リバース【短編ホラー小説】(4/5)
<8月7日>
梨沙は車の助手席で、隣にいる悠人の顔を眺めていた。悠人は少し疲れているように見えた。悠人が実家へ迎えに来てくれた時は、1週間ぶりに会えた嬉しさで気付かなかった。私のことで、色々と調べてくれているのだろう。利堂に会えたのかどうかは、何となく聞くことができなかった。会えなかったのなら悠人はきっとそう言うはずなので、まだこれから会うところなのか、会えたが話すようなことがなかったのか、そんなところだろうと想像する。どちらにせよ、必要があれば悠人が話してくれるはずだ。
自分が実家でゆったりと過ごしている間に、悠人が忙しくしていたと思うと心苦しかった。でも、それを口にしても悠人に余計気を遣わせるだけだろう。少しでも早く良くなって悠人を安心させるのが、私が今すべきことだ。
悠人が私の視線に気付き、ちらりとこちらに視線を投げた。
「どうしたの?」
「ううん、見てただけ」
何だそれ、と笑う悠人がかわいい。梨沙は自分のお腹をさすった。悠人のためにも、この子のためにも、私がしっかりしないと。
梨沙が実家にいる間は、あかりは梨沙の前に姿を現さなかった。このまま何も起こらなくなってくれたら、それに越したことはない。けれども、それでは何も解決しないような気もする。私はあかりから逃げているだけで、結局あかりに向き合えていない。何も起こらないことを期待し、時間が問題を曖昧にしてくれるのを待つだけでは、悠人にも顔向けできないような気がした。
車は街中を抜け、郊外を線路に沿って走った。やがて前方に、大学の建物が見えてきた。ゲートの前で悠人が警備員に北条とのアポイントメントについて説明し、大学の敷地内に入る。悠人は北条の研究室がある棟に近い駐車スペースに車を停めた。車を降りると、久しぶりの学内に梨沙は少し緊張を感じた。休日なので、生徒の姿が少ないのはありがたかった。
梨沙は悠人と4階建ての白い建物に入った。節電のためか建物の中は電気が消えており、窓からの光はあるものの、薄暗くて陰鬱な雰囲気を醸している。入口の右手にあるエレベーターに乗り、4階と書かれたボタンを押し込んだ。1度ガタンと揺れてから、エレベーターは上昇を始めた。とても最先端のヴァーチャル技術について研究しているところとは思えない、年季の入ったエレベーターだ。悠人と2人だけでも狭く感じる。
4階に到着すると、このフロアは電気が付いていた。人気はなく、静まり返っている。エレベーターホールの左手にある通路には、片側に等間隔にドアが並んでいた。ドアには磨りガラスが嵌め込まれており、照明が点いているかは確認できるが、中の様子は見えない。2人は通路を進み、北条の研究室へ向かった。ノックをすると、すぐに中から入室を促す声がした。中に入ると、正面のデスクに座った北条が笑顔で迎えた。
「久しぶりだねえ。いや、こないだ喋ったとこなんだけどね。やっぱり実際に会うと、久しぶりって感じがするよ」
悠人がそうですねと笑って答える。梨沙も笑顔で頭を下げた。部屋は両面の壁が本棚で埋まっており、その間の応接テーブルの上にも本が積まれていた。北条は2人にテーブルを挟んで据えられたソファに座るよう促したが、悠人はもうすぐに出ますからといって遠慮した。悠人は仕事の関係で1度抜けなければならないと言っていたが、梨沙は仕事とは別の用事なんじゃないかと思っていた。こんなに急に休日出勤になることはこれまでなかったし、何となく、悠人が本当のことを言っていないときはそれがわかるようになってきていた。もしかすると利堂に会いに行くのかもしれない、と梨沙は想像した。
悠人は北条にまた迎えに来ますといって頭を下げ、梨沙に微笑みかけてから部屋を出ていった。北条と2人だけになり、何を話そうかと梨沙が思案していると、北条がデスクから立ち上がった。
「それじゃとりあえず、面談ついでにご飯にしちゃおうか」
時計を見ると11時半を回ったところだった。手近に学内の食堂で済まそうかと言う話になり、2人は食堂へ向かった。食堂ではいくつかの学生グループが昼食をとっていたが、混んでいるというほどではない。梨沙はざる蕎麦を選び、北条はカレーライスを注文した。北条が梨沙の分も支払いを済ませ、2人は日の当たらない席に座った。
「すみません、ご馳走になってしまって。こちらが先生のお時間を頂いているのに、ご飯まで」
「蕎麦でそんなに恐縮されちゃ困っちゃうな。気にしないでよ。市井君はチャイルドセラピー開発の立役者なんだから、偉そうにしててよ」
「偉そうにだなんて、そんな」
梨沙が真剣に困った顔をしたのを見て、北条が声を上げて笑った。
「ごめん、ごめん。でも、本当に市井君の協力なしではチャイルドセラピーの完成はなかったよ。世界で初めてチャイルドセラピーを使ってくれた人なんだから、アフターフォローは手厚くさせてもらわないと」
「協力だなんて。私はただ、先生に助けてもらっただけです」
「僕の力なんて、鳴海君に比べたら大したことないよ」
北条がわざとらしく悲しげな顔を作って梨沙の方を見た。梨沙は思わず吹き出してしまった。
「もう、先生は昔からそればっかりじゃないですか」
梨沙は、北条が緊張を和らげようとしてくれているのを感じた。我ながらあからさまに緊張してしまっていたので、気を遣わせてしまったようだ。おかげで少し気持ちが和らいだ。
2人でとりとめのないことを話しながら食事をしているうちに、気が付くと13時をとっくに回っていた。この後は大学に隣接している附属病院で簡単なメディカルチェックを受けてから、ヴァーチャルにダイブしてのセラピーということになっていた。食堂から病院までは歩いても10分程度の距離だが、北条が車で送るというので梨沙はそれに甘えることにした。
病院では簡単な検査をいくつか受け、梨沙はヴァーチャルへのダイブに問題がないことを確認してもらった。1時間も経たないうちに大学へとんぼ返りし、北条の送迎で今度はガラス張りの近未来的な建物へと向かった。11階建のビルで、2階から上が実験フロアになっている。
梨沙は北条についてビルの中に入った。実験フロアへ行くには入館証が必要だが、梨沙は北条の同行者ということで来館者名簿に名前を書くだけで入場できた。エレベーターで8階に上がり、通路を進んだ右奥の部屋へと入る。部屋の壁に沿って様々な機器がぐるりと配置されており、中央には棺桶のような形のカプセルが2つ並んでいた。梨沙は北条に促され、カプセルのところまで歩いた。北条は左手にある大型のパソコンのような機械へ向かう。
「さて、市井くん。まずはそこのカプセルでヴァーチャルへダイブしてもらう。アバターで対話をするだけのものだから、危険はないよ。学内のネットワークにしかつながっていないしね。君がダイブしたら、僕はここから自分のアバターを操作してマイクで話をする。今日はとりあえず、ヴァーチャル内での精神状態が確認できればいいかな」
北条の操作で、カプセルの蓋が自動的に開いた。梨沙は北条の指示に従って頭と手足にデバイスを装着し、カプセルの中に仰向けになった。カプセルの蓋が閉まり、明かりが消えて真っ暗になる。梨沙は深呼吸をしてから、静かに目を閉じた。
頬に風を感じ、梨沙は目を開いた。梨沙は木々の中に立っていた。辺りは暗く、頭上を覆う葉の間から月明かりが差している。ここは、一体? 先生は対話用のヴァーチャル空間へダイブすると言っていたけど、ここがそうなの? 梨沙は自分の体を確認した。どうやら、アバターは梨沙の姿そのままらしい。カプセル内でスキャンされたのだろう。ただ、お腹は大きくなかった。
梨沙は周りを見回してみた。見る限り森が続いている。前方にだけ、立ち並ぶ木に挟まれて細い道が開いている。
「あの、先生?」
梨沙の声に、北条の応答はなかった。梨沙は目の前の道を見た。ここを進めということ? 梨沙はゆっくりと前進した。暗い森の中だったが、不思議と物ははっきりと見えた。月明かりのお陰もあるかもしれないが、おそらくヴァーチャルがそういう設定になっているのだろう。
しばらく進むと、開けた場所が見えた。森を抜けて、足元が砂利に変わる。突然、水の流れる音が聞こえて梨沙は足を止めた。川だ。梨沙の目の前を横切るように川が流れている。向こう岸には木が生い茂り、また森になっている。
梨沙は1歩踏み出して、そしてすぐに歩みを止めた。ちょっと待って。ここって・・・・・・。梨沙はごくりと唾を飲んだ。初めは夜だったので気が付かなかった。ここには明るいうちにしか来たことがなかったからだ。一体、どうしてここに・・・・・・。
「先生?」
やはり応答はなく、梨沙の声は暗闇の中で虚しく響いた。鮮明に聞こえる川の流れる音が、梨沙に異様な静けさを感じさせた。梨沙はゆっくりと川の方へ進んだ。3、4歩進んだところで、梨沙はぴくりとして動きを止めた。梨沙は川縁をじっと見つめた。あそこにあるのは・・・・・・。
梨沙の視線の先には、子ども用のサンダルが片足分落ちていた。
◆
悠人は、梨沙を大学に送り届けた後、マンションの自宅へと戻ってきた。先ほど小山内からこれから向かう旨の連絡があったので、そのうち到着するだろう。悠人は、帰りに寄ったコンビニで買ってきたサラダと総菜パンを急いで食べた。
小山内がドアホンとスマートスピーカーを確認してくれると言っていたなと思い出し、悠人はスマートスピーカーを電源につないだ。起動音がなり、機器のランプが光る。梨沙を実家に預けてから、悠人はスマートスピーカーの電源を抜いていた。足音の件もあったので電源を入れっぱなしにしておくのが不安だった。悠人自身はほとんど使用していなかったため、特に生活に支障はなかった。そもそも自身で購入した物ではなく、マンションに設備として初めから備わっていた物だった。正直、使い方もあまりわかっていない。
悠人がダイニングでスマートスピーカーの説明書を探していると、来客のチャイムがなった。ドアホンのところへ行き画面を確認すると、恰幅の良い眼鏡の男が映っていた。応答すると、小山内が高い声で、遅れてすみません、と息を切らしながら言った。いつの間にか約束の13時を回っていたようだ。オートロックを開錠し、悠人は玄関へ向かった。出迎えようとドアを開け、エレベーターへとつながる通路の方を見た。しかし、しばらく待っても小山内の姿は見えない。悠人のいる部屋は6階だが、エレベーターを使えばすぐ上がってこられるはずだ。不審に思っていると、反対側の通路から息を切らす声が聞こえてきた。振り返ってみると、小山内が汗を拭きながらこちらへ歩いてくる。どうやら階段でここまで上がって来たらしい。
遅れたことに対する謝辞を苦しそうに述べる小山内を部屋の中へと促し、ダイニングへと案内する。冷たいお茶を出すと、お気遣いなくと言いながら、小山内はそれを一気に飲み干した。悠人はお茶のお代わりを出しながら小山内に言った。
「改めて、今日はわざわざありがとうございます」
小山内が2杯目のグラスを空にしながら手をパタパタと振った。
「いやいや。近場ですし、構いませんよ。大毅君の頼みだし」
利堂のことを下の名前で呼ぶということは、親しい間柄なのだろう。悠人は2人の関係性が少し気になったが、聞いても仕方がないのでやめておいた。お茶を飲み終わると、小山内は早速調査に取りかかった。悠人は、何か専門の機器などを使って調査するのだろうとイメージしていたが、小山内が持ってきたのは自前のノートパソコンだけだった。小山内の指示で悠人もアカウント情報の入力などを行ったが、この方面には明るくないので、小山内が何をしているのかはよくわからなかった。
20分ほどして、小山内が終わりましたと声をかけてきた。想像以上に早かったため、悠人は拍子抜けした。
「もう終わったんですか? 何かわかりました?」
「無線でのアクセス記録があるみたいですねえ。外からスピーカーにアクセスしたりすることって、ありました?」
「いえ、思い当たりませんが……」
「うーん、じゃあやっぱり不正アクセスかもしれませんね」
小山内の言葉に、悠人は自分の興奮が高まるのを感じた。やはり霊などではなく、電子機器を使った誰か人間の仕業だったのだ。
「それで、誰がアクセスしたとか、わかるんですか?」
「いや、さすがにそんなことまではわからないですよ。誰がっていうのを特定するのはなかなか難しいんじゃないかなあ。これWi-Fi経由っぽいし」
「えっと、つまりどういうことなんですか?」
「誰かがこの近くまでやって来て、その辺から直接Wi-Fiにアクセスしたんですよ。ドアホンの方も、多分そう。これだとちょっと、これ以上アクセスのルートは探れないと思うなあ」
誰かが、この近くまで……? 悠人は思わず身震いしそうになった。同時に、ふと何か考えが浮かんだような気がした。はっきりとしたものではない、何か直感めいたもの。それは、嫌な予感を伴っていた。
急に黙り込んだ悠人を小山内が心配そうに覗き込んだ。
「あのう、でもほんとに、僕ただの素人ですからね。心配だったら、やっぱり警察に言った方がいいですよ。」
悠人はハッと我に返り、考えておきますと小山内に答えた。小山内は悠人の様子を気にしているようだったが、長居しても仕方ないので、と玄関へ向かった。悠人がお礼とともに謝礼を渡すと、お気遣いいただかなくてもよかったのに、と言いながら嬉しそうに受け取った。小山内が階段の方へ向かおうとしたので逆側にエレベーターがあることを伝えたところ、狭いところが苦手なもんで、と振り返って笑った。
小山内を見送って部屋に戻った悠人は、テーブルに座って先ほど脳裏によぎった思い付きについて考えた。確かな根拠などない、今手元にある情報の断片を連想で無理やりつなぎ合わせただけの乱暴な推測。しかし、1度考え出すと気になって仕方がなかった。なぜ教授はあの時外にいたのか。教授とオンライン面談をしたあの日、教授は車の中にいた。そしてそのあと、悠人と電話をした際には屋外を歩いているようだった。出先で用事があるからと教授は言っていた。用事とは何だったのか。悠人たちには何も関係がないものかもしれない。しかし、どうしても考えてしまう。もし教授がうちの近くに来ていたんだとしたら。梨沙がドアホンの画面に映るあかりちゃんを見たのは、俺が外で教授と話している最中だった。梨沙に聞かれないようにと言って悠人を外におびき出し、電話をしている間にドアホンにアクセスして梨沙にあかりちゃんの映像を見せる。教授ならそれが可能なのではないか?
悠人は教授との電話の間中ずっとマンションの前の公園にいたが、教授らしき人影は見かけなかった。しかし、悠人から見えていたのはマンションの正面だけだ。もしかするとマンションの裏手にいたのかもしれない。そちらは道路に面している。教授の電話越しには車が走る音が聞こえていた。辻褄は合う。いや、無理やり辻褄が合うようにこじつけているだけなのだろうか?
ひととおり考えてみたものの、確証と言えるものはなかった。そもそも、教授がなぜそんなことをする必要があるのだろうか。利堂の場合については、梨沙に暴力を振るっていた利堂を梨沙から離れさせるために行ったと考えることができる。自分の被験者である梨沙を守ろうとしたと考えれば、一応説明は付く気がする。しかし、今回については動機が分からない。梨沙を追い詰めて、教授に何の得があるというのか。それに、教授は電話で今回の件は人間の仕業だと考えていると言った。梨沙が思い込んでしまっているように、霊の仕業だと言ってしまった方が疑われるリスクは低くなるのではないだろうか。どうしてわざわざ自分から真相に近付くようなことを悠人に言ったのか。利堂のせいにしてしまえると考えたのだろうか。悠人が利堂に会いに行くことまでは想定していなかった?
はっきりとした証拠がないため、悠人は考えても考えても確信には至れずにいた。馬鹿げた妄想だというような気もするし、筋は通っているような気もする。推理を裏付けるものはないが、きっぱり否定するだけの材料もない。なぜ教授が犯人だという考えをこれほど捨てきれないのだろうか。そもそも、今回の事件については疑わしい者が限られている。梨沙の個人情報を把握しており、あかりちゃんの事故についても詳細を知っている人物。そして、利堂が梨沙と暮らしていた時に既にその情報を知っており、利堂に攻撃を仕掛けることができた者。現状、悠人が把握している中で、これらの条件に当てはまる人物は教授しかいなかった。信じたくはないが、1度この可能性に思い至ってしまうとすべてがそのように見えてきてしまう。
しかし、なぜ教授がこんなことを? 結局そこで行き詰ってしまう。教授の目的は一体何なのか。これまでのやり口を考えると、それが何であれ梨沙にとって良いことではないはずだ。目的……。悠人にまたしても嫌な予感が走った。利堂は、梨沙と別れたらおかしなことが起こらなくなったと言った。これは、犯人が梨沙と利堂を別れさせるという目的を達成したから、利堂へ働きかける必要がなくなったためだと推測した。それでは、今回は? 梨沙は実家へ移ってから不審なことは何も起こっていないと言っていた。これは、犯人が梨沙の実家にまでは手が及ばないためか、もしくは次の攻撃までのインターバルかと思っていた。しかし、もしも犯人が既に目的を達成していて、梨沙を追い詰める必要がなくなったのだとしたら? もしも教授の目的が、梨沙を自分のところへ連れてこさせるためだとしたら……。わざわざ俺に用事がある日を指定したのは、俺が邪魔だから……?
悠人は勢いよく立ち上がり、車のキーを持って部屋を飛び出した。
◆
梨沙は深く息を吸い込み、そして数を数えながらゆっくりと吐いた。大丈夫、ここはヴァーチャルの中だ。現実ではない。目を閉じて何度も自分に言い聞かせ、平常心を保とうとする。
ゆっくりと、梨沙は目を開いた。改めて周りを見回してみたが、やはり梨沙以外には誰もいない。
梨沙は川縁のサンダルを見つめた。これは先生がしていることなのだろうか。ショック療法、とか? けれども、さっきから応答が全くないのはおかしいし、先生が黙ってこんなことをするようには思えない。やはりこれは、あかりが・・・・・・?
ここ数日、実家でずっと考えていた。もし、次にあかりが現れたらどうするか。これまでは恐怖で何もできなかった。ただ逃げることしかできなかった。でも、それじゃ何も解決しなかった。何か、自分から動かないといけない気がした。だからずっと考えていたけど、正直、今も答えは出ていない。もう1度あかりに会えれば、何かわかるだろうか。梨沙は、サンダルの方へ向かって足を踏み出した。恐怖はある。お腹の子のためにも無理はできない。それでも、今は進むしかない。
川縁まで来て、梨沙はサンダルを見下ろした。拾い上げて、月明かりにかざしてみる。暗くて色までははっきりとわからないが、やはりあかりのサンダルだ。梨沙は周りを見回した。あかりの姿はない。川に目を凝らしてみる。川面は黒く、水の中は全く見えない。梨沙は1歩だけ川の中に足を踏み入れてみた。ヴァーチャルだが、リアルな冷たさを感じる。深さも判然としないため、さすがにこれを渡って向こう岸に行くことは躊躇された。
引き返すしかないか。そう思って梨沙は川に背を向けた。次の瞬間、梨沙は右足首を川の方へ強く引っ張られ、腹を下にしてその場に倒れ込んだ。突然のことに梨沙の頭は真っ白になった。何者かが梨沙の足首を掴んでいる。梨沙は凄まじい力で川の方へ引きずられた。必死で砂利に爪を立てて抵抗しようとするが、ズルズルと川の方へ引き寄せられていく。
「誰か!!」
声を上げても助けは来ない。水は梨沙の腰辺りまで来ていた。梨沙は水の中で必死に足をバタつかせた。自分の右足首を何度も何度も逆の足で蹴る。胸まで水に浸かったところで、足首を掴んでいた手が離れたのを感じた。
梨沙は急いで川から這いずり出た。水が届かないところまで逃げ、川の方を振り返る。すると、川の中から骨張った腕が現れ、砂利を掴んだ。腕で体を引き寄せるように、ずるり、と水に濡れた少女が川から這い出てきた。瞬間、強烈な腐臭。梨沙は体が硬直して動けなかった。少女はゆっくりとこちらへ近付いてくる。濡れた髪の間から見えた左目は見開かれ、瞳は不自然に左上に寄っている。少女は瞳が梨沙を真正面に捉えるように、首をぎりりと回した。少女と目が合った瞬間、梨沙は立ち上がって森へ向かって走り出した。
体が冷たく、思うように動かない。動悸で息が苦しい。それでも梨沙は懸命に走った。森までたどり着き、来た道を走って戻る。さっきのは一体なに? あれは、あかりなの? あんな・・・・・・あんなのが・・・・・・。
梨沙は振り返らずに木々の間を走り続けた。体が重い。いつの間にか、梨沙のお腹が大きくなっていた。足はもつれ、腕も上がらなくなってきた。肺が痛くてうまく息が吸えない。それでも梨沙は走り続けた。
道は段々と細くなり、枝をかき分けながら進まなければならなかった。少しでも川から遠ざかろうと必死で走る。枝が重なって先が見えない。手を前に突き出して枝を折る。視界が開けたと思った瞬間、足の下に地面がなくなり、空を踏んだ梨沙は崖を転がって川へ落ちた。
パニックになりながらも、梨沙は明るい方へと向かい、水面に出て息を吸い込んだ。どうして、また川に・・・・・・。しかし考えている余裕はなかった。梨沙は川岸へ向かって必死に水を掻いた。もう少しで足が底に着きそうだというところで、梨沙は水中に引きずり込まれた。先ほどの少女が、梨沙のお腹に抱きついていた。梨沙は少女の腕を掴みながら足を蹴り上げて何とか引き離した。離れる瞬間、少女の爪が横腹に食い込んで鋭い痛みを感じた。
何とか川から上がり、梨沙は砂利の上に仰向けに寝転がった。早く逃げなければと思うが、もう体が動かない。ビシャ、と川の方で音がした。ズルズルと這いずる音が近付いてくる。梨沙は少しでも遠ざかろうと砂利を蹴ったが、動くことはできなかった。足のすぐ先に腐臭を感じる。梨沙は砂利を両手に握った。
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