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『ハッチング ー孵化ー』

粗筋

 スウェーデンのある一家は、ママが全てを取り仕切っている。「普通の家庭」という建前のもと、SNSに上げるのは机上の理想像。娘のティンヤは母の完璧主義を叶えようと、体操ひとすじに明け暮れていた。
 ある夜、森から鳥の卵を拾って来たティンヤ。卵は少女の涙と苦悩を吸って瞬く間に育ち、醜い怪物が殻を破る。ティンヤはそれに「アッリ」と名付け、子育てごっこを始めるのだが…。


『ラン/RUN』+『スプライス』+『ブラックスワン』でした、M中です。

毒親映画

 ここ数年でトップクラスの毒親映画でした。
 家庭崩壊映画って、
①親の求める価値観(理想)と子供の性向が衝突する
②悪人は誰一人いないのに、最悪の科学反応が起きて歪みが大きくなる
など、大なり小なり「愛」が伴っているもの。この映画では、愛がない。

 冒頭では教育ママぶりを発揮するだけに、「理想が高すぎて子供が燃え尽きる話かな…」と予想させられる。ところがママは、不倫をしていた。暗に問いただしてみるとあっさり認め、肯定さえしてみせる。これが新しい。
 それどころか、(不倫の)恋がいかに素晴らしいか説いてみせ、やがてはヤリ部屋への週末ステイに連れていきさえする。ママは自分が絶対だから、家族愛を語るのと同じ調子で不倫を語る。疚しいと思っていないから、指摘されて逆ギレすることもない。このイカレぶり。

 極めつけが、その価値観にヒビが入ったときの対応。
 不倫相手のテロは(これも目新しいのだが)実はまともな人間だった。イカれたママ、それを黙認するパパと違い、思いやりを以て接してくれる。ティンヤは安らぎさえ感じていた。ところがアッリが原因で関係は破綻し、母娘共々拒絶されてしまう。傷心のティンヤに、ママのかける言葉が

お前くらいは、私を幸せにしてくれると思ってたのに…

えげつねぇ!(誉め言葉)

嘘をつく語り手

 映画というのは、映っているもの/語られる言葉が真実とは限りません。何かを隠していたり、願望の現れだったりする。解釈を多様化させるのが、映画の面白いところです。

ティンヤとアッリ

 アッリはティンヤの鏡像。これは観ていれば、直ぐに気づきます。ティンヤはママに愛されようと、痛みや悲しみを全て押し殺して生きている。
 一方のアッリは、欲望のままに行動する。(新参者の癖にアタシより体操も友達付き合いも上手い)レータを不幸のどん底に突き落とし、(テロと仲良くしてたのにそれを邪魔する)テロの赤ちゃんヘルミを殺そうとする。良い子としてあろうとするティンヤとは、正反対の存在。
 その描き方も象徴的ですね。アッリは単独では行動しない。ティンヤと二人きりで居るシーンでは二人で映りますが、弟マティアス/テロら第三者が目撃するときは、必ず高低差/扉の影によって(彼ら目線では)一人しか映らない

 こういうのは「実は主人公がイカレてました」ホラーでは王道の演出。…なんですが、それだけでは説明し切れないシーンが3つある。
・ヘルミを襲おうとする場面
・レータを半殺しにする場面
・ママとのラストバトル
これらだけは、ティンヤ=アッリ説では説明しきれない。ならば、アッリは物理的に実在しているのか。

ママ

 ママは人気インフルエンサー「だと語られている」。でも、実は分からないんですよね。何故なら、それを裏付ける物証が一切映らない。

・スケートで赫々たる結果を残した→彼女の顕示欲からすれば当然ある筈の、トロフィー類が一切部屋にない
・(人気)動画チャンネルを運営→登録者数/動画再生数をPC画面上で映さない
・大会は生配信→画面越しの映像どころか、スマホに向けて実況する風景もない

それどころか、女性の体操コーチはママに対して非常に冷ややかな態度を取っている始末。パパ・マティアス・テロの御し方を見るに、男を手玉に取る才能はあるのでしょう。でも、実は自分で云うほどには、ママは優れた人間ではないのではないか…?そんな疑問が湧きます。

 先ほど、ティンヤ=アッリでは説明しきれない3点を挙げました。ですが、ママが協力さえすれば全部叶います。口裏を合わせ、車を回すだけ。
 だから訂正するならば、アッリはティンヤのみの鏡像ではなく、ママとティンヤの鏡像なのだ。…そう仮定したい。

家族という呪い、その継承

 アッリは成長するにつれ、ティンヤに近づいていきます。ところが口から頬にかけ、桜色のミミズばれが引きつっている。これ、実はママの体にもあるんですよ。ママの左腿には、長い傷痕が見える。素直に考えればスケート選手としての命脈を絶たれた事故/手術痕なんですが、バケモノを表す傷にも見える。
 この一家、母娘も父子も似た者揃いなんですよ。パパ・マティアスは女連中に比べ影が薄いですが、物語が進むにつれ表情・髪型・服装がどんどん近づく。最終的には同一化してしまう。
 ティンヤは生まれ立てのアッリには慈愛を以て接していたが、自我が育つにつれママとそっくりの接し方で抑圧を始めた。想像ですが、これはママ自身にも起きたことではないでしょうか。彼女もまた純真な子だったが、厳格な(祖)母に抑圧され、卵を拾い、変身を始めた…。

 この映画は、(一見)悲劇的な結末を迎えます。アッリを庇いティンヤは斃れ、アッリは傷を癒して立ち上がる。偽物が本物になり替わってしまう。恐らくは、ママも(純粋な少女が死んだ代わりに)怪物だけが残ってしまった。
 けれどその怪物は、男を支配できる。おぞましいほど利己的だが、種は代々継がれていく。あの『ヘレディタリー 継承』にも似た、祝福に満ちたラストではないでしょうか。床に転がったティンヤは、笑顔を死に顔に浮かべていた。



 実写に拘った怪物造形も見れる!北欧美少女のゲロも見れる!B級好きも納得の映画なので、皆観にいこう!!



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