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小説/雨がやむまで

 それは本当に突然の出来事だった。
 今日は久々に朝から晴天で、「どこか出かけようか」「でも気乗りしないなあ」なんて言いながら、結局僕の家で映画を観ることにしたのだ。「もったいないことしたかな」なんて二人で言いながら、まんざらでもない気持ちで画面の向こうのスプラッタな映像を見ていた。
 昼食を食べて二本目の中盤に差し掛かったあたりで、にわかに窓の向こうの青空が灰色の雲で覆われ始めた。ゴロゴロと威喝的な音が響き、「そろそろ帰ったほうが……」なんて言いながら、画面の向こうで飛び散った臓器の行方を気にして生返事しかできないやりとりが続き始めた頃、突然、室内の明度がぐっと下がり、地面をばらばらと叩きつけるような音がした。そして、薄暗い世界に一瞬の白い閃光が走ったかと思うと、脅迫的とさえ思えるような轟音が響いた。
 僕と彼女は同時に肩を揺らし、思わず見ていた映像を止める。窓の外を確かめるまでもなく、屋根や窓を叩く雨音が暴雨を物語っていた。
「ひどい雨になっちゃった」
 彼女は窓に視線を向けて困ったようにそう言うと、ソファの上で膝を抱えた。窓の向こうでまた白い閃光が走った。
「だから、そろそろ帰ったらって言ったのに」
「だって、どうせなら最後まで見たいじゃない」
 僕が呆れ顔で言うと、不満そうな視線が返ってくる。
「すぐ止むよ」
 彼女はそう言ってそのまま再生ボタンを押そうとリモコンに手を伸ばした。その瞬間、殴りつけるような雷鳴が轟く。彼女は大げさに驚いて、反射的に目をつむり耳を抑えた。
「……雷、苦手なんだ?」
 彼女の顔を覗き込み、意外な一面に揺れた心を悟られないように尋ねる。そうしながら代わりにリモコンの再生ボタンを押した。
「……昔は、苦手じゃなかったんだけどね」
 彼女はばつが悪そうに小さく言った。その様子にまた心が揺れた。
 しばしの沈黙。画面の向こうでは逃走劇。窓の向こうでは篠竹をつき下ろすような雨と、唸り声のような雷鳴。そしてまた、白い閃光が走った。それを視界の端に認めたのか、彼女はまた耳を両手で覆って、思わずといったように目をつむった。一拍おいて雷鳴が忍び寄ったかと思うと、空を割るように轟いた。彼女は心底うんざりした顔で、縮こまった体を揺らす。轟音が去ると、彼女は「はあ」と息をついて、また画面をみた。僕も画面に目を戻す。ちらと横目で彼女を見ればなにやら逡巡するように俯いていた。
「どうかした?」
「どうもしない」
「そう」
「どうもしない、けど」
 そこで彼女は言い淀んだ。僕は静かに見つめる。なんと言おうか迷っていた彼女は、しかし意を決したように掌を差し出した。
「雨が止むまで繋いでてよ」
「雨が止むまでなの」
「うん」
 彼女は、「だめなの」とは尋ねなかった。それは彼女の中に確信的な思いとか打算があるとかではなくて、きっとそんなことを考えていられないくらい、それが彼女にとって大きな脅威だったのだろう。「雷が止むまで」ではなかったことに知らん顔をして、僕はそう思っていたかった。
「いいよ」
 僕がそう言って彼女と同じように掌を上にして差し出すと、困った顔をしながら手を返して僕の指先を遠慮がちに握った。
「それでいいの?」
 服の裾を無意識に掴むくらい控えめに、僕の指に触れている彼女に、思わず破顔してしまった。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
 彼女はぶすくれながらも、ひどく弱弱し気に
「いいの?」
 と確かめた。僕はその指先に力が入らないように気を付けながら
「いいよ」
 と答えた。
 画面の向こうでは銃撃戦が行われている。暴発した弾が発電機のようなものに当たって、建物のそこかしこが帯電したようだ。暗闇をちろちろと気まぐれに電気が明滅する。
「なんか、蛇みたい」
「なにが」
「閃光が走るのが。白蛇みたいじゃない?」
「白蛇は縁起がいいものだけど……あれは触れたら即死だろう」
「蛇だって噛まれたら即死よ」
「必ずしも即死ってこともないと思うけど」
 他愛ないやりとりをしながらそんな場面を二人で見ていると、カーテンの向こうがまばゆく光った。轟音の予感に彼女は再び身をすくめ、共鳴するように指先が震える。指先に触れている彼女の手が、僕の指の付け根まで伸びて、包み込むようにぎゅっと力がこもった。
「もし、嫌じゃなければなんだけど」
 そんな様子を見て問いかける。雷鳴によって俯いた彼女の視線がもう一度交わったとき、僕はそっと繋いだ手を持ち上げた。そして僕の左手はゆっくりと彼女の指から抜け出して、今度は彼女の指を僕の指が包み込んだ。決して絡むことはなく、ただ指先だけをしっかりと握る。
「こっちのほうが、良くない?」
 僕が微笑むと、彼女は「ありがとう」と眉を下げた。
「君は、優しいね」
「そうかな」
「うん」
 短いやり取りが交わされる。僕と彼女の間には人一人分の間。その間で二人の手はしっかりと握られている。 
 これが今の僕らの距離だ。
 雨はまだ強く窓を叩き、いつ雄叫びをあげるともしれない雷鳴が、ゴロゴロと地を這うように吼えている。視線を動かすと、机上のDVDのパッケージが目に入った。僕らが観た一本目のスプラッタ映画だ。ふと、取りとめもない疑問が浮かぶ。
「君は、スプラッタ映画は大丈夫なのに、雷はダメなんだ?」
 彼女は声の調子を上げてはっきりと訴えかけた。
「だって、雷は本当に落ちてくるじゃない。内臓をぐちゃぐちゃにされた人は画面から出てきたりはしないもの」
「なるほど」と、僕は得心して独り言ちた。じわじわと「なるほど」という気持ちが濃くなる。
「だから逆に言えば、雷が本当に落ちるって知らなかった頃は別に怖くなかったのよ。知っちゃったから、怖くなったのよね」
 僕は少し間を置いてから、おもむろに口を開いた。
「学習は、人間が脅威に立ち向かうために身に着けた武器のはずだけど、知ることが弱点になることもあるんだよね」
「でも、この場合は正解なのよ。本当に落ちるって知っているからこそ、逃げるようになれるんだもの」
「死なないためには必要な知識だ。でも……」
 僕がその続きをどう言葉にしようか迷っていると、彼女がおもむろに言う。
「でも、死なないことと生きることって、たぶん違う。と、私は思う」
「そう。僕も、それが言いたかった」
 僕は大きく頷いて彼女を見た。音が重なり調和して奏楽が響くような心地良さが胸に広がる。彼女はそのまま丁寧に一つ一つ言葉を紡いだ。
「空を裂く光を美しいと思ったことも、体に響くような音にわくわくしていたことも、嘘ではないのに」
「大人になったらどうしてか否定してしまう。死なないこと……現実問題を考えることだけに一生懸命になってしまうんだろうな」
「うん。でも私も、どちらか一方に振り切る必要はないって分かってるのに、それでも雷が怖いと思うようになってしまった。私だって、昔は雷にわくわくしてたのに」
「……知ることは処世術だ。でも、知らなかった頃には戻れない」
「それ、誰の言葉?」
「僕が常々思ってること」
「なにそれ」
 言いながら、彼女は声を立てて笑った。少しだけ、気持ちがほぐれたみたいだ。なんだか、温かな心地がした。
「でも、たしかに。知ってしまったら、知らない頃には戻れない。忘れることはできても」
屋根を打つ雨音が間断なく続き、窓の外では稲妻が閃く。唸り声のような雷鳴が響くと、いつ轟音が落ちるかと彼女が身を竦めた。人一人分空いた彼女との距離がもどかしくなって僕が口を開きかけると、それより早く彼女が僕に訊いた。
「ねえ、隣にいってもいい?」
「もちろん」
 僕が答えると、彼女はそっけない口調に安堵を滲ませながら「ありがとう」と言った。繋いだ手は離さないまま、僕は右手でDVDのパッケージをどかす。彼女がぎこちなく身を寄せると、震えた肩が触れた。雷雨に包囲されたこの状況に、よっぽど緊張しているのだろう。けれど彼女はすぐに自嘲するように言った。
「面倒くさいでしょ」
「なにが?」
僕が聞き返すと、彼女はその返答が意外だったかのように言葉を紡いだ。
「私、こうやってなんでも一つ一つ確かめたがるから」
「大事なことだよ」
 僕が思ったままを口にすると、彼女は首を振った。
「ただのエゴよ」
 冗談まじりのトーンで呟いて、彼女は俯いていた顔をあげた。
 僕はそんな彼女に、どう伝えればいいのか少し悩んで言葉を選ぶ。
「……ピカソってすごいと思うんだよね」
 脈絡のない発言に、彼女が訝し気に僕を見た。構わずに続ける。
「ピカソは自由闊達な絵が有名で「なにがすごいのか分からない」なんて言う人が多いけど、彼の素描や若い頃の絵を見ると高い画力があるのは明らかだ」
 雨は弱まることなく降り続いて、まるで僕らをこの場所に閉じ込めているみたいだった。ほんの少しだけ彼女を包む手で指先をなぞる。彼女は特に嫌がりもせず、されるがままだった。
「それでもあんな風に子どもの落描きのように、大胆で、自由で、のびのびとした絵を、彼の強い想いをのせて描くことができる。それって本当にすごいことだと僕は思うよ」
 自分が思っていたより饒舌になっていたことに気づいて、少し気恥ずかしくなる。これは別に専門書を読んで得た知識ではない。僕の素直な感想なのだ。けれど彼女は僕の話を静かに聞いて、すぐに彼女らしい意見を返してくれる。
「たしかに、知ってしまったら知らない頃と同じように世界を見ることはできないよね。ほら、ローマ字の読み方が分かったら分からなかった頃みたいには認識できないじゃない。……そういうことで合ってる?」
「うん、そう」
 僕はこれが、どうしようもなく、無性に嬉しい。
でも、これは僕の都合だ。本旨から少し逸れたものを、僕の好きなものを彼女も楽しんでくれた。でもそれを喜びたくてこんな話をしたわけではない。
 僕は少し冷静になる。けれど、隣から麗らかな陽ざしのような柔らかい笑い声がした。
「ふふ、楽しい」
 僕はまた浮足立ちそうになる心を抑えながら、努めて冷静に柔らかく笑って返す。
「それなら、良かった」
 いつの間にか映画はエンドロールが流れていた。階段を駆け下りていくドミノのような疾走感と不安感を孕んだピアノの音階と、コウモリが飛び立つような不気味なギターのメロディが繰り返される。
 そちらに視線を向けた彼女を引き止めるかのように、僕は口を開いた。
「つまり、何が言いたいかって言うと」
 彼女は僕がそう続けることを予想していなかったのか、首を傾げながらこちらを見る。
「知ることは大事だけど、絶対に立ち戻れないというリスクがある。だから、何を知りたくて何を知りたくないか、確かめることはすごく、大事なことだと思うよ」
 僕がそう言うと、彼女は一瞬驚いたような顔をして、それから少し困ったように破顔した。
「君は、やっぱり優しいね」
「そうかな」
「うん」
 ごうごうと降る雨は止むことを知らない。けれどいつの間にか、雷鳴は聞こえなくなっていた。触れた彼女の肩はもう震えていない。
「ねえ、肩借りてもいい?」
「どうぞ」
 思いがけない提案に一瞬呆けたけれど、僕の返事を聞くと彼女はゆっくりと頭を肩に預けた。それは初めに触れた指先と同じくらい、ひどく控えめだった。でも、今はこれでいいと思えた。
 彼女は困ったように、不思議そうに、でも穏やかに呟いた。
「私が誰かに一足飛びで踏み込まれたくないから、相手にもそうしちゃう。それだけなのに」
 彼女の視線が少し上を向いて、僕のそれと絡む。そんなことを言いながら、縋るような眼差しをする彼女が好きだ。でも、今はまだ。
 愛おしさを心の引き出しに大事にしまって、できるだけ穏やかな声で「でも」と静かに口を開いた。
「待つの嫌いじゃないから、いいよ」
 僕の言葉に、彼女の瞳の奥で揺れていたものが安堵に綻んだ。
 彼女はきっと、分かっていてその目をする。そう思うのは自惚れだろうか。
 でも今は、そんな顔を見せてくれるようになったことが、ただ嬉しい。

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