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映画『犬王』に全くノレなかった話

粗筋 琵琶法師の友魚(ともな)、猿楽踊りの犬王。室町の都で、二人の少年は出会い、「友有座」を結成する。
 型破りなパフォーマンスをする友有座は、保守的な同業者らから疎んじていた。しかし人気は昇り調子、遂には将軍ご高覧の機会を得る…。


 映像表現「は」、大変素晴らしいです。 

 触知したモノ/音の移動によって表現される、盲人の「視界」。歪んだ視界/異形の体がもたらす、躍動的なアクション。どこまでも自由で奇抜なロックオペラがあるかと思えば、御殿/能舞台/漁村の風景はシックな佇まいを見せる。画を見ているだけで幸せになれる。なれるのだが…。

 ドラマが薄い。「ライブ感を楽しむ映画なんだ!」と言われたらそれまでだが、両者は相容れないものでもないだろう。単に話がうすあじなんだ、コレ。
 ミュージカルとストーリーの大きく2点に分けて、萎えポイントを述べていきたい。

ミュージカル部分

曲と場面がシンクロしない

 歌に(歌い手個人の)感情が乗ってこそ、ミュージカルは盛り上がるものではないか?それまでの展開・過去に味わった悲しみや苦悩が、歌詞や踊りに反映されていればこそ感動出来る。

 確かに『犬王』における楽曲は、どれも平家物語に材を取っている。だが既存曲を用いたミュージカルでも感動出来るように、やりようはある。演出側が寄せれば良いのだ。 

例えば『腕塚』という曲。せっかく冒頭で、海にて父親が死に友魚も盲目になる下りがあるのだから、それと絡めないのは勿体ない。

腕を斬り離せば/しがみつくな!/身分だけが正しさ/渚に打ち上げられた/あぁここは腕塚

作詞=薔薇園アヴ

こういったオイシイ歌詞は、映像的に伏線を張ってミュージカルで回収すべきだろう。室町時代の聴衆にとっては一ノ谷の合戦だとしても、映画の観客には違う。友魚の過去を知ればこそ「あの過去があったから、曲として昇華出来たのだな」と伝わるものを。

「ディティール溢れる嘘」がない

 どの分野においても、パイオニアを描く話は面白い。とりわけ、犬王は後世に詳細の残っていない者だ。それこそ今作がロックスターと描いたように、どれだけ法螺を吹いてもいい。…いいのだが説得力がない。(映画的な)リアリティを補強する、ディティールが足りないのだ。

 例えば音楽。『犬王/壱』で、第一声を乗せる音がモロにエレキギターでズッコケる。友魚改め友有が弾くのは、琵琶だ。出せるワケがない。
 ベストなのは、和楽器オンリーでロック調の曲にすることだろう。そうでなくともイントロは純和楽器で、徐々に音を増やしサビでは完全にロックへと変貌するという編曲もあった筈だ。
 或いは、楽しい嘘を付いて欲しいのだ。フツーの一枚板の琵琶ではなく、巨木の中を繰り抜きアコースティックギターにする。側板から管を伸ばして太鼓へと導き更に音を増幅させる、とか。なんやかんや「見た目は琵琶なんだけど、アンプとスピーカーから出てるとしか思えない音」にして欲しいのだ。

 舞台演出についても同様だ。(ストーリーやキャラは全く評価してないが)『SING:ネクストステージ』は、ここが上手かった。
 こまごまとした仕掛けが全て、現実的なのだ。糸で釣られた星やガラス板、せりあがる床、衝撃で弾ける衣服やスパンコール…。総体の見栄えはファンタジックなのに、個々を見ると「ワンチャン可能じゃね?」という気持ちになってくる。

『犬王』は後半に行くにつれ、どんどん現実離れしていく。水面から七色のサーチライトが放たれ、なんか龍が召喚されてバシャ―っと空を飛んでいく。
 友有座のメンツがいつの間にかヌルっと増えているのだが、彼らの使い道はここではなかったのか。身分社会の埒外にある河原者たち、その一芸を拾い上げて舞台芸術へと結集させていく。大工・皮革・奇術・人足…それらの技術をモンタージュなりで見せれば、成り上がりものとして厚みが出たのだが。

詩行「以外も」見せてくれる歴史if漫画

構成が単純に上手くない

 全曲フルコーラスで、観てて辛い…
 『犬王/壱』~『犬王/参』までの5曲が切れ目なく、フルコーラスで続く。曲が連続するのだから当然ドラマは停滞する。先刻「曲と場面はシンクロすべき」と書いたが、ドラマが停滞するのだから曲ごとの味わいが変わるべくもない。画ヅラが楽しければ不満も出ない筈だが、『腕塚』『犬王』は単調な動きの繰り返しが続くので、ダレ感も強まる。
 ミュージカルにおいて、「リプライズ」はアガる演出だ。一度使った曲を、調子を変えてもう一度繰り返す。その変化によって、状況や心情の変化も示される。『犬王』もサビで早々に切り上げて時間を空けてから配置すれば、観る側の印象も変わった筈だが。

ストーリー面

異端児設定の割には…

 芸能者という社会階層の埒外にあり、更にそこで異端視される二人。盲目/異形という設定の割には、友有/犬王には「陰」がない。両者とも天真爛漫なまま将軍ご高覧にまで突き進む。
 苦悩を苦悩と意識しないから、挫折や障害をバネに芸に昇華する姿もない。中性的なルック、観客のレスポンスを誘うパフォーマンス、大胆な舞台装置…。動機が描かれないため、物語上の必然性がない。絵面が刺激的になるから/主演がアヴちゃんだから/型破りと言えばロックだから、というメタ上の要請が透けてしまう。
 ドラマ性がなく、見せびらかしとしてのアニメーションに堕してしまうのだ。

それって結局才能論だよね

 それでは、創意工夫も地道な積み上げもない友有座はなぜ成功したのか?犬王の父であり比叡座の主でもある男は、なぜ真奥に至れなかったのか?霊能力の有無である。…そっかー。
 友有は幼い頃3種の神器の呪いに遭い、父親の霊を始め平家の霊が見えるようになった。犬王は父親が悪魔の取引をしたため、呪いを身に受けて生まれた。行動や選択の結果として、表現者たりえたワケではないのである。
 なにも努力至上主義は唱えない。それでも、もっと上の芸術家に鼻っ柱を折られて挫折するとか、従来の考えとは違う視点をもって成長するとか、ドラマの起伏がないのだ。才能「+@」がいっこも見えない。 

もやもやラスト

 だが、才能=呪いこそがテーマなのかもしれない。ラスト15分は、友有座の没落が始まる。
 将軍の覚えめでたき犬王、だが突然に友有との交流を禁じられる。将軍家の威光を増すため、「正本」平家物語の編纂が進んだ。そのため友有の描く「異聞」は邪魔になったのだ。固執する友有は斬首される一方、将軍に阿諛佞する犬王は生き残った。彼の芸術は、後世に残らなかったが…。

 展開としては面白い。平家物語に拘り続けた友有は死後600年留まり続け、現世利益に妥協した犬王は忘れ去られる…。一見、筋が通っているように見えるのだがひとつ問題がある。後世の歴史だ。
 我々観客は、友有なる者を知らない。また同様に、世阿弥を知らぬ者もいない。なぜ友有の芸もまた残らず、世阿弥は能楽の大成者として名を残したのか?『セッション』のように「幸せより偉大さ」を提示するのなら、世阿弥には友有を超える「何か」があったことを劇中示すべきではないか?

世阿弥漫画。ドラマがしっかりしてて面白いよ!

 フィクションだからガタガタ喚くな、そんな割り切りも出来る。だが、冒頭とラストでわざわざ2度も、現代と室町の往還を描くのだ。友有/犬王と我々は地続きであると強調する以上は、この視点はなおざりにすべきではない。

 ラストで、友有(芸の妄執)は仮面の犬王(無邪気だった頃)と再会する。「友魚」(同じく無邪気だった頃)と呼ばれ妄執から解放され、二人は成仏する。「何となくハッピーエンドだから丸く収まったっしょ」ってのは、投げっぱエンドじゃねえかな…。


 繰り返しになるけど、映像表現はスゲーです。でもそれは、ミュージカルとして優れているとか、映画として優れているには直結しない。『シンウルトラマン』と同じで「画はスゲーけど、うん…」って一作でした。


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