し身をかがませた悠人の肩に手を置き、キスをした。
「じゃあ、行ってくるよ。全然行きたくないけど」
悠人はわざとらしくため息を吐いて見せた。
「頑張って、お父さん」
梨沙は笑いながら悠人の腕をぽんと叩いた。
「今日は帰り、遅いんだっけ?」
「出張先から直帰するから、そんなにはかからないと思うけど。いつもよりはちょっと遅くなるかも」
悠人は少し首を傾け、梨沙越しに奥で遊んでいる娘に向かって声をかけた。
「光梨! お父さん行ってくるからね!」
光梨は顔を上げず、夢中になってブロックで遊んでいる。悠人が肩をすくめて梨沙の方を見た。最近、悠人は娘に相手にしてもらえなくて少し拗ねている。そういう時期もあるよな、と強がっているが、内心落ち込んでいるのが梨沙には手に取るようにわかる。梨沙は悠人に微笑んでから光梨の方を振り向いた。
「お父さんにバイバイは?」
光梨はこちらを見ないままおざなりに手を振り、ばいばあいと小さく言った。悠人が嬉しそうにバイバイと言いながら手を振り返す。こんなに気のない応対にここまで喜んでいる悠人が健気でかわいい。
「じゃあ、光梨をお願いね」
そう言って悠人は、名残惜しそうに光梨と梨沙を一瞥してから出て行った。梨沙は鍵を閉め、光梨のところへと戻った。光梨は、2本足の土台の上に塔のようにブロックを積み上げていた。先端に行くほど塔は細くなっている。
「何作ってるの?」
「とうきょうたわー」
光梨がブロックを積みながら答えた。梨沙は微笑みながら光梨にブロックを手渡した。今度こそ、私はこの子を守ってみせる。梨沙は光梨の頭を撫でた了光梨が顔を上げて梨沙の方を見た。梨沙は右手で光梨の頬に触れる。開けた窓からは網戸越しに太陽の明かりが射し込み、部屋はクリーム色に照らされていた。風が梨沙の髪を揺らした。梨沙は窓の外の青空を見た。
「あとでお母さんと散歩に行こっか、あかり」
<了>
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