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僕の心のKocorono

北海道留萌(るもい)市

るもいとは「潮汐が・静か・でいつもある・もの(川)」を表す「ルㇽモオッペ(rur-mo-ot-pe)」を意味するアイヌ語である(Wikipediaより)。

1980年代の終わり、その北海道北部の海沿いの小さな田舎町で、とてもユニークなバンドが誕生した。

そのバンドの名前は、Bloodthirthty Butchers(血に飢えた虐殺者)。

ちなみに、このおどろおどろしいバンド名は、1970年に上映されたアメリカのカルト映画のタイトルから取られたものである。で、この映画は、

「殺人鬼の理容師とサイコパスのパン屋が共謀して人を殺し、人肉入りのパイを作る」

という話らしい(見たことないけど)。

しかし、タワレコもねえ、ツタヤもねえ、外人なんてまったくいねえ、

そんな文化果つる北の僻地で、そんなマニアックな映画をバンド名にする彼らの音楽性を、一言で形容するのはなかなか難しい。

ただ誰でも分かる特徴が一つだけある。

それは彼らがライブハウスで奏でる音が、

ルモイ=「潮汐が・静か・でいつもある・もの(川)」

とは正反対の、鼓膜が破れるほどの轟音だった

ということである。

とても繊細で抒情的な歌詞も、とても美しいメロディーもその轟音ですべてきれいさっぱりかき消されてしまう。

でも、もったいな、くはない。

だって、それこそが彼らなんだから。

しかし、あろうことか、彼ら(特にリーダーの吉村秀樹)は、そんな姿のまま、本気で売れようとしていた筋金入りのウツケモノでもあった。

例えばメンバーの田口ひさこ(元ナンバーガール)は自分が2002年に加入した時の驚きをこう述懐している。

「えええええ!(こんな好き放題やってるくせに)、この人たち、マジで売れようとしてるんだ!笑」

しかし、日本のロック名盤投票で必ずランキング入りするような傑作アルバム「Kocorono」を生み出したり、LAで偶然、彼らのライブを観たRage Against  the Machineからのラブコールで彼らの日本公演のオープニングアクトを務めたり(しかし、心無い観客からのヤジの洗礼を浴びて、彼らにとっては非常に悔しくて苦々しい体験にもなった)、マニアックなロックファンの間では、知る人ぞ知る「生ける伝説」みたいな存在になったが、セールスの方はさっぱりだった。

むしろ年々、下降線を辿ってすらいた。かくいう僕も、どうしてもある変化に対する違和感が拭いきれずにずっと離れていた時期がある。

彼らのドキュメンタリー映画、その名も「Kocorono」では、

バンド後期のそんな彼らの生々しい姿を目の当たりにすることができる。

例えば、畳敷きのチェーンの居酒屋で、他の酔客のガヤガヤとした喧騒の中、事務所の社長がこう彼らに向かって切り出す。

「景気のいい話じゃなくて申し訳ないけど、このままでは(給料を払えないから)マネージャーの彼女に辞めてもらうしかない」

悔しさとやるせなさを表情に滲ませながら、ただただ頷くことしかできないバンドメンバーたち。

居酒屋から出た吉村は、タバコの煙と一緒にこんなふうに自分の本音を吐きだした。

「上の人からそう言われたら、切ないよね。でも、バンドをやっていくことはひとつの俺の(生きる)理由なんだよな。だから、続けるためにオレも何か仕事に就くことを検討しないといけないかもね」

彼の唯一無二の才能に心底、惚れ込んだファンの一人だった僕も、こんな弱々しいことを言う彼の姿を見て胸が切なくなった。

確かに、僕も、今までにいろんなロック、音楽ファンの知り合いにに彼らをオススメしてきたけど、誰一人として共感してくれなかったから、残念ながら、彼らはこのままじゃ売れないんだな、とは思っていたけど。

でも、その一方で、熱狂的なファンは僕以外にもたくさんいることは、それこそライブに行くと分かったから、彼ら自身はそれでもう充分満足しているものだとばかり思っていた。

でも、真相は真逆だった。

彼らのライブに衝撃を受けて渋谷系から一転、ラウドロック界隈に急接近した會田茂一(アイゴン)は、吉村から言われたある言葉について、こんな風に回想をしている。

「まだ世の中に分かられてない。なんで俺の音楽は分かられてないんだ。ってよく言っていたよ。いや、十分もう分かられているのに、そんな風に考えてるんだ、とそのときのオレは思ったけどね」

そのジャイアンみたいな風貌のとおり、吉村秀樹は

とても頑固で、不器用で、そして、とてつもなく傲慢な人間だった。

だって、何一つリスナーに迎合することなく、ありのままのいびつな自分をそのまんま丸ごと認めさせようとしたのだから。

そして、当たり前だけど、その試みはことごとく失敗に終わった。

かくいう僕も、先ほども言っていたとおり、一時期、全くフォローしなかった時期がある。

それは、ある路線変更が原因で、実はベースの射守矢雄も僕と同じ違和感を抱いていたのをこのドキュメンタリーで初めて知った。

そして、みんな良くも悪くも大人になり、いつしか、売れないことに苛立ちを示すのは吉村一人だけになっていた。

そして、その苛立ちの矛先は、バンドメンバーたちにも向けられ、そのせいでスタジオはたびたび険悪な空気に包まれる。

「いつ死ぬかも分からないからこそ、なにくそと思ってやるんだよ」

「これは、オレのリベンジ、復讐なんだ」

「生きていくしかないんだ、なんとか。ぶっ殺したい!でも、こんな風にいじけてもいるけどね。」

「まだまだ新しいものを生み出したい。くたばらねえぞ」

「このバンドにしかない使命感があるんだよね。」

「伝説になっちゃいけないんだ。ということは生きなきゃいけないんだよ」

etc.

本当にこの映画に出てくる吉村の言葉は、どれも余裕がなくて痛ましくて聞いていて辛くなるものばかりだ。

まさに悟りの境地とは対極の人である。

けれど、「ヨーちゃんには参ったなあ」と困ったような嬉しいような表情を浮かべながら、バンドメンバーは、そんな彼と共にする運命を静かに引き受けていた。

まるで「潮汐が・静か・でいつもある・もの(川)」、あの留萌(るもい)のように。

そう、彼はずっと愛されていたのだ。

いびつなありのままの自分を、ね。

そう、本当は、彼は、自分がずっと求めてやまなかったものをすでにその手中に収めていたのかもしれない。

そして、彼自身、間違いなくそのことに気づいていたし、だから、心の中では、

こんな自分でごめんね

ってずっとみんなに謝っていたんだと思う。

映画のラストシーン、観客いや、自分の周りの全ての人たちに向かって、吉村はこう宣言する。

「(これからも)人に迷惑をかけるかもしれないですが、人に迷惑をかけるかもしれないですが、人に迷惑をかけるかもしれないですが、よろしくお願いいたします」

そして、彼が自らの人生の終止符を打つのは、それからわずか2年後のことである。

しかし、誰がなんと言おうと、それは最高のハッピーエンドだった、と僕は思っている。

そして、それを証明するために、僕もまた懲りずに今もこうやって書き続けている。


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